誘い誘われ調べもので引き籠っていた図書室から自室へ戻る道すがら、魔法舎の窓から見える太陽の位置で既に正午を過ぎたことを知る。昼食を終えたこの時間帯は思い思いに過ごすことが多く、自主的に訓練を行う者、外へ出かける者、身体を休める者と様々だ。ファウストは引き籠り場所を自室に変え、次回の授業の準備をするつもりだった。
「……」
ドアノブに手をかけたところで、一度開けられた痕跡があることに気付く。自室だというのに音を極力たてないよう努めてそっとドアを開けば、しん、と暗く冷えた空気に包まれた室内の隅、出てくる時は空だったベッドに山が出来ている。
「……ネロ、寝ているの」
解いた空色の髪を枕に散らし、ネロは死んだように静かに眠っている。
何も無ければのんびり過ごすことを好むネロがファウストの部屋を訪れるようになったのは、ファウストが提案したからだ。
訓練で小腹が空いた、おやつのリクエストがしたい、依頼があるから早めに夕食を済ませたい、等々。ネロの元には何かと人が集まるもので、ネロ自身、それを拒むことはしないものの、ファウストの方がひっきりなしに訪れる彼等に内心むかついてしまったのだ。
彼は東の魔法使いで、僕の生徒で、便利屋じゃないんだぞ、少しくらい休ませてやったらどうなんだ、と。
陰気な呪い屋の部屋に突撃してくるもの好きはそうそういないから、避難先としてはうってつけだろう。さも名案だと言うように提案し、「どうしても休みたい時は部屋においで」と生徒を気遣う先生心に下心を隠してネロを誘い込んだ。
ネロを皆から隠してしまいたい、僕だけのところに居てほしい。
虫を誘い出して捕らえる植物の蜜に似た、どろりとした独占欲を帯びた下心は、好意と呼ぶには少々粘度が高くファウストの心にへばりついている。
──それにしても、無防備すぎないだろうか。
以前は借りてきた猫のように縮こまり、ドアを開ければすぐに眠りから覚めるほどには警戒心を露わにしていたネロが、今では急所の首に触れても起きやしない。ファウストだから安心しているのか、ファウストが自分を襲えるはずがないと思っているのか。どちらにせよ、ネロほど他人の心情に敏感な男がファウストの下心に気付かないはずがなく、分かってやっているのならやっぱり手癖の悪い男だな、と思う。
「……あんまり無防備にしていると、そのうち食べちゃうよ」
「食べてくれねぇの」
いつの間にか目を開けていたネロは、目を見開いたファウストを見て、甘えるように枕に頬をすり寄せて口角を緩めた。きゅ、と細めて見上げてくる瞳は、群青色の部分がより良く見えて夜の気配が広がっている。年下のような幼さを見せる挙動と、年上の色香を見せる眼差しのアンバランスさが恐ろしい。
「あんた、案外我慢強いんだな」
もっと早く手を出すかと思って待ってたのに。
ファウストの瞳の奥底を覗き込むような視線は、心の奥底も当然のように見透かして暴いてくる。
──やはり、気付いていたか。
バレていたのなら、ここからはどちらが先に我慢できなくなるかの一騎打ちだ。蜜を撒いて誘い出して、寄ってきた蝶を待ち構えたように食うのはあまり上品ではない。寧ろ蜜を撒かされたのはファウストの方かもしれなくて、ネロは、ほらやってごらん、と誘うようにひらりと振舞っている。
我慢強さには自信があるけれど、さて、ネロの手腕がどれほどのものか。お手並み拝見させていただきつつ、ネロから「我慢できない、食べて」と言わせたい。これでも負けず嫌いなのだ。
「僕の腹が空くまで、いい子に我慢できるかな」
そう宣戦布告したファウストに、「残念」とネロは笑った。