Duetto appassionato「……ああ、いい音になった」
白黒の鍵盤を幾つか鳴らしながら、ファウストは道具を片付けているネロに礼を述べた。
ネロに依頼をするようになってからもう随分と経つが、このピアノが狂ったことは一度も無く、持ち主に似て随分と彼に懐いているようだ。腕の良さは勿論のこと、ネロと過ごすこの時間がファウストにとっては得難い時間で、まるで自分もメンテナンスされているような心地よさを感じている。
「本当にいい腕をしているよ」
「買い被りすぎだって」
「そんなことない」
謙遜がすぎるネロを諫め、はいはいとネロが少し照れるまでがいつもの流れだ。少し耳が赤らんだのを見届けてから、ファウストは再び鍵盤を見つめた。
つるりと美しく磨かれた白と黒が規則正しく並ぶ。綻びもずれもないその様子に、先ほど確認した調律具合を思い起こす。
――本当に、良すぎるくらいだ。
ネロは、今まで出会った調律師達とは一線を画す存在だった。
もちろん全員優れた調律師であったが、ネロは、技術者というよりも奏者側の色が強い。調律にはその楽器の演奏者に不自由がないよう、最も気持ちよく奏でられるよう、細心の注意が払われている。しかし、調律師は奏者ではなく、奏者は調律師ではない。両者が異なるからこそ必然的に生まれるギャップは、必ず僅かな音の違いや、鍵盤のタッチといったかたちで付き纏うものだった。
ネロには、それが一切ない。痒い所に手が届くどころではないのだ。もはや痒いところの存在すら気付かない程に、まるで自分で自分の楽器を整備しているような感覚に陥る。
「……ひとつ聞いてもいい?」
いいよ、と答えるようにネロは道具入れのケースを閉め、椅子に座るファウストの傍に歩み寄った。どうしたのと小首を傾げる様子に、心の中に少しだけ不穏な音が鳴る。
今から聞くことは、ネロのアキレス腱に触れるかもしれない。
仕事仲間で、友人の調律師。もしかしたら、明日からは真っ黒に塗りつぶされて絶交されるかもしれないけれど。
「どうして、きみは調律師になったの」
弾けるんだろう。
そう問いかけたファウストに、ネロは困ったように微笑んだ。
ネロをファウストに紹介した人物に聞いたところによれば、彼は元々ファウストと同じ奏者側の人間だったという。出身の音大も、相当名の知れたところではないかと驚愕したのを覚えている。けれどコンクールやリサイタルでネロ・ターナーの名前を聞いたことが無く、同業者であるはずのネロの存在を全く知らなかったのだ。
怪我をしたのか、何か別の要因があったのか。
もしかしたら同じ道を歩めていたかもしれない未来を、ファウストは密かに惜しんでいる。
「笑わない?」
まるで何か悪いことをしたような表情を浮かべているネロに、「笑ったりなんかしないよ、約束する」と返せば、ややあって、ネロは教会で懺悔するようにぽつぽつと語った。
「アナリーゼは過去と作曲家との対話、演奏は楽器との対話だ。前者は極論、脳があればできる。でも後者には、心が必要だ」
喜び、怒り、哀しみ、楽しみ……心を楽器へとぶつけ、返事が音となって返される。それにまた返事をするように心をぶつける。
指先から身体全体を使って、楽器と心のやり取りをする。
それが、演奏するということ。
「でも俺、空っぽでさ」
込めるものが無く、込めることそのものも分からなかったのだという。
曲が分からない、弾き方が分からない、込める心が分からない。それらは奏者の誰もが必ず何度も味わう行き止まりだ。突破口が見つからず、迷子のまま、この道を去る者をファウストは沢山見てきた。
「何も感じないのに、指だけがうじゃうじゃ動くのが、なんか、きもちわるくなっちゃって」
逃げたんだ。
ぽろん、と低音階を消え入りそうな音量で鳴らしたように呟いたネロは、自分の手をしきりに擦っては握ってを繰り返している。その時の感覚が今も抜けず、まだ彷徨い続けているかのような姿に、ファウストはたまらずネロの手を掴んだ。
「……ネロ、こっちにおいで。連弾しよう」
そのままネロの手を強引に引き、隣に並べた椅子へと導く。突然引き寄せられてたたらを踏みつつも、ネロは大人しく椅子に腰かけた。
「突然なに……?」
「動物の謝肉祭……フィナーレなら丁度楽譜もあるし、弾けるだろう?」
「いや、弾けるけど……」
「僕は好きに上を弾くから、頑張ってついてきて」
「あんたの超絶技巧についてこいとか、鬼かよ」
ほらいくよ、と調律したばかりのピアノに指を乗せれば、戸惑いを隠さぬまま、倣うようにネロも鍵盤へ指を乗せる。
鍵盤を叩き始めたファウストに続き、ネロの指もまた、鍵盤に触れては離れる。
――その光景は、まるでそうあるべきだったかのように、自然で、素晴らしいものだった。
外でなんかとても聴かせられない演奏だったと思う。
テンポもめちゃくちゃ、楽譜通りの箇所なんてきっとドレミの音くらいで。
けれども、ああ。なんて楽しいんだろう!
興が乗ってアップテンポになり過ぎたあまりもつれた指も、時折ぶつかる腕の温度も、こちらの演奏を煽るように更にテンポを上げてくる意地悪な奏者も。
何もかもが楽しくて、おかしくて。
――どうか伝われ、と願った。
「どうだった?」
三分にも満たない演奏で、まるでフルマラソンを走ったように二人して息切れを起こしている。自分達の状況があまりに滑稽で、勝ち誇ったような笑みを浮かべてぜぇぜぇ息をしているファウストがあまりにも珍しくて、ネロは思わず声を上げて笑った。
「あっはは!敵わねぇなあ、もう」
「きもちわるくなかった?」
「気持ち悪くなかったよ、……楽しかった」
「俺は空っぽ、だなんて言っておきながら?」
「うるせ」
肘でファウストを小突いたネロは、そのまま隣に座るファウストに凭れ掛かった。ふぅ、と息をつき、自分の手を開いたり握ったりしながら見つめている。
「……なんか、ファウストが楽しいのがどんどん流れ込んできてさ。つられて楽しくなっちゃった。こう弾いたらもっと楽しいかなとか、ちょっと意地悪してやろうかなとか、思ってたよ」
「途中でテンポを上げたのはわざと?」
「わざと。もっとMolto allegro、的な」
迷える羊のような顔をしていた男が一転して満たされたような顔つきをしていることに、伝わったのだなと安心したと同時、ファウストはひとつの確信を得ていた。
ネロは、誰かと弾く方が向いている。たったそれだけのことだったのだろう、と。
「確かに、ソロなら楽器との対話が全てだ。だが、連弾や、協奏曲は違う。共に奏でる相手と音で対話をする……きみは、それがとても上手なんだと思う」
他者の心を受け、それに応えるように音を奏で、返す。
まるでネロ自身が楽器だ。ファウストは数分のデュエットで、そう感じた。
「音を聴くこと、弾くこと。どちらも素敵なところだ。きみの居心地の良い方にいるといいよ。でも僕は今、最高に楽しかったから、また調律を依頼できた時には弾いてほしいな」
きみは売れっ子の調律師だからね。凭れ掛かるネロに凭れ返すように身体の重心を傾け、握って開いてを繰り返していた手を撫でる。ファウストより節くれだった手が鍵盤の上を踊るさまは、正直見惚れてしまいそうなくらい格好良かった。その光景を思い返していると、そっとネロがファウストの手を握り返してきた。驚いて顔を横に向ければ、想像より遥か近くにネロの顔がある。
ファウスト、と煌めく二対の黄金色に顔を覗き込まれて、息を飲んだ。
――心が空っぽなんて、嘘ばっかり!
「専属の調律師、欲しくない?」
ファウスト・ラウィーニア。
その華奢な身体からは想像できない程に迫力のある音量と、細い指から繰り出される超絶技巧でその名を世界に轟かせる若きピアニスト。
彼はいつも、寄り添うように一人の調律師を連れている。