明けの明星は東の空に輝く「ネロ、フィガロに弱味でも握られたの」
「そんなもの握られなくても、俺はフィガロに勝てないけど」
急にどうした。純粋な疑問を浮かべた双眸が、突拍子もなく南の先生役の名前を出したファウストに向けられる。
――ここ最近、フィガロの好物が食卓に並ぶことが多い。気が、する。
別に南の国の子達が魚を大量に釣ってきたとか、市場で安くなって買い込んできたとか、そんな話は聞いていない。
それだけではない。バカンスから戻ってきて以降、フィガロがネロといる姿を度々見かけるようになった。キッチンで、中庭で、談話室で。この前はシャイロックのバーで一緒に飲む姿を見かけたとも聞いた。
それほど親しい間柄であったとは思えない。むしろ、ネロはフィガロから一歩距離を置いていたくらいだというのに。
バカンスで何かあったのだろうか。ファウストの知らない、二人の距離を縮めるような、流星のような何かが。
「……何も無いなら、いい」
「こらこら待てって。何も良くねぇだろ。そんな変な顔して」
「悪かったな、元々こういう顔だよ」
「違ぇよ、こんな時までひねくれんな。ほらこっち来て、ここ座って」
棒のように突っ立ったままのファウストを、ネロはキッチンテーブルの椅子へと導いた。自身も隣の椅子を引き、椅子と身体ごとファウストに向き合って腰掛ける。むっすりと黙り込んだ顔を覗き込むその眼差しに、ファウストは覚えがあった。
依頼の後、ヒースクリフやシノに駆け寄ったネロが必ず向けるものだ。怪我は無いか、どこか調子のおかしいところは無いか。年長者として護るべき庇護対象へと向けられる、心の底から案じるような、包むような眼差し。
――そんな優しい目を向けられていい感情ではないんだ、これは。
「フィガロに何か言われた?」
「ちがう」
「そう。俺は別に、いじめられたりしてないよ」
ネロはファウストの手を握り、ゆったりと落ち着かせるように撫でている。働きもので少しかさついた手は、遠い昔、母や祖母に撫でられたような感覚と重なって、目の奥がじわりと熱く滲んできた。
――ちがう、違うんだ。
「……僕もバカンス行けばよかった」
「どうして」
「きみと一緒にいられた」
僕の知らない、二人の間に起きた何かを知れたかもしれない。
……防げたかも、しれなくて。
元々血色の良くない唇を白くなるまで噛み締めているファウストを見て、ネロはしょうがねぇなぁ、と笑った。馬鹿にするでもなく、嘲笑するでもなく、手のかかる弟を見守るような顔をされて、ファウストは困り果ててしまった。
二百余り年上のこの男は、時折、こうしてファウストをゆるりと甘やかす。その度に、上に立つばかりで甘やかされ慣れていない心が、どうしたらいいのと迷子になる。
「ファウスト、陽射しが強いところ得意じゃないだろ。俺なんかのことで無理すんなって」
――ちがう、違うよ。
きみを取られたような気持ちになったんだ。
きみを取られたくなくて、そのためなら少しの無理くらいなんともない。強い太陽光に身を晒して焼かれるくらい、かつて味わった炎に比べればずっとぬるいものだろうに。
「……ネロ、」
「ん?」
「明日は、ガレットがいい」
「おう」
「その次はキッシュ。野菜いっぱいの」
「うん」
いいよ、と掛けられたネロの声が、ファウストの心を解きほぐすようにふわりと撫でる。
「他には?俺にしてほしいことある?」
言ってごらん。ふかふかのパンケーキにとろりと優しく染み込む蜂蜜のように、ファウストの心に甘やかに沁みる声。すん、としゃくり上げて初めて、ファウストは自分が涙を滲ませていることに気がついた。
「……ひがしの、東の魔法使いでいて」
東と南の仮面を被った、ルーツを北とする二人の魔法使い。その出自は星の定めた運命であり、ファウストは一生かかってもその間に入ることは出来ない。
「(とらないで)」
とられたくない。もう、誰からも、何も。例え生き方や魔法の礎を教えられた師であったとしても我慢できなかった。
深く深く傷付いて、暗く堅い夜闇の殻に引き篭っていたファウストに夜明けをもたらした、明けの明星。その星を閉じ込めた瞳を持つこの人を、どうしてもとられたくなかった。
「ネロは、東の魔法使いのネロでいて」
お願い。震える言葉と共に、遂に決壊した心がほろりと雫となって零れ落ちた。みっともなくて今すぐ拭いたいのに、ファウストの両手を優しく束縛するネロの手がそれを許してくれない。それどころか、そっとサングラスまで外されてしまって、潤んで揺れる紫が剥き出しにされてしまう。抱えてるもん全部出しちまいな、と向けられる二つの星がその名に違わず愛情を隠しもしないものだから、余計に溢れて止まらなかった。遮るものが何も無い視界で見る星の明かりは、少しばかり眩しすぎる。
「俺は何処にも行けないから、大丈夫だよ」
何かと逸らされがちなネロの両目は、今はしっかりとファウストを見詰めている。見詰められると、ずっとざわざわして落ち着かなかった胸の奥が、少しずつ落ち着きを取り戻していくのを感じた。
「フィガロとは本当に何も無いし、されてないから。飯のリクエストは前より増えたけど。強いて言えば、あんたがブラッドから絡まれるようなもんだって」
「……でも僕は胸がざわざわした」
「俺だってするよ。あんたがブラッドと一緒にいたら、ざわざわする」
ほんの少し語気を強め、前のめりになったネロの瞳の奥に一瞬、青く燃える星がちらついた。
「あいつは一度価値を見出したら、どれだけ難攻不落でも、どれだけの数の死神に脚を掴まれても、絶対に手に入れようとするから。あんたがブラッドに気に入られやしないかって、気が気じゃねぇよ」
分かる?と問われたので、首を縦に振った。フィガロがネロを気に入ったらどうしよう、とは、ずっとファウストを落ち着かせなかったざわざわの正体だったから。
きみが誰かと仲良くなるのが嬉しい。
きみが誰かと仲良くなるとざわざわする。
きみのことが好きだから、心が矛盾してしまう。
最後のひとしずくが頬を伝う様を見届けたネロは、ほらこっちおいで、とファウストに向けて両腕を広げてみせた。
「あんたも嫉妬なんてするんだなぁ。可愛いやつ」
「うるさい、きみのほうが」
「はいはい。そーやってなんとか可愛がろうとするのも、俺だけだと思うと気分がいいよ」
大人しくその導きに従ったファウストを、ネロは膝の間に抱き上げた。後頭部に手を添えられ、泣いて赤くなった目元を今更隠すように肩口に顔を引き寄せられる。
今日はもう、ネロに口先でも勝てないのだろう。想像以上に心も擦り減っていたことを悟ったファウストは、抵抗することなくネロの腕の中に収まった。大きくは変わらない身長も、まるごと委ねた身体には広く大きく感じる。
「よしよし」
「……子供扱いするな」
「二百も年下じゃ、俺からすればあんたもまだ子供だよ」
やわらかな手付きに撫でられ、ファウストはようやく息をついた。目の前には清潔な白が広がるばかりで、ファウストに夜明けをもたらしたひかりはここにない。
ひときわ輝くそのひかりが恋しくて、ファウストは星の名前を甘えるように呼んだ。