神隠しの入口空一面が夕焼けに燃える。焼き尽くされた空はやがて夜となり、深い宵闇の色に焦げついてゆく。もうすぐ海と空の境界線が溶けて無くなる頃だろう。
明と暗が入り交じる、不気味な時間だ。しかしこの曖昧さがどこか心地よい。
「それ以上海に近づくのは止めなさい」
ざざん。
波音の傍、己の足跡を見下ろしながら海岸沿いを歩いていたネロは「引きずり込まれるよ」と声のした方に顔を向けた。視線の先では、見知らぬ男がこちらをじっと見つめている。
「え、っと」
「聞こえなかった?戻りなさい。引きずり込まれる」
「引きずられるって、何に」
「手」
手、と繰り返す。辺りを見回しても自分と男以外には誰もおらず、ざん、ざざん、と寄せては引く波の音が響くばかりだ。一体何の手だと言うのか。言葉の意味が理解出来ずに黙り込んだネロの様子を聞こえなかったのだと誤認したのか、男は少し声量をあげて再び告げた。
良く通る、凛とした芯のある声だった。
「この時期は、海から無数の手が伸びている。引きずられる前に、こちらに戻りなさい」
――何を言っているのだろう、こいつは。
いよいよもって不審感を募らせたネロは、そっと男の足元に視線をやる……足は、ある。影も。
真夏だというのに真っ黒な神父のような格好をして、目元にはサングラスをかけていて怪しいったらない。しかしその奥から覗く瞳は、目を離せないような不思議な輝きを灯している。
「僕は幽霊ではないよ」
ぴしゃりと答えた男は、砂浜をさくさくと踏みしめながらネロに近付いてくる。不審感しか感じられないこの男から、どうしてか逃げようという感情を抱かない自分が分からない。それどころか、この人が傍に立ったことに、郷愁の念に似たほろ苦い風がネロの心を吹き撫でる。
「きみは、どうしてここにいるの」
「どうして、って」
「何も持っていない顔をしながら、何もかもを捨てて遠くへ行きたそうな顔をしている」
ここはいい所だけれどね。海風特有のベタつきはまるでこの人だけを避けるように流れているようで、ウェーブがかった髪は素直に風だけを受けて軽やかに揺れる。ネロに向けるその表情は穏やかであるのに、聡明さと高貴の象徴である紫の瞳は深淵のような深さでこちらを覗いている。
もっと優しい、とろけるような目をしていた気がする。
――誰が?
耳鳴りがキンと響く。
「何も無い所で休みたい、と言ったら、知人がここを教えてくれたんだ。ここは確かに何も無くていい所だ。けれど、本当に何も無い。不自然なほどに人間もいない」
ネロに構わず話を続ける男は視線を水平線へと移した。もう境目が曖昧になった海と空は、巨大な宵色のカーテンとなって二人の横に垂れ下がっている。
ここは人が進んで住む所では無い。観光地でもない。過疎の進んだ失われつつある町でもない。
「きみは、この地を自分の墓標にするつもり」
ここは、自分の幕引きを望んだ人間が集まる場所だ。
どこにいても自分の居場所でないようで、どこにいても自分が異物である感覚ばかりに支配される。それならいっそ、自分という存在すら不確かで曖昧になるような場所に行ってしまいたい。
「……どこにも行けなかっただけだよ」
けれど結局、自力でその場所に行くことができなかった。自力でどこにも行けないくせにどこか遠くへ行ってしまいたい。海岸に刻まれた足跡は消えず、ネロの軌跡を残している。
「攫ってあげようか」
男はどこか楽しそうな笑みを浮かべている。す、と伸ばされた手は暗闇の中でぼんやりとひかるほどに、まるで幽霊のように真白い。海から伸びる姿見えぬ無数の腕よりも空恐ろしさを感じさせる腕だ。まるで、取ったら自分が自分でなくなるような。
「きみの知らない、遠いところへ」
やっと見つけたのにみすみす見殺しにしたくない。そう呟かれた言葉は何故か深く深く案じるような慈愛が込められていて、俺はあんたのこと知らないよ、とは胸につかえて出てこなかった。
――知らない?本当に?
耳鳴りがギンと響く。
開けた海にいるはずなのに、閉ざされた、深い森の香りがする。
「おいで、ネロ」
僕と逃避行しよう。
教えた覚えのない己の名前を知る男の手を、ネロは操られたように取った。
足跡は波に攫われたのか、ひとつも残らず消えている。