雨が降ったら地を固めましょう「てめぇらそこに座れ」
実技訓練中の些細な諍いから大喧嘩に発展したヒースクリフとシノを引き連れて談話室へ戻った途端、ネロの雷が落ちた。
最終的に叱るのは先生役のファウストであり、普段は二人の喧嘩を程々にしないと怒られっぞ、と窘める役回りにいるネロが、あろうことかブランシェット家の御子息を床に座らせる程に怒っている。あまりの剣幕に停止している二人に「座れ」と再度告げる低音は地響きのように地を這い、北の魔法使いが時折口にするまさに『おっかない』である。
今回の喧嘩も、ヒースクリフとシノの心の向き方の違いで生まれる不協和音が増幅されたことによる。特に今日は朝から(本人は隠しているつもりだっただろうが)虫の居所が悪かったらしいネロの導火線に火を点けてしまったらしい。据わった目が機嫌以外の要素もはらんでいることに気付いたファウストは、やれやれという心持ちで事の成り行きを静観することにした。
「喧嘩するなとは言わない。けど、喧嘩するなら他人を巻き込まないところでやれ。それができないなら喧嘩すんじゃねぇ」
あくまで二人の問題だからね。当然、仲裁はするけど。時に二人の喧嘩は驚く程の長期戦になることもある。折角の友人同士、仲違いしたままは悲しいから。
「シノ、お前はもう少しヒースのことを考えろ。ヒースはもう少しシノに正直に思ったことを伝えろ。てめぇらの口は何のために付いてんだ。メシ食うためだけじゃねぇだろ。洗いざらい全部ぶちまけろとは言わねぇが、すれ違うくらいならその前に言葉にして伝えろ」
訴え続けることがどれだけ体力気力を使うか、聞き届けられないことがどれだけ虚しさを募らせるか。そして、生き方はそう簡単に変えられないものである現実を、ネロは嫌という程に思い知っている。思い知ったそれらは鍋にこびり付いた焦げのようにネロの心に残り続け、時折苦い感情を呼び起こしている。
苦さを知る者だからこそ出てくる言葉だ。すれ違いの果てにあるのは、何かを伝える気力さえ無くなる程の虚無。
「いいか、てめぇらが喧嘩するたびにこっちはどう仲直りさせるか気ぃ揉んでんだ。毎度毎度仲直りの茶会にレモンパイ焼かされる俺の身にもなってみろこのペースで喧嘩されちゃ群青レモン剥きすぎて俺の手が髪と同じ青に染まるのも時間の問題だろどうしてくれんだ。つーか俺の作る菓子は全部美味いだろ今度しこたま焼いてやるからレモンパイ以外もしっかり味わいやがれ」
……段々説教なのかも怪しくなってきたな。
「俺は寝る。騎士さんの誕生日に張り切ってベーコン作ってたら朝だったし触発されたオーエンに夜通し菓子を強請られ続けてめでたく二徹だ。言い争う声か先生の説教の声で俺を起こしてみろ。問答無用で一週間はメシ抜きにするからな」
分かったな、子猫ちゃん共。
ドスの効いた声を果たして聞かせてよかったのか。見えないだけで今のネロの両手には料理包丁が握られている。
争っていたはずの二人は今や手を取り合って震えており、その背後で静観していたファウストは俯いて肩を震わせている。こくこくと必死に頷く健気な子供たちの姿を見届けたネロは、そのままフラフラと談話室から出ていった。ネロの気配が完全に絶たれた直後、堪えきれなくなったファウストは声をあげて笑った。
「ああ、可笑しい。朝から機嫌が悪いと思ったら二徹が理由なんて」
椅子にどさりと腰掛ける。目が据わっていたのは眠気が限界を迎えていたことにも起因するのだろう。部屋に辿り着いたネロは糸が切れたように寝落ちているだろうし、もしかしたらベッドまでたどり着けずに床に転がっているかもしれない。後程様子を見に行くことに決めたファウストは、しかし先程の出来事に思い出し笑いが止まらない。そんなファウストを二人の子供達は床に座ったまま眺めている。しっかりと握り合った手は未だ離されておらず、仲が良いのか悪いのか分からないちぐはぐさに微笑ましさが募る。
「まあ、君たちの喧嘩はいつものことだから」
ひと通り笑いが収まったのち、ファウストはゆったりと優雅に脚を組み、膝に両手を重ねた。いつまでも床に座らせたままでは脚も痛くなってかわいそうだ、と隣のソファを勧めれば、ヒースクリフとシノはそろそろと隣り合って座った。二人を見つめる双眸は先生と呼ぶに相応しい、見守るように穏やかなあたたかさで満たされている。
「シノ。きみは、真っ直ぐに自分を信じ、貫くことが出来る。それは自分にとっての『正しさ』を持っているからだ。けれど、きみにとっての『正しい』はそのままヒースの『正しい』にはならない。何故ならきみたち二人は別々のいきものだから」
「……」
「ヒースクリフ。きみは、我慢強くて優しいから、きっと全てを飲み込んで信じようとしてしまう、できてしまう。けれど、それできみの心が傷付いて悲鳴を上げるのなら、止めなさい。我慢することだけが唯一の正解ではないよ」
「……はい」
「僕も、喧嘩をするなとは言わないよ。何度同じことを繰り返したっていい。その度、何度でも僕は同じことを君達に言うし、何度でもネロは仲直りの茶会にレモンパイを焼いてくれるよ」
これでも先生役だからね、分かるまで教えるのは先生の役目だ。そう締めくくると、床をじっと見つめていたシノがヒースクリフに謝り、俺もごめん、とヒースクリフも謝罪をした。二人の仲直りはできたようで、けれどきっとまたすぐに喧嘩するのだろう。そんな未来が想像に容易くて一人ひっそりと笑みを浮かべていたファウストに、シノが「ネロにも謝る」と言い出した。
「起きたら、謝りに行ってくる」
「お、俺も」
「いや、アレは起きたら何も覚えていないな。ネロの自己嫌悪に加担したくないのなら、黙っているのが賢明だけど」
きっと君たちはそんな騙すみたいなことは出来ないね、とファウストが苦笑すると、そんなことじゃないとシノが答えた。言葉にして伝えるんだろう、と。
「怒られたことを、無かったことにしたくない。説教だとしても、俺たちにネロが掛けてくれた言葉だ。俺たちがネロからちゃんと受け取ったことを、知っててほしい」
「……そうか」
射るような紅の瞳はひたすらに真っ直ぐで、素直だ。曇りの欠片もないその輝きが正しく健やかに育つことを、ファウストもネロも望んでいる。
「なら、ネロとの仲直りの茶会は僕達で支度をしよう。シェフの手が群青色に染まってしまったら大変だからね」
まずは茶請けを用意することから始めよう。二人で買いに行っておいで。
仲良く揃って魔法舎を出た二人を見送ると、ファウストはネロの部屋に向かった。様子を見るついで、起きてきたら眠気も機嫌も最悪だったのに実技訓練をさぼらなかったことを褒めて甘やかしてやるつもりである。