嵐の抱擁「ネロ!ハグです!」
「僕も!ネロさん、いつも美味しいご飯をありがとうございます」
「おーおー、二人揃ってどうした」
ネロは気付かれないようそっとキッチンの火を消した。鍋を満たすシチューはあらかた煮込み終わっているから、あとは粗熱でいい塩梅になるだろう。リケとミチルはそれぞれネロの左右をがっちりと固めるように、無邪気にまとわりついている。
「今日はハグの日だって、賢者様に教わりました」
「ハグをするとストレス解消にもなるのだとも言っていました!」
「へぇ。お前さんたちはまたひとつ賢くなったわけだ」
凄いな、と両手で二人の頭をかき混ぜるように撫でてやると、リケは「やめてください」と言いながらも唇をむずむずとさせて嬉しさを隠しきれておらず、ミチルは「えへへ……」と知識を増やしたことを褒められた喜びにも浸っている。別々の反応を返す二人の幼子の天真爛漫さは、ネロの心の癒しである。
「そんなお前さんたちにはこれをやるよ。余ったもので作ったから数は無いんで、秘密な」
「わ、いいんですか?」
「い、いけませんよミチル。おやつの食べ過ぎは堕落です」
「リケ。これは俺からのご褒美だから、堕落じゃないよ」
「ご褒美」
「そ。賢者さんから教わった知識を吸収して、実践したご褒美」
普段の講義と同じだと教えてやれば、ぱぁっと表情を輝かせた。何の変哲もないクッキーも、両手で大事そうに抱えられては大層なものに見えるものだな、とネロは笑みを浮かべた。僕の部屋で一緒に食べましょう、ありがとうございます、と口々に告げた幼子二人はやがて、パタパタと足音を立ててキッチンから去っていった。
あたたかく可愛らしい嵐の過ぎ去ったキッチン。残された春の花畑のような気配に加え、隠れていた深い森の気配がふわりと漂いだす。
「……姿消して覗き見とか、先生のくせに素行不良じゃねえの?」
「随分と可愛らしいことになっていたからね、お邪魔するのも悪いと思って」
先程まで無人だったテーブルセットに、いつの間にかファウストが座っている。姿と、ご丁寧に気配まで消して一部始終を見ていたらしいファウストは、にこにことネロに笑みを向けている。ふんわりととろけた紫は可愛いものを見つめる時の甘やかな色合いで、近頃はネロに対しても遠慮なく向けられるものである。
「今の光景で僕は酒瓶一本飲み干せるよ。ご馳走様」
「人を肴にして飲むなよ」
「ふふ。優しくて、ちょっとわるいお兄さまだ」
「よせって……」
「いや、お爺さまか。六百だし」
「おい」
甘噛みするように交わされる軽口が日常のやり取りのひとつに昇華して、もう暫く経つ。愛情を向け合うことを許した関係性になってからは特に、互いに様子を伺いながらも少しずつ遠慮の皮を剥がしつつある。悪びれる様子もなく、ファウストはころころとシュガーのような笑い声を零している。
全く言ってくれるよ、と苦笑を目尻に滲ませたネロは、ファウストに身体を向けて、ん、と両腕を差し出した。
「なに?」
「ハグの日だって」
「してほしいの?」
「したいんだろ?」
さっきお子ちゃま達にされてた時、羨ましそうにしてたくせにな。やり返すつもりで、してやったりと言わんばかりに口角を上げれば図星だったのか、ファウストがむっとした表情に変わった。きりりと眉が吊り上がったものの、目尻がほの赤く染まっているせいで迫力は失われている。
恐らく、ファウストもネロをハグしに来たのだろう。この時間ならキッチンにいるはずで、おやつ後なら普段は夕食の仕込みをしているネロが一人でいる頃合だ。今日はたまたま、可愛らしい先客が二人いただけで。
がたん。立ち上がった勢いで椅子と床がぶつかる音が響く。ネロの元まで大股で近付いたファウストは、広げたネロの両手を掴んで引き寄せ、そのまま唇を重ねてやった。
全くの予想外の挙動をされたネロはぽかん、と口を開けたまま固まっている。その姿に、今度はファウストがしてやったりという笑みを浮かべた。
「――情熱的なハグは、夜にしてあげる」
耳元で囁いてきた背中へネロが腕を回す前に、ファウストはひらりとネロの元を離れる。
「きみも、僕を抱きたいと思いながら夜まで過ごすといい」
そう言い残し、ファウストは今度こそキッチンから姿も気配も消した。
もうひとつの嵐が、見事にネロの心を吹き荒らして過ぎ去った。
先程までファウストが腰掛けていた椅子にどさりと崩れ落ちるように座ったネロは、唸るようなため息をこぼし、頭をがしがしと掻いた。
「一本取られたわ」
いつも気付けばファウストのペースに乗せられている。ネロを見て覚えたのか、真面目な性格にしてはネロをかき乱すことが上手いファウストに、ネロは連日連敗している。今日はいけたと思ったのになぁ、と一人ごちる声だけが、誰もいないキッチンに虚しく広がる。
ハグはストレス解消にもなるらしい。先程ミチルが賢者から教わったことを思い返し、ネロは再度、熱の篭ったため息をこぼす。
「存分に解消させてもらいますかね」
別にストレスが溜まっているわけではないが、別の熱は先程嫌という程に高められた。
まだ明るい時間帯に不釣り合いなほどぎらりと光る黄金色は、誰もいない空間に確かに獲物を見詰めている。