愚者と叛逆「そっか。そんなことが」
夜の帳に包まれた魔法舎の一角。グラスを煽りながらほつほつとファウストが語った出来事を、ネロは静かに聞いていた。
談話室でうたた寝をしていた賢者を見掛け、身体を冷やさないようにとブランケットを掛けてやろうとした時のこと。
『おかあさん』
元の世界の夢を見ているのか、はたまた心に抱えた寂しさが寝言となって零れ落ちたのか。無意識の眠りの淵で賢者が落とした言葉がまるで心臓に杭を打つように刺さり、ファウストはブランケットをやや無造作に掛けると逃げるようにその場を後にした。
たった五文字のその呟きが、ファウストの耳にこびりついて今も離れない。
「あんな子供に、しかも異世界の住民にこの世界の命運を託すなど……僕達も愚かしいことだ」
日頃から魔法使いや国の要人とのやり取りに溢れているために忘れかけてしまうが、本来であれば、まだ社会に対して責任を負わない年頃のはずだ。社会どころか命運まで背負わせているのはまごうことなく自分達であり、その事実をファウストは苦々しく思う。
「ファウスト、あんま力むな。ステム折れるぞ」
「……失礼した」
ネロがとんとん、と指先で触れてきて初めて、震えるほどにきつく力を入れていたことに気付いたファウストは、ゆっくりと落ち着かせるように息を吐きながら力を抜いた。
「理不尽な運命だろうに、あの子はよくやってくれている……。もうやらなくていい、十分だと止めたくなることがあるくらいに」
――自分にできることはこれしかない。何もしなければ、何も無いんです。
悲鳴を叫ぶようにそう言った賢者に、何も無いなんてことはない、と返すことがファウストはできなかった。別世界からの『お客様』兼『救世主』である賢者は、この世界で生まれ持つべき全てを持っていない。代わりに抱えた重すぎる使命では、この世界での物語の主人公になることはできても、住民になることはできない。
やればやるほどに持ち上げられ、敬われ、崇められる。そしてひとたび失墜すれば、勝手に積み上げられたうず高い頂上から真っ逆さまに突き落とされる。その痛みを知るファウストは賢者を案じ、ネロは二人が同じ道を辿らなければいい、と見守っている。
「優しいな、ファウストは。あんた、結構賢者さんのこと可愛がってるもんな」
「きみだってそうだろう。僕よりよっぽどよく気にかけている」
「俺はそんなんじゃないって。いざとなったらきっと賢者さんを裏切る、薄情なやつだよ」
「できもしないくせに」
自分をわざと傷付けるような言い方を咎めるように睨みつけると、ネロは曖昧に笑って空になったファウストのグラスにワインを注いだ。
「けど難儀だよな。俺達賢者の魔法使いを動かして、各国や人間達に協力をさせて。厄災を討伐してこの世界を救えなきゃ、この世界は賢者さんごと滅びておしまいだ。そしたら賢者さんは母親の元にすら帰れない。結局のところ、やるしかないし、やらせるしかない」
どうすればいい、なんて、答えがあったら今頃この世界は壊れかけてなどいない。誰も持っていない解決策を講じることも、行動に移すことも、賢者と二十一人の魔法使いに押し付けることで、この世界は延命している。
「あんたの言う、愚かしいってのには同意するよ」
同意はするが、ネロは、延命装置を賢者と魔法使いに握らせて世界の行く末への責任逃れをした気でいる者達の方がよほど愚かだと思っている。世界に責任を負うべきは、そしてその報いを受けるのはこの世界で産声を上げた者達であるはずで、何人たりともその運命から逃げることはできない。ネロ自身も生きづらさ故に様々なしがらみから逃げ続けてきたが、結局は運命からは逃れることができずにここにいる。
とは言えネロもファウストも、この世界の存続に躍起になるほど生きることに執着はしていない。滅ぶのなら、そのように。ただ賢者を道連れにするのは忍びないからどうにか元の世界に帰してやりたい、という意見は一致している。
「まあ、例え討伐に失敗してこの世界が滅ぶことになっても、それは俺達二十二人に世界を背負わせた罰で、報いだ。俺達を恨むんじゃなくて、この世界に生まれたご自分の運命を恨んでもらおうぜ」
そう言って手酌でグラスを満たそうとしたネロの手を制し、ボトルを奪ったファウストがネロのグラスにワインを注いだ。くつくつとおかしそうに笑うファウストは酔いが回った様子もなく、ただただ唇を歪めて心底愉快そうな様子だ。
「きみでもそんなこと言うんだ」
「人嫌いで、陰気な東の魔法使いなものでね」
「まあ、僕達も言ってしまえば運命とやらの被害者だ。こんな紋章までご丁寧に刻まれて」
「本当にな。全く、運命とやらは人が悪い」
ワインで満たされたグラスが並ぶ。賢者の世界ではワインは神となった救世主の血を表すものであり、口にすることで罪を許されると考える文化があるのだという。
ならば今俺達は、罪を許されたのだろうか。
この世界の救済のために、子羊を母から攫った罪を。
「ねえ、乾杯しよう」
「何に?」
「この世界を牛耳る運命とやらに」
滅びは万物の定めであり、訪れすら星の定めた運命であるならば、この戦いはただ決められた舞台上で演じられる劇でしかない。もしかすれば徒労に終わるこの演目を、しかし懸命に演じてみせる賢者は果たして、台本を書き換えられるだろうか。
二人はグラスをいささか乱暴に合わせる。ぎぃん、と鋭い音が夜に響いた。
――響け、響け。黎明を告げるファンファーレのように。
運命なんて、くそくらえだ。