夜鷹のほし「……ネロ、」
「あれ、ファウスト?」
一足先にベッドに入ったはずのファウストが出てきたので、俺はもしかしたら起こしてしまっただろうかと申し訳なくなった。
眠りの邪魔をしないよう、持ち帰った仕事はリビングで手を動かしていたが、ドアの隙間から漏れる灯りと人の起きている気配は眠りの妨げになったかもしれない。起こした? と問えば、しかし素足でぺたぺたと寄ってきたファウストは首を横に振った。窺った顔色からは寝付けなかった特有の不機嫌さは感じられない。気まずそうに腕を組んで、夜着の袖をつまんだり離したりしている。
「今日、休みだっただろう。僕」
「うん。ゆっくりできた?」
「存分にね。……その、だから、昼間に結構しっかり昼寝をしてしまって」
「あー……、夜鷹になっちゃった?」
たっぷり昼寝をした幼子が、夜に眠れなくなって親にぐずることはよくあることだ。似たような状況を指摘されるとやはり恥ずかしいのか、ファウストは俯いてこくりと頷いた。眠気に見放され、途方に暮れたように立ち尽くしている。
心身共にすこやかに覚醒しているのなら、今ホットミルクでお腹をあたためてもさほど効果はなさそうだ。俺は開いていたファイルを保存し、パソコンを一時スリープ状態に落とすと、スマホと家の鍵をポケットにねじ込んで立ち上がった。
不思議そうに俺の名前を呼んだファウストに、今の時間は涼しいからと俺が着ていた上着を渡して誘った。
「夜の散歩行こうか、ファウスト」
気付けば立秋も過ぎ、いつの間にか秋の虫が鳴いている。
気温こそ下がれど湿度は依然高く、たっぷりと水分を含んだ空気は自分と世界の間に膜を作っているようで、遠くで鳴るサイレンがなんだかもったりと聞きづらい。街灯の灯りもぼんやりと霞んでいるような、揺蕩うような夜を二人並んで歩く。
「仕事はいいの」
「キリも良かったし、ちょうど飽きた頃合いだったからな」
「ふふ、何それ。ちゃんとやりなよ」
「俺はそこまで真面目じゃないからさ」
「よく言うよ。数百億の契約書取ってきたくせに」
歩車道の境界にある少し高いブロックにファウストが飛び乗ったので、俺は手を肩の高さまであげてファウストに差し出した。
「ほら」
「ん」
ごく自然に俺の手を取ったファウストは、そのままブロックの上を器用に歩いていく。普段はお行儀良く歩道を歩き、外で手を繋ぐことすら顔を顰めるけれど、誰もいない夜道では多少羽目を外しているらしい。
車の一台すら通らない、静かなものだ。空の星が瞬く音さえ聞こえてきそうな気がする。
薄ぼんやりとした灯りのもとで見上げたファウストの表情は、初めて訪れた地に喜びと好奇心を引き立てられたような顔をしていた。
「あまりこの時間に外を歩くことがないから、いつも通る道なのになんだか新鮮」
「そう?」
「うん。昼間は気がつかなかったけど、案外空が近い。これならよだかの星も探せるかも」
住宅街の一角だから、電柱と電線以外に特出して高い建物のないここ一帯は確かに見上げた空が広く、近く見える。俺はファウストほど博識ではないから、よだかの星、と聞いても聞いたことあるな程度しか分からない。星になった鷹だよ、とごく簡単な解説をいれたファウストは、夜空を見上げながら俺の手を握って歩いている。
「鳥からも嫌われ、太陽には願いを叶えてもらえず、星々にも相手にされず、独り飛び続けて、やがて星になった鷹」
「その星はこれ、って決まってんの?」
「特定はされていないよ。けれど、どこかで輝いているといいと思う」
所詮物語だと言ってしまえばそうなるが、描かれた世界といのちに思いを巡らせるファウストの感性は美しいと思う。物語が終わったとしても、最後のページのその先で描かれた世界といのちは続いてゆく。彼等の痕跡を、煌めきを、見付けてあげようと向けられる眼差しの先には、どれほど豊かな世界が広がっているのだろう。
俺には無いもの。だから惹かれたし、惚れ込んだ。
「ファウストの眠気が来るまで探そうか」
「僕の眠気が来なかったら?」
「そしたら会社休んで、ファウストがおねむになるまで抱き締めてようかな」
「こら」
眠気が来なくても、俺は俺の夜鷹さんを見捨てることはしない。星になろうとするのならそれこそ捕まえて閉じ込めて止めてくれ、なんてみっともなく制止するだろう。夜の優しさを全部閉じ込めた色をしている瞳にはいつだって、天からではなく同じ地に立って俺を見てほしいから。