在る英雄の葬祭と、在る魔法使いの不在『今日は一日帰らないから、食事は要らない』
いつもならば告げるはずの行先を告げずに出て行ったファウストの背中を見送ったのは、太陽すらまだ地平線の下で眠りについている時間だった。
子供たちのおやつを作るのにエバーミルクが足りないことに気付いたネロは、昼食後に一人中央の国の市場を訪れた。よく嬉々として同行したがるリケが「今日は行けません」と頑なだったことに疑問を抱いていたが、何かがあるということは街に踏み入れてすぐに分かった。
普段は人々の笑い声や活気に満ち溢れ、少々騒がしすぎると感じるほどの空間が、しかし今日はその様子を異にし、静粛な空気に包まれている。市場は通常通りに開かれているものの、明らかに人通りが少ない。
それでも悲壮感に満ちていないのは、街中のあちらこちらに花が飾られているからだろうか。
美しいサファイアを映したような青と、高貴で思慮深さを表したような紫。
寄り添うように、並ぶように、反発し背き合うように。飾られた二輪の花は、様々な向きで街を見つめている。
「今日は何かの祭り?」
訪れた店でネロが尋ねると、人の良さそうな老婦人はいいえ、と柔和な笑みを浮かべた。
「違いますよ。今日は、初代国王アレク・グランヴェル様が逝去された日です」
「命日か。飾ってある花は、そのせい?」
「ええ。王家の御色である青と、生前愛していらっしゃった紫色の花を飾り、追悼する。そして、この国の永久の繁栄と平和を祈るのですよ」
どうぞ、と渡された購入品の紙袋にも二輪の花が添えられている。今日はどこで何をしてもこの二色は付き纏うらしい。ありがと、と受け取り、店主に見えないところでギチ、と茎が折れるのも構わず花を握りしめた。
「(……そういうことか)」
ゴーン、ゴーン。
どこかで鐘が鳴り、人々が顔を上げて祈りを捧げている。
街中に響き渡るその音色はどこか物悲しくネロの耳に届いた。
どうして、何故、と、答える者のいない問いを独り繰り返す嘆きのように。
――きっとファウストは、この音色が聴こえるところにいる。
用は済んだ。長居はしたくないなと立ち去りかけたところを店主にやんわりと呼び止められ、ネロは怠そうに足を止めた。
「貴方、髪が青色をしていらっしゃるのね」
「ん?ああ、まあ」
「青は、アレク様のご加護が宿る色よ」
きっと貴方にも英雄のご加護がありますように。
そう微笑まれて、ネロは背筋がうすら寒くなるのを感じた。自宅の壁に勝手に知らない奴の肖像画を飾られたような、言いようのない不快感がじわりとネロの中に広がる。
『きみの髪は、晴れ渡る優しい空の色だ』
脳裏に甘やかな笑みが浮かぶ。曖昧に言葉を返し、今度こそ足早に店から立ち去った。
――何が英雄だ、何が加護だ。
「……余計なお世話だっての」
俺の友達を四百年も苦しめ続けている人間の、いったい何が加護だと言うのか。
思わず舌打ちをしたネロの横を、少女が母親の手を引きながら駆けていく。もうすぐ聖堂で祈りが開かれるらしい。その聖堂に名を奪われたファウストが抱えている感情は、ネロが抱いたそれらとは比べることすらできないだろう。
道端に落ちている青い花を踏みつけようとして、留まった。
ただの八つ当たりだ。こんなものは。
「…………」
ふと立ち止まる。振り返れば、花と祈りに満たされた街。
恨み、怒り、苦しみ悲しみ。輪郭が曖昧になる程に燃え上がり、本来の姿すらも失った炎を抱えながら、ファウストは何年も何年も、あの紫の瞳でこの光景を見続けてきたのだろう。
そして今も、どこかで、ひとり。
ネロが抱えた憤りも不快感も、ファウストは長い年月の間にきっと飲み込んでしまったものだ。何でもないような顔をして「そんなことで怒ったの」と笑みさえ浮かべる姿が容易に想像できる。
それでも、今日は飲み込んだはずの感情が零れ落ちる日なのだろう。
行先を告げなかったのは、探してほしくないから。
独りになりたい、見つけてほしくないと思う心を、ネロはよくよく理解している。
――ならば。
探しにも行けず、見つけることもできないのなら。
俺にできるのは、帰ってくるのを待ってやることだ。
帰ってきたらいつもみたいに「おかえり」と出迎えて、抱き締めて、怒るかもしれないけど唇を重ねて。食事は要らない、と言われたけれどガレットも作って、今夜は特に良く眠れるようにあたたかい茶を淹れてやって、それから。
「…………ファウスト、」
どこにいても、帰っておいで。俺のところに。
ネロは再び街に背を向け、魔法舎に帰るべく駆けだした。
茎の折れて歪んだ青い花が、取り残されたように道端に落ちる。