表裏一体の寂しさ『今日は残業せずに済んだ?』
「今週は多分大丈夫だと思うよ。月初はまた忙しくなるだろうけど」
『あー……。来月は俺もばたつくかなぁ……』
「きみの方は?今日は上司と喧嘩してない?」
『あいつとはいつもあんな感じだって。まあ、今日は明日の準備が殆どだったから、ほぼ会議で終わったけど』
小さな画面に映るネロは当然画面に合わせて縮小されていて、音声も機械を通しているから普段と少し違って聴こえる。背後に映るホテルの部屋も二人の家と違うから、テレビドラマの一幕を観ているような感じさえする。
ホテル備え付けの寝間着を身に着けて、ホテルのロゴの付いたタオルを肩に乗せているネロとは、新幹線で三時間弱の距離を隔てている。絶賛、数日間の遠距離恋愛中だ。出張が決まるときまって「行きたくない」とめそめそするネロを宥めた回数も、片手では足りなくなってきた。
「髪、乾かしなよ」
『もう乾かしたよ。ホテルのドライヤーってなんであんなに風弱いのに熱いんだろうな……』
汗かいちまって、と困ったように笑いながら手でぱたぱたと顔を仰ぐネロの髪は、確かに、乾かした直後のほわんとした膨らみをもっている。
荷造りが苦手なネロの手伝いをしたから、彼が何を持って行ったのかは概ね把握している。家からシャンプーやコンディショナーを持っていくことはしなかったので、備え付けのものを使っているだろう。帰ってきたら違うにおいを纏っているだろうから、一緒にお風呂に入って洗ってあげて、僕の好きなにおいに戻してあげないと。
そんなことを考えながら食後に淹れたお茶に口を付けると、我が家の食事警察は目敏く切り込んできた。
『メシ、ちゃんと食った?沢山作り置きしたつもりだけど足りてる?』
「美味しく頂いているよ。でも足りないかな」
『え、そんなに食ってくれてんの……?』
「量はじゅうぶん足りてるから平気」
画面の中のネロが「んん?」と不思議そうな顔をして首を捻る。
テーブルに、一人分の食器と一人分の食事。
向かいに居るはずの人は不在で、無人の椅子と壁だけが目に映る食事風景。
一人きりの食事がこんなにも寂しいということを、僕はすっかり忘れていた。
「ネロがいないから、足りなくって」
ネロに出会って、僕も『寂しい』を知った。
悪いものでないと思っている。それだけ大事で、共に居ることが当たり前の人を得たということなのだから。
『寂しい?』
「うん。きみがいないから」
『……なあ、その上着俺の?』
「そうだよ。あと、きみの枕も抱いて寝てるし、ごみ捨てに行く時はサンダルを借りた」
『ちょっとちょっとちょっと!なんでそんな可愛いことしてんの!?』
俺がいる時にやってよ、と前のめりになるネロは、どうしたって画面を飛び越えて僕の目の前に現れてはくれないのだ。
ネロのいない寂しさを埋めるように、家の中に散らばるネロの抜け殻を拾い集めた。
ワンサイズ違う色違いのカーディガンは、裾はまあ許容範囲だけど肩幅がちょっとずり落ちてくる。
硬さの違う枕(ネロの枕は柔らかめだ)は抱き締めれば同じシャンプーの香りに混じってネロのにおいがする。空色の髪をかき分けて、うなじにキスをする時と同じように。
僕の靴と並べてまじまじと見てみると、ネロは結構足が大きい。サンダルも何度かすぽすぽ抜けそうになったので、次はちゃんと自分のものを履くことにする。転んだりしたら危ないからね。
ネロがいる前提で成り立っている僕達二人の暮らし。
本当はそこにネロがいるはずの沢山の穴ぼこが見つかって、そこが全部ネロで埋まるのだと思うと、沢山の穴ぼこのひとつひとつが全て愛おしかった。
「だって寂しいから」
『俺だって寂しいよ。でも家にいるファウストと、全然違う場所にいる俺じゃハンデありすぎだろ……』
「僕のストール入れてあげたでしょ」
『えっ』
「荷造りが苦手なきみのお手伝いをしてあげたのは誰?」
やっぱりギリギリまで荷造りをほったらかしていたネロは、そっと潜ませた僕の抜け殻には気付いていなかったみたいだ。画面からぴゅんと消えたネロがややあって「本当だ……」としみじみと、それはそれは大きな感動を込めて呟いたものだから、何だかおかしくて噴き出してしまった。
『ファウスト?どうかした?』
僕のストールを被って画面に戻ってきたネロに、ううん、と首を振る。
家に一人の僕は今日も寂しい。それと同じだけの愛おしさを抱えている自分の幸福を噛み締めながら、画面の中の愛しい人に微笑んだ。
「寂しいな。早く帰ってきてよ、ネロ」