桃色密談ネロの所属する部署が配置されているフロアは、他所と比較しても終日賑やかだ。
取引先との電話、商談に向けた作戦会議、何より営業職であれば話好きな人間も多い。ネロは会社の人間と世間話で盛り上がれるようなタイプではないけれど、静かすぎて皆が周囲に聞き耳を立てているような、常に背中に視線が刺さる居心地の悪さを感じるよりは、多少騒々しい方が仕事をしやすいタイプだった。
「ネロ、この前提案に行った企業からもっと詳細聞きたいってメール来た」
「お、やるじゃん。速攻で返信しときな。取り逃がすなよ」
「分かった」
ぐんぐん成長する頼もしい後輩の面倒を見つつ、今日は一日内勤の予定だ。
ここ最近は大きな契約や出張が重なったために細々とした雑務が溜まっている。ひとつひとつは面倒な案件ではないから、さっさと片付けて久々に定時きっかりに帰りたい。どうせなら駅ビルでちょっと買い物したいし、一緒に暮らす愛しい人と一緒に帰りたい。
ネロの目はパソコンの画面を見ているけれど、頭は既に仕事あがりのことを考えていた。
「ネロ」
「うわっ」
だから、背後からネロのデスクに近付く気配と足音に全く気が付かなかった。覗き込む程に傍に来た彼は、ふわりと秘めやかに柑橘系の残り香を纏っている。
「……え、ファウスト?」
「そうだけど。僕が他の人間に見えるなら、眼科に行くことを勧めるよ」
「いや、そんな気配消して近付かれたら誰だって驚くって」
「別に消した覚えはないよ」
意識の外から突然現れたことにも驚いたが、ファウストがこのフロアを――更に言えばネロのデスクを――訪れたのはネロが本社勤務になって数年越し、初めての出来事だった。真面目すぎるくらいに真面目な性格をしているから、公私混同はしたくないのだろうと分かっていたので特に触れることもしなかった。
珍しいこともあるもんだな、としげしげとファウストを見つめる。自宅を出た朝と寸分変わらないほどに皺も隙も無いグレーのスーツ。目元はブルーライトカットの眼鏡が掛けられていて、少々霞んで見えるアメジストの本来の美しさを正面から受け止められるのは自分だけなのだという優越感でこっそり胸の内が躍る。
束ねられた資料と電卓を手に、ファウストはきょろりと周囲を見回した。
「……きみの上司に用があったのだけど」
「ブラッド?今日は終日外出だよ。メールは見るだろうし、要件あれば伝えておくけど」
「提出された費用計上申請の件。バリデーター僕だから、確認したい点がいくつか」
「ああ、それほとんど俺が資料作ったから分かるよ。説明しようか」
もしかすると急いでいたのかもしれない。あからさまにほっとした表情を浮かべたファウストは、助かるよ、と口元をほんわりと緩めた。かわいい顔をここでしないでほしいなぁ、なんて今度は独占欲を胸の内に宿しながら、ネロはよっこいせと席を立った。
「未承認案件だからオープンスペースじゃない方がいいよな。シノ、俺三番ブースにいるから、何かあったらドア叩いてくれ」
「分かった。ごゆっくり」
「見込が昨年度実績より結構高い気がするけど」
「去年は社会的に規制があったから、異常値として除外してる。二年前から過去五年分のありせばで平均増加率出して、今年度の予算値に掛けた」
「そう。但し書きを入れた方がいいな……。市場状況が分かるものはある?」
「他社実績なら貰ったよ。一応、前年比で百パー超えしてるとこはゼロだから、うちが低すぎってことはない」
「なら、それも載せた方がいい。アペで構わないから。多分上役に持っていった時、同じことを聞かれる」
「了解、追加しとくよ。他には?」
パチパチとキーを見ずに電卓を叩いている。ブラインドタッチだ、と淀みなく動く指をぼんやり見つめながら手持ち無沙汰にくるくるとペンを回していると、思った通りの数字が出たらしいファウストがふと顔をあげた。
「ありがとう。一旦これでいってみるよ」
「どういたしまして。何とか通してくれると助かるな」
「善処はしよう」
整理された丁寧な文字が並び、几帳面さがうかがえる資料はファウストの仕事ぶりそのものを見つめているようだ。確認したい点がと言いながら、申請を通すための助言をしっかりくれる。困ったらこの人を頼れと言われるのも分かるな、とネロは心の中で恋人に称賛を送りつつ、ところでさと切り出した。
「ファウストが俺のフロア来るの、初めてじゃない?」
びっくりしたけど、嬉しいな。そうネロが続けると、先ほどまで真面目な仕事の顔をしていたファウストの顔が水を浴びた猫のように変わった。ネロと合わせていた視線をうろうろと彷徨わせ、斜め下の床を睨むように見つめ、遂にはかくりと俯いてしまった。
「ど、どうした?具合悪くなった?」
「……………った、」
「ん?」
「…………あ、会いたく、なった、から……」
蚊の鳴くような声を更に絞ったか細い声を、騒々しいフロアの中にあってもネロの耳は取りこぼすことはない。それがファウストの声である限り。
ネロはぽろりとボールペンを取り落とした。カラン、と机にぶつかって、床に落ちて、そのままぽつんと寂しげに放置される。
二人とも拾わない。二人とも動かない――動けない。
「……本当はきみの上司が不在なのも分かってて……スケジュールは普通に確認できるし……」
「え、ええ……?」
「き、きみが!今日一緒に帰ろうなんてチャット飛ばしてきて!いいよって返そうとしたら今朝香水つけた後に抱きしめてきた時に移ったっぽいきみの香水の香りがしたし!」
「俺のせい!?そんなにつけ過ぎたか……?」
「スケジュール見たら予定入ってないし……ステータスも連絡可能になってるなって……思ったら…………」
「……我慢できなくなっちゃったの……?」
「…………」
俯いた状態から睨むように上目遣いで見つめてくるファウストの眼力に怯みそうになるけれど、髪の隙間から覗く耳が真っ赤に染まっているために相殺されてプラスマイナスゼロ、むしろ可愛いにプラスでネロの心のメーターが振り切れた。
「資料の確認も、べつに今日中じゃなくてもよかったんだ……。でもきみが、知ってるっていうから……話せるなって……」
――え、ほっとした顔してたのもそういうこと?
至急案件が舞い込んできた時以上にネロの頭の中はてんてこ舞いになってしまった。狭いブースに二人きりで、けれどここで手を出す訳にはいかない、と理性が必死になって欲望の化身と戦っている。
「い、忙しかったなら詫びるよ……」
「いい!いいって!大丈夫だから!だから、えっと」
「な、なに」
「このブース、半までとってあるから……ギリギリまでいてよ……」
デスクの下、膝の上で爪の跡が付くくらいに握り締められていたファウストの手にそっと自分のそれを重ねる。そんなきつく握ったら痛いよ、と訴えるように撫でると、徐々に力が抜けていったので指を絡めて握った。冷房が強く効いたフロアにいて、ファウストの手は燃えるように熱く、手汗が滲んでぬるついている。
「う…………」
「だ、だめ?そんな可愛い顔で絶対席に戻したくねぇんだけど……」
「う、うるさい、公私混同するな」
「今のあんたにだけは言われたくねぇって……あぁ、もう」
なんでここオフィスなの、キスできねぇじゃん。
頭を抱えて突っ伏したネロはなにがなんでも今日は定時で帰る決心を固め、ファウストは真っ赤になった顔でネロの後頭部を睨んでいる。
一方、ブースの外。
「……ネロは今取り込み中だ、後で掛け直させる」
内線が掛かってきたことを告げようとドアに手を掛けかけたシノは、そっとその手を下ろした。