爪先に、貴方色のガラスの靴呼吸すら苦しくなるような暑さは身を潜め、ぺったりと残った湿気に身体を膜で包まれるような夜。
部屋の中に入ってしまえば文明の英智が快適な空間を創り出しており、人間の進歩とは凄まじいものだ。恩恵をしっかりと享受しながら、ネロはソファで新聞を広げている。
国内情勢、海外情勢、マーケット、エンタメ。追いきれず抱えきれない情報が溢れる紙面の上に視線を巡らせていると、ふと影が落ちた。
「ネロ」
少し前までドライヤーをかけられていた髪はふんわりと膨らみ、ほんの少し額が汗ばんでいる。ほのかに漂う甘やかな香りはヘアオイルだろう。乾かすためなのに熱さで汗をまたかくのが嫌だ、と夏は自然乾燥に逃げがちなネロとは違い、何時でも美意識を失わないお姫様をネロは素直に尊敬している。
「足、塗ってほしいんだけど」
「新しいの買ったの?」
うん、と頷いてネロと肘掛けの間に華奢な身体をするりと割り込ませてきたファウストの手には小瓶が握られている。お気に入りのブランドが新色を出すのだ、と熱心に通販サイトを見詰める横顔に俺のことも見てよと嫉妬して手を出してしまったことは記憶にそこそこ新しいが、あの時見ていたものだろう。
新聞を適当に畳んでテーブルに置く。同時に手渡された小瓶は地平線近くの、少し控えめな淡さを持ち合わせた空をとろりと閉じ込めていて、電気にかざすと細かいパールが上品に煌めいた。
「青でよかったの?」
「青がよかったの」
むき出しの膝を抱えて座り直したファウストは両手で足先を撫でている。つるりと綺麗に整えられた十の桜貝が、ネロの手で着飾られるのを行儀よく待っている。
「ネロの色」
ファウストがネロの色を身に付けたがるのはこれが初めてではない。
青いピアス、マニキュア、ペンダントトップに、ネグリジェまで。
数えてみればもっと出てくるだろう。好きなものを想起させる色を傍に置きたい気持ちは分かるし、それは例えばキャラクターだったり、俳優のイメージカラーにも当てはまる。
過去の女はネロに着けさせたがるばかりで、こうして自分が身に纏うというのはファウストが初めてのことだった。
相手が自分の色に染まるというのは気分が良いものだと、今になってネロは理解している。
ソファから降りたネロはファウストの前に位置取り、数枚ティッシュを引き抜いた。小瓶の蓋を開ければ、ツンと鼻を刺す独特なにおいがする。後で換気扇を回さないとなあ、と頭の片隅に置きながらハケから余分な液体を落とし、小さな爪先にひたりと当てた。一瞬伝わるヒヤリとした感覚に、ファウストがぴくりと身を震わせる。
「あ」
「なに?」
「ファウスト、パンプス焼けしてる」
真白い肌がなめらかに続く脚、その甲に僅かな色の境目が出来ている。
つ、とその線をなぞるとくすぐったさにファウストが足先を引っ込めようとしたので、細い足首を逃がさないように掴んだ。流石に指が一周することはないけれど、もう少し食わせようと思う。夏バテで少し食欲落ちてたみたいだし。
「ちょ、やだ」
「こーら、まだ終わってないだろ」
「余計なことしてないで早くして!」
げしげしともう片方の足で容赦なく蹴りつけられる。外では淑やかなレディを崩さないファウストが、家の中ではお転婆なお姫様に変身を遂げるのだ。
いや、こっちが本性だろう。少々足癖が悪いところも、ネロは実は好きである。
「はいはい、オヒメサマ」
ガラスの靴を履かせるように恭しく、ネロはファウストの足先を持ち直した。