一番の味方「(無理)」
ネロは大の字になって自宅のリビングの天井を見上げている。
半年以上かけて進めてきたプロジェクトを、いとも容易くひっくり返された。
鶴の一声、などという美しいものでは到底ない。もっと嫌な、声すら聞きたくないような物の怪の一声だ。
勿論ネロと所属を同じくする同僚達は激昂したし、上司殿におかれてはそれはそれは非常にご立腹だった。ネロ自身でさえ、オンラインの画面越しに「っハア!? 何ぬかしてんだ!?」と一人で盛大な悪態を吐き出したくらいだ。現場にいなくてよかった。ついでにオンラインのマイクもミュートになっていて助かった。
当然だろう。ただ上役の椅子に座っているだけの人間が、しかも半年前に許可を出した張本人があっさりと掌を返して「ノー」と言ってきたのだから。
来週から練り直しだろうか。いや、うちのボスはそんなことはしない。味方を増やして外堀を埋めて、もう一度、完膚なきまでにあの上役に首を縦に振らせるのだろう。
『お前ら、週明けから忙しくなるぞ』
そう宣言した上司殿ですら、今日は定時きっかりにパソコンがオフラインを示している。
――誇りを穢されたと、そう表現してもよい。
彼等にとって、己の手で成し遂げた仕事は正しく誇りなのだから。
ネロはそこまで仕事に誇りを持てていない。そこそこにやって、たまに少し贅沢が出来るくらいの稼ぎがあればそれでいい。ついでに休みは多い方がいい。ワークライフバランスではなく、ライフ特化。
それでもネロにとって、此度の出来事は相当に心を沈ませた。
「(あーあ……嫌になるな)」
望遠鏡を担いだところで見えないものは見えず、きちんと掃除と手入れの行き届いた部屋の天井には染みのひとつも星のひとつもない。のっぺりと単色が広がるのみである。
苦労を踏み躙られた悔しさよりも、自ら発した言葉の責任をいとも容易く放棄された虚しさが強くネロの心に影を落とした。これだから人間は、と不信感が一度頭をもたげてしまえば、あっという間に心は黒く塗りつぶされてゆく。
一人がこうではどうせ他の上役も、人間もそうなのだろうな、しんどいな。
ネロの心の中から身体じゅうに人間不信が伝染し、泥沼に落ちたように視界の隅が徐々に真っ黒に覆われてゆく。
「うわっ」
……そして、そんな泥沼の底に沈み掛けたネロを引き上げてくれるのはいつもファウストだった。
ネロが気付かないうちに帰宅していたファウストは、リビングの床で虚無に覆われた顔をして大の字になっているネロにぎょっとした声をあげると、ちらりとテーブルの上に視線をやった。
「……ああ、」
退勤はしっかり押したまま、つきっぱなしのデスクトップ画面を見たファウストは呆れと慰めの篭ったため息をついた。この呆れはネロに向けられたものではない。
「無事?」
「…………」
ネロの傍らにしゃがみ込んだファウストは、つんつんとネロの頬をつついた。綺麗に切りそろえられた爪はネロのやわらかな皮膚を痛めることはしない。
うんともすんとも物申さず、口を少し空けてぼんやりと虚空を見つめるネロにファウストは声をかけ続ける。
「夕食は僕が作ろうか?」
「……オレガツクリタイ」
「そう? お願いしてもいいの?」
「ン……」
ネロにとって、料理は息抜きのひとつでもある。苛々した時や煮詰まった時、料理をすれば多少は気が紛れた。今日は出社したファウストの方が身体的にも疲れているだろうし、せっかくメニューも決めて買い出しもしたのだから調理してやりたい気持ちはネロの中に確かに存在している。
気持ちに心と身体が呼応しないネロに、それで、とファウストは続けた。
「どの部署の誰? きみをそんなにしたのは。費用申請全部蹴落とそうか? それとも来年度の予算九割カットでもいいけど」
なんでもないことのようにさらりと告げたファウストに、今度はネロの方がぎょっとした。あまりに公私混同が過ぎる発言に我を取り戻したネロがファウストの方へ顔を向けると、発言の苛烈さに似合わない、穏やかな笑みがそこにあった。
「……あんた、えげつねぇな……」
「僕はネロの味方だからね。どこかの部署の誰かさんにきみをそんなにされて、黙っているわけがないだろう」
「えぇ……俺のファウストめっちゃかっこいい……好き……」
片手で顔を覆ったネロに、戻ってきたねとファウストは空色の前髪を払って額に唇を寄せた。夜は肌寒くなったこの時期でもとろけるようにあたたかいファウストの唇から、じわりとネロの心に熱が溶けだす。
「おかえり」
「……ファウストも、おかえり」
「ただいま。ねえ、今夜の夕飯はなに?」
玄関からいい香りがしたからお腹なっちゃった、と無邪気に微笑むファウストに、いつもネロは救われている。
仕事で嫌なことがあって虚無の世界に埋もれてしまっても、今回のように人間不信がもくもくと募ってしまっても。どんな時でもファウストはネロを二人が生きる元の世界に戻してくれて、どんな時でもネロの味方でいてくれた。ファウストが味方でいてくれるのなら、ネロは無敵になれる気がした。
当然落ち込むことはあるけれど、耐えることでしかやり過ごす方法を知らなかった一人の時と違い、今は安心して落ち込むことが出来る。落ち込むなという方が土台無理な話であるネロにとって、この安心感は何にも変え難いものだった。
「重陽の節句だから、栗ごはんです」
「この前買った栗?」
「そう。ほくほくだよ」
「ほくほくって言うネロがかわいい」
「なんで……?」
ほら、と立ち上がったファウストがネロに手を伸ばす。
眼鏡の奥で輝いている世界で一番優しい紫は、世界で一番の愛情をいつもネロに向けてくれる。
「菊も買ってきたんだ。浮かべて菊酒にしよう」
「いいね。金曜だし、いい酒出そうか」
「栗も、菊も、みんなネロの目とおんなじ色」
「どれが一番好き?」
「さて、どれも好きだな」
「このやろ、拗ねるぞ」
「冗談だよ」
伸ばされた手を取ったネロは、身体を起こすと同時にファウストの手を引いた。少しの抵抗もせず胸元に降りてきた身体からは秋のにおいがする。
世界で一番優しい黄色を、世界で一番の愛情を込めて、いつだってファウストに向けていたい。
そのためにも無病息災で、まずは今年の残り四ヶ月を過ごさなければ。
ならば沈んでいる暇はない。引っ張り起こしてくれた愛しい人の空腹を満たすため、ネロは次の仕事場をキッチンへと移した。