ゆめみる時もあなたのそばで「よぉ。先生は?」
足元に擦り寄ってきた白猫はネロの問いかけに答えない。代わりに足元をくるくると回り、行こうよと誘うように見上げてくる。暫し見つめ合ったのち、ふ、と吐息と共に笑みを零す。
「迎えに行く?」
なぁん。
今度は返事をするようにひと鳴き。玄関の方へ走り去ってゆく後ろ姿を見送りながら、ネロはコンロの火を消した。
まだ湯気をたてる小鍋に蓋もして、間違って精霊たちが鍋をひっくり返したりしないよう、けれど多少のつまみ食いくらいは大目に見てやる魔法でやわく結界を張って。
勝手知ったる足取りで玄関をくぐれば、嵐の谷は澄み渡るような風が吹いている。やわらかくネロの髪を揺らすそれは、ほのかにファウストの魔力の香りを運んできた。
パタン。
閉じられたドアの向こう、一人と一匹の足音が隠れ家から離れてゆく。
午後を迎える明るい室内では、テーブルに行儀よく並べられた二人分のカトラリーが家主たちの帰りを待っている。
薬草を採りに行ってくるよ、すぐ戻るからと二匹のお供を連れて出掛けた探し人は果たして、少し森へ入ったところ、木漏れ日の降り注ぐ大木の根元に凭れて穏やかな寝息をたてていた。投げ出された両脚の上では黒猫が一匹ぬくぬくと丸くなっている。色とりどりの草花でいっぱいになった籠の上を蝶が蜜をいただいても良いかしら、と飛び、彼女をじっと見つめていたもう一匹の黒猫はネロにどう思う?と尋ねるように顔を向けた。
「蜜ならどうぞ持っていきな、お嬢さん。そこのお姫様を驚かせないように、そっとな」
ふわりと音を立てずに舞い降りた様を見届けた一匹は、やがて駆け寄ってきた白猫とじゃれ合い始めた。かさかさと草を躍らせる無邪気な戯れは心の大事なところにいる二人をふと思い起こさせる。
ファウストの横に音を立てず膝をつき、ネロはそっとそのかんばせを眺めた。サングラスに隠されていない顔が見慣れたものになってから、もう随分と時が経つ。常にうっすらと浮かんでいた隈は綺麗に無くなり、つるりと美しい白磁の肌がなめらかなひかりで覆っている。薄く開いた唇は健康的な赤みを取り戻し、吸えば蜜よりも甘いことをネロは知っている。
「せーんせ?」
顔の前で手を振っても、頬をつついてみても、木漏れ日を透かした睫毛は静かに閉ざされたまま。澄んだ風に揺れて夢を見ている。
どうしようかな、と優しい迷いで心が揺れる。昼食に好物のガレットを焼いたから早く食べて欲しいきもちと、このまま穏やかな眠りにくるまれていてほしいきもちがネロの中で綱引きをしている。
「……よくねてんなぁ」
厄災の討伐後、要した期間に個人差こそあったものの、厄災の傷は皆から跡形もなく消え去った。ファウストがついに結界を張らず眠りにつけるようになったのは討伐後数年が経過してからで、何度も夢が溢れていないかを確認しては、本人の心がもう大丈夫と踏み込むまでに少々時間がかかってしまった。その間を根気よく付き合い続けたネロは、ようやくファウストに平穏な眠りが訪れた夜、安らかな寝息をたてるファウストの隣で静かに枕を濡らした。
やっと、本当の意味で戦いが終わった。やっと、このひとから月の重荷が取り除かれたのだと。
以来、今までの分を取り戻すかのように眠りに身を委ねるファウストの姿をよく見掛けるようになった。
ネロの店にファウストが来たとき。
店番(Close札は掲げているが)を頼んで買い出しから戻ると、陽当たりのいい席で突っ伏している姿。店じまいをするネロを待ちながらうとうと船を漕ぐ姿。
嵐の谷にネロが来たとき。
ソファに並んで本を読んでいたらいつのまにか肩に凭れて寝息をたてている姿。晩酌後のいい気分のままころりと眠る姿。朝、ネロがいると平気で寝坊して「せんせ、朝食できたよ」と起こしに行くとあと五分、十分とぐずる姿。
これら全ては同時に、ネロの前でだけ見せるファウストの姿でもあった。ヒースクリフとシノが訪れる日や、外出先だったり客人の前では以前と変わらず凛々しく聡明なファウスト・ラウィーニアで在り続けている。
常に伸ばした背筋からくたりと力を抜き、いちばん無防備な姿を惜しげもなく委ねてくる。
ファウストがネロに寄せる甘えは、眠りのかたちをしていた。
「せんせ、大変。ガレットが上手く焼けたよ」
じゃれ合っていた二匹がネロの元に戻ってくる。まだ起きないの、と覗き込むようにファウストにふんふんと顔を近付ける白猫をあやしていると、ファウストの脚の上で丸くなっていた黒猫が増えた気配に気が付いたらしい。ふなん、と健やかにあくびをこぼし、もぞもぞと動き出す。
「……ん」
重みとぬくもりが動いたことを察したのか、美しく生え揃った睫毛がふるりとさざめく。
「(――ああ、)」
蕾が花開くように隠れていた菫色がゆるりと目覚めるさまを、ネロはじっと見つめた。夢と現をぼんやりと揺蕩っていた二対はやがて、ひたりとネロを捉える。
「……ネロ?」
目覚めを待ち構えていた猫達が覚醒したばかりのファウストにおはようとすり寄る。一匹ずつ丁寧に撫でてやりながらくぁ、とあくびをこぼす様子が黒猫と重なって、あまりにものどかな光景にネロの表情もふにゃりと緩んでしまう。
「おはよ、せんせ」
「すまない……ひと休みしていたら、あたたかくて」
「いいって。よく寝てたよ」
目尻に滲んだ露にそっと唇を寄せて吸った。朝露のような甘さが舌からにじみ、ネロの心までをとろりと満たす。
「ここ、いい場所だな」
「さがした?」
「そんなに。今日はいい風が吹いてるから、あんたの残り香を追ってきた」
「魔力の?ねえ、僕の魔力ってどんな香りがするの」
「深い森の香り。厳かで、神秘的で、慈愛に満ちてて、先生だなって香り」
「なにそれ。ぜんぜん分かんないよ」
くすくす笑い合いながらファウストがぐ、と伸びをすると、固まった身体がぽきりと音をたてた。きみの夢を見ていたよ。そう語るファウストの表情はすっきりと美しい。
「そう?なら、とびきりいい夢だ」
「夢の中のきみはガレットを焼いてくれていた」
「正夢だなぁ先生。昼食にガレット焼けてるよ」
木漏れ日を浴びてきらきらと艶めくオリーブブラウンの髪を揺らし、ファウストは嬉しそうにふわりと笑みを浮かべた。
「ああ、僕は幸せものだ。夢の中でも覚めてもきみが甘やかしてくれる」
世界中の幸福を抱き締めたように言うものだから、たまらなくなったネロはファウストの手を引いて立ち上がらせ、草も土埃もつけたままの身体を抱き締めた。
やっぱり起きていてほしい。現実の俺が甘やかしてやれるのは、起きている時のファウストだけだから。
夢の中の自分にちょっぴり嫉妬をしたネロを分かっているように、ファウストは優しくネロの背中を撫でた。起き抜けで常よりも少し高い体温をシャツ越しに感じていると、抱き締めた身体がまだほかほかとあたたかいことに気付く。
「帰ろう。せっかくきみが作ってくれた食事が冷めてしまう」
「……もしかして、まだ眠い?」
「ネロがいると眠くなるんだよ。きみの傍もきみも、あったかくて心地よくて、安心できるから」
ふぁ、とこらえきれずあくびをまたこぼしたファウストに、俺のせいなのとネロは笑う。あたたかい日のひかりと、あたたかなひとに包まれたファウストの背後には、言葉通りにもう柔らかな眠気がとろとろと迫っている。
「食べ終わったら、一緒に昼寝をしよう」
「食べたあとすぐ寝ると牛になるぞ」
「牛になっても好きでいてくれるでしょ?」
再び露に濡らした菫色を煌めかせて、ファウストはネロに笑いかけた。