ファウストとねこと祈りのはなし 「……猫が好きな理由?」
ファウストが、ゆっくりと顔を上げてネロを見やる。
西の国から戻って以降、ネロとファウストは少しずつ過去を打ち明け始めた。酒の力が必要になるほどのものはまだ難しくとも、眠りに見放された真夜中や、静けさにさみしくなった午睡の頃合いに、ひっそりと大人のないしょ話をする。二度と戻らないのだと固く封をした過去の話をすることは、かさぶたを自分で剥がして傷口をさらし合う行為でもある。それは穏やかなようでいて、その実、ひどく無防備な行為だ。だからネロは、今日もファウストを太陽から庇うように立った。さらした傷口が日光に焼かれないように。吹雪で凍えた傷口には、昼下がりの陽光は生ぬるいものだ。
「どうかしたの」
「俺が? なんで」
「きみがそんなことを訊ねてくるなんて、めずらしい」
既に解説された講義内容をもう一度聞き返す時のような呆れた色はなく、ネロが自発的に差し出してきた他者への好奇心に対する驚きをはらんだまなざし。まっすぐに向けられる純真さがちくちくとこそばゆく、今すぐ逃げ出したいような、もう少しここに踏ん張って居たいような気持ちが綱引きをしている。
「(好き、に偽りはないんだろうけど)」
頼りない細さの躰ではあるものの、魔力や雰囲気、声の響きから、ファウストという魔法使いの存在感は決して頼りないものではない。精霊を纏わせ戦場に立つ姿はさすが、革命軍の元指導者たる堂々としたものだ。穏やかな日常にあっても、書物を捲る時、好物を食す時、子供たちの口喧嘩を見守る時も、常に背筋を凛と伸ばしたうつくしい佇まいを崩さない。
けれど猫を撫でている時のファウストを目にするたび、火にかけすぎた野菜のように触れたら崩れてしまいそうだとネロは思う。背を丸めた躰はあんなにも小さく、撫でる手は景色が透けるほどに真白いものだっただろうか。かわいいものを目にした際はゆるゆると輪郭が膨らむような心の浮き立ちを覚える。猫と対峙しているファウストは、どうしてか儚い。
「(あんたのことを知りたいと思ったんだよ)」
そう告げられないずるい男は、逆光に紛れて曖昧に笑った。
薄いガラスに隠された瞳が、ずるい男を見上げている。
「……猫は、ねこだったから」
じ、と用心深くネロを観察していたファウストは、しばしの沈黙の末にそう答えた。
「猫じゃないものは?」
「役割を果たすもの」
ファウストとの会話は、時折謎かけめいて営まれる。
紐解いて答えを見つけ出すと、ごほうびにネロはファウストの心に触れることができる。そのごほうびが恐ろしくなった時は、わざと間違えてはぐらかした。ネロが出来の悪い生徒のふりをするたび、ファウストはネロが自分の心に触れることを躊躇っているのだと察して、少し距離の取り方を変える。唯一の正解は存在しない謎かけを繰り返しながら、二人はふたりの最大公約数を探り続けてきた。東の子どもたちのように、真正面から素直にぶつかり合うことがもうできない大人同士のやり方で。
「馬や牛は家畜兼食用。放牧に適した土地ではなかったから羊はいないし、犬も必要なかった。鳥は当時貴重品だった卵を手に入れる手段で、やっぱり食用。食糧が無い住居には鼠も住みつかない」
「昔の中央もそんなんだったのか」
「なにせ戦乱の世だ。自然に限らず、よその人間や魔法使いもぜんぶ脅威だったし」
「北の国とある意味いい勝負かもな」
「そんな環境でも、猫はずっと気ままだったよ。知らん顔でひなたぼっこして、ころころして。撫でてやれば喉を鳴らして、またころころする」
そう語るファウストの髪は、陽光にあたたまる若い大地の色をしている。ネロの人生の大半は魔法使いも人間も動物も関係なく、等しく生命という存在を許さぬように霏々として降りしきる白の記憶で敷き詰められている。夥しい数で身体に襲い掛かり、血のぬくもりを奪う雪に覆われていない大地は、ネロからすれば生命を許す存在に等しいものだった。許された地のうえに住まうもの達は奪い合い傷つけあうことなく生きているのだろうと、稚拙な幻想を抱いていた時代もあるほどには。
「問。賢者の世界での『ねこ』という名前の由来を答えなさい」
「えぇ? 知らないよ、降参」
「早すぎ。『寝るのを好む』『よく寝る子』だ」
「はは、どの世界でも変わらねえな」
「それでいいんだ。そう、皆が、同じように……」
不意に投げかけられた問い掛けと、続く不自然な締めくくり。相変わらず喉を鳴らしてころがる愛らしい姿を見つめながら、ファウストの言葉がみぞれのように落ちる。雨でも雪でもない、曖昧なその向こうがわに潜むものが溶けて消えてしまう前に、ネロはそっと紐を引いた。
「祈りなんだな。あんたにとって」
親猫が子猫を隠すように守られたファウストの心のやわらかい部分に、自分のゆびさきは触れたのだろう。日光をふくんできらきらとあたたかい毛並みを優しく撫でていたファウストの手がぴたりと止まったのを見たネロは、そう直感した。
いつか、皆がこうなればいい。
人も、魔法使いも、猫みたいに気ままにひなたぼっこができて、疲れたらころころする。
欠伸が出るくらいにのどかで平和な世界に、どうかなりますように。
許しに満ちたはずの大地のうえで許されなかった魔法使いは、逃れ着いた先の谷で壊れかけた魂を癒すまでに百年を要した。それでも失われることなく残り続けた、あたたかく、やわらかな未来への祈り。触れて、抱き締めて、血が通うぬくもりを確かめたい。まだ潰えていないのだと、壊さぬように必死に触れる姿はあまりにも儚くネロのまぶたに映る。
「迷惑な話だ」
是とも非とも答えないファウストの、真白い手にあのときの炎が透けて見える。
「猫は知らん顔するさ」
「……そうだね。ずっとそうだった」
「そうだろ」
「猫は好き。あたたかくて、やわらかくて」
「うん」
「……触れていると、すこしだけ泣きたくなる」
一度は焼かれた祈りの権化は、今も変わらず手の届く場所にいる。近くて、あまりにも遠い存在は、魔法使いの傷跡など知らん顔だ。零された言葉が冷たく触れたのか、猫は起き上がりどこかへと駆けて行った。ぬくもりの無くなった手元を、叶えることができなかったいつかを惜しむような顔でファウストは見つめている。
「いいよ、別に。俺しかいないから」
泣きたくなるのなら、我慢する必要はどこにもない。空腹時におなかがなるように、込み上げるものは出してしまった方がいい。うちがわに抱えた感情を吐露することの途方もなさを知る大人同士、落ちた誰かの涙を通り雨にすることは容易だろうと、ネロは思っていた。
けれどファウストは、よしてくれ、と眉を下げて笑う。
「なくなら喉元をぐるぐるさせる方がいい。きみしかいないなら」
中庭に並ぶふたりの間を、ひゅんと午後の風が吹き抜ける。巻き上がった髪が頬を撫でる感触は、猫が通り過ぎた時のそれに似ていた。
ネロは、ファウストの隣にそっとしゃがんだ。眼鏡にゆびをかけて殊更やさしく抜き去ると、青空がすこしだけ泣いて赤らんだような紫色が現れる。
次にネロがしてくれることを分かっているファウストは、やがて静かに瞼をおろす。