ファウスト・ラウィーニアは拗ねていた。
まさか四百年も生きてきて、ここまで盛大に拗ねることになろうとは。早く落ち着かなければ今晩寝る時に結界が作用しなくなるぞと、目の前の出来事とは別のもので精神安定を試みるもてんで効果がない。そんな自分にも腹がたつし、原因となった目の前にいる男にも腹を立てながら、ファウストはやっぱりぷりぷりと拗ねている。
「偶然出くわしただけだよ。中庭だし」
「ふぅん」
「部屋に連れ込んで飲むのはあんただけだって」
「でも「ふたりきり」だろう。オズと」
強調するように言ってやると、ネロの眉と目尻がきゅ、と上がった。普段は眠たげにやわらかな曲線を描いている表情が尖ったとき、ネロの雰囲気はキンと冷えた吹雪のようになる。
ファウストが任務で不在にしていた時、ネロは確かにオズと二人で晩酌をした。ネロの言う通りに偶然鉢合わせたなりゆきであり、意図してそうなったわけではない。おまけに二十一人の魔法使いが同じ魔法舎で過ごしているのだから、彼等のうち誰かと同じ時間を過ごすことになろうとなんらおかしい点はない。誰と過ごそうが、晩酌のグラスを合わせようが、それは全てネロの勝手である。そんなことはファウスト自身もよくよく分かっているのに、なんだかネロの「特別」を取られたようでずっとむかむかしている。
「晩酌の相手、僕でなくてもいいんじゃないの」
ついにはこんなことまで口から出てしまった。
ネロはファウストのものではないから、行動全てを制限することなどできやしないししたくもない。でも自分への「特別」はちゃんと「特別」のままにしてほしい。大人ぶった理性を幼子じみた我儘……いや、認めよう。これは生涯初めて抱いたヤキモチだ。ネロを取られたくないというヤキモチ。焦げたパンよりもずっと苦くてとても飲み込めたものではないこの感情を、ファウストはまだうまく制御することができずに持て余している。ああこういうところが「まだ四百年」と言われるところなのだと、ファウストは八つ当たりのようにネロからプイと顔を背け、見えない方の頬の内側を噛んだ。
そんなファウストの態度を受け、はあぁ、とネロがわざとらしく盛大なため息をつく。
「……折角飲んでるのに。そんなことばっか言う口は塞いじまうぞ」
「してみれば」
呆れられても仕方がないけどそんなあからさまにため息をつかなくともいいじゃないか。二百も年上なんだから慰めやご機嫌とりのひとつでもしてくれたっていいのに。ベッドの脚に小指をぶつける呪いでもかけてやろうか。同じ国の魔法使いなんだから僕がきみにこっそりしてるみたいにちょっとくらいえこひいきしろばか。
「すればいい。どうせでき――」
ない、と言い切ることは許されなかった。
不意にぼやけた視界。それが、近すぎる距離にあるネロの顔だと認識するまで数秒。自分の口が塞がれていることを認識したのは、それから更にたっぷり数秒のち。ネロの舌に唇をべろりと舐められてからだった。
「……は、ぇ?」
「できるよ」
睫毛が触れる距離で二対の瞳がぎらりとひかる。獲物を前にした獣の切先。欲しいものはこの手で奪い取る国で生きてきた男の狩猟本能。それがファウストに至近距離から向けられている。
「ずっとしたかったし、もっとすげぇのもできる」
ぽかんと口を開けて呆けるファウストの顎をゆびさきで上げ、もう一度ネロが唇を重ねる。さっきよりもしつこく唇を舐るネロの舌は、存外肉厚で、熱い。閉じてくれない金色がファウストの紫色を射抜く。息が苦しくて離してくれとシャツを引こうとしたのに、力が入らないゆびさきは縋りつくみたいにかりかりと引っ掻いただけ。漸く解放された唇を、ネロの親指が指紋の凹凸さえ覚えさせるかのごとく殊更ゆっくりと這う。紅を引くように唾液をぬろ、と伸ばし、その指で耳を撫でられる。やわらかなかたちを確かめ、軟骨をこりこりと遊ばれ、爪先が穴に侵入してかしゅ、かしゅり、擽られる。
なんだ、これは。
「せんせ」
「ぅ、」
「ファウスト」
「ッ、ぁ」
指先に残っていた唾液が耳にうっすらと付着する。フ、とネロに吐息を吹きかけられ、アルコールで火照った身体にそこだけがぞわりと鳥肌が立った。
なんだ、なんだこれは!?
気配が近い、近すぎる。普段は雨のように曖昧なおとこの、匂いたつような濃い気配に中てられる。ワインボトルを一気飲みさせられたよりも酷い酩酊でぐらぐら頭が揺れてしま……、こらだめ、もうくち吸うのだめ、腫れちゃう、耳の穴に囁くのもだめ、ちょくせつ吹き込まれたこえがこまくをゆらしてのうが、ゆれてしまう、ゆれて、あつい、とけて、あ、だめ、だめだってば、……
「あんただけだ。……どうされたい?」
このあとファウストがどうなってしまったのかは知るだけ野暮というもの。ファウストの運が悪かったとすれば、相手がネロであったことに限るだろう。