これから出掛ける、と告げたファウストに、じゃあ俺も行こうかなと返す。ほんとうに同行してほしくない時にはなにも言わず、風のように姿を消すひとだ。わざわざネロに宣言した本心をそっとスプーンですくいとると、ファウストはほんのりと眦を緩めた。勝手にすればとも、すまないとも言われる前に、勝手知ったる場所に掛けられていた彼の上着をぽいと投げ渡す。外出する旨と、すこし考えた末に夕食のしたくはカナリアに頼む旨も認めたメモ書きを魔法で賢者の元へと送ったネロは、それでとファウストに問いかけた。
「どこに行くんだ?」
「中央の国からは出ないよ。国境まではいかない南部の方へ」
「そうか。なら、もう出発した方がいいだろ」
午睡の頃合いを過ぎ、太陽は既に傾いている。今から出発したとて、場所次第では夜になるだろう。
そんな時間に一体なにをしに行くのか。そう訊ねることもなく、ただ出立を促してファウストの部屋の窓を開けると、そのままほうきを出して外へ飛び出した。こういうやんちゃなことをファウストは好まないが、誰にも会わずに外へ出るにはこうするのが手っ取り早いことをネロは知っている。後を追って外に出てきたファウストはネロに小言を零すことなく、魔法で丁寧に自室の窓とカーテンを閉めた。
「……それでは、行こうか」
* * *
もう名前すらも刻まれない集団墓地に手向けられた花は、すっかり陽の暮れた薄暗いなかでも鮮やかだ。道中に咲いていた野花の素朴さは湿った土によく馴染み、いずれ土に還るのだろう。静かに手を合わせているファウストの、薄い瞼の裏に映る彼女もまた、そうであるように。
「嫌な話をするかもしれないけど」
四百年前の死者など、よほどの偉人でもなければ墓など残ってすらいないだろうに、それでもファウストはここにいるのだと言う。言い聞かせていたのかもしれない。妹のことは、心地よい酩酊に身を任せた彼がほろりと零した程度のはなししか聞いたことはない。彼女のはなしをするときにファウストが纏う空気から、彼がどれだけ大切に想っていたのかを想像することくらい、ネロにとっては朝飯前であるのだけど。
「なんだ、手切れにするのか?」
屈んだまま目を開いたファウストがちいさく笑った。
「そんなことしねぇよ」
「そうか。それはよかった」
生きていれば、世界の見え方は変わる。しかし魂の根幹はそう易々と変われるものではない。今ここにいるファウストを見ていて、ネロはつくづくそう感じた。
「優しい、って言われるのが得意じゃないのはお互いさまだろ。そんなんじゃない、自分は世界を、人を不幸にしようとする呪い屋だ、って」
「事実だからな」
「でもやっぱり、俺はあんたを優しいと思うよ」
ファウストは、ネロの言葉に静かに耳を傾けている。視線は墓標に向けられたまま、気配でネロを見つめていた。
「ヒースやシノ、ミチルにルチル。カイン、リケ、アーサー、仕立て屋くん……あんたは特に、年下の若い魔法使いのことをずいぶんと気に掛けてる。そういうのってなんつーか……やろうとしてもすぐにできるもんじゃないだろ。だから、なんでだろうなって思ってたんだ」
そっか、そうだよな。ひとりでに納得しているネロに、ファウストは顔を向けた。怪訝そうなまなざしを向け、常は下がり気味の眉がやんわりと上がっている。なんだ、と言外に問いただしてくるのは年下の友人の顔つきで、等身大の彼を垣間見る瞬間にネロはいつも密やかな安堵を抱いていた。
「あんた、兄貴だったんだもんなぁ。あんたがあいつらに向ける優しさの根っこは妹さんがくれたんだな。そりゃあ変わんねえよ。変われねえだろ。こんな、いるかも分からない墓地に通うくらい、ファウストは妹が大事なんだから」
年若い魔法使い達を見守るときのファウストの顔が、先生役や保護者役とも違う……義務から湧いたものではないことをネロはじんわりと感じ取っていた。紫色の双眸がやんわりとはらむ温度と湿度。僅かに差していたのは、戻らぬ過去へのさみしさだろうか。彼等を妹に重ねているわけではないことくらい分かりきっていたけれど、あまりにも自然と湧き出していたファウストの情は、兄のかたちをしてネロの瞳に映っていた。
はつりと見開いた紫色が、ぱちぱちと数度点滅をする。上がっていた眉が山型から下がり眉にゆるりと戻ったところで、ファウストはぽつりと声を地面に降らせた。
「……僕は、」
「ん」
「僕の名は、ファウスト・ラウィーニア。元中央の魔法使いで、今は東の魔法使いで、先生役」
「そうだな」
「僕をファウスト・ラウィーニアにしたのは世界だ。だが彼女は、妹は、……僕を兄にした」
ファウストのゆびさきが土を撫でる。自分よりも幾分低い位置にあったであろう、同じ色のやわらかな髪を撫でるような優しい手付きで。白い手袋は茶色い翳をうすく纏い、この大地の下にしみこんだ存在を宿してゆく。
「もう声も覚えていない。記憶の中の顔も、僕の想像が作り出したまぼろしかもしれない」
参ったな、と降参したようにやんわりと零された笑みはほとんどが吐息に等しい。墓地に眠るものも、通り抜けた湿った風も、空に居座る厄災にも、届くことはない。
「僕は優しくないよ。……そう言ってしまうと、きみの理論で言えば僕は妹を否定することになるのか」
「そういう意図じゃねえけど……。あー、口出しすぎたな、ごめん」
「不愉快などではないさ。すこしばかり、驚いただけで」
懐かしそうに細められた瞳には、夜のうつくしいところが詰まっている。その網膜に映る光景の中を、残り香のようにくゆる存在。たしかな愛情をもって追いかけたそれは、やがて夜に溶けていった。
「妹はとうに死んだ。もう兄様と呼ばれることはない。僕の中から「兄」としての僕は消え、残ったのはファウスト・ラウィーニアだけだ。万物はいずれ死ぬ。仕方のないことだ」
ネロはファウストの隣に並んでしゃがんだ。それに合わせたように、ファウストが膝に顔を乗せて隣を向く。夜を共にしたときの、まだ行かないでほしいと枕に頬をこすりつけて甘えた顔。でも、と零すファウストの声色が僅かに掠れている。
「……嵐の谷で暮らしはじめた頃からずっと、あの子の残り香が尾を引いていた。もっと兄らしいことをしてやればよかった。もっと、兄でいてやるべきだったかと」
そう言い終わると、ファウストはそのまま膝に顔を伏せた。
西の国で抱いた未練は東の先生役としてのものだったかもしれないが、湧き出した源は変わらない。
おなじものをずっと抱えて、ただそれが、かたちを変えただけのもの。
「人間の一生は魔法使いよりも短い。その間じゅう、傍に兄としていられたとて……魔法使いの寿命の中では、ごく僅かな時だろうに」
「ファウスト」
「なに」
「あんたは、もう一度兄貴になりたいのか?」
「いや。僕を兄にできる存在は、もういないよ」
「そうだろ」
不死の存在など存在しない。まるで妹の死すらも自分のせいであるかのように丸まる背中を、ネロはぽん、と軽くたたいた。
「長くても、短くても、百年経たないうちにあんたは兄貴じゃなくなった。それは変わらない」
「慰めているのか」
「あんたの好きにとらえていいよ」
痩躯には背骨がくっきりと浮かんでいる。叩いたてのひらに感じた硬い感触は白い骨になることはできず、彼女と同じ場所に還ることはない。
土のにおいがする。夜の墓地特有の、どこか湿った土のにおいだ。なにかが蠢いて、息づいているかのような、生々しいにおい。
それを見下ろす星空は、相も変わらず美しい紺碧に凪いている。またたく星が滴り落ちそうだ。泣けない誰かの代わりに流れてくれやしないかと、ふと思ってしまうほどには。
「……ここに来ると、色々な感情が胸の中で反射し合う。色々な僕が鏡に浮かび上がっては消えてゆく。どれもが僕だから、落ち着かなくなる……普段はマナエリアに向かうのだけど」
顔を上げたファウストの瞳にはっているのがみずではないことを確認すると、ネロは立ち上がった。そろそろ戻らなければ。日付が変わる前に魔法舎に到着するのが難しくなる。外出の旨は知らせているが、あまりに戻りが遅くなって心配をかけるのは本意ではない。
立ち上がったネロを、ファウストの視線が追う。先生か、友人か、それとも。無言で見つめてくるまなざしは、とろりと期待を滲ませて訪れる深夜を抱えている。
「……ネロ」
「んー?」
「今夜は、朝まで一緒にいてほしい」
「さみしくなった?」
ネロが差し出した両手をファウストは確りと掴んだ。よっこいせと彼を立ち上がらせたネロに、ファウストはしな垂れかかるように身体を預けた。
「もう慣れたよ、……けど、今夜はただのおとこになりたい」
「ファウストじゃなくて?」
首筋にすり寄り、囁く。誘うようにネロの手をなぞると、ネロの手がファウストの手を握って応えた。
「きみに料理されて、きもちよくされて、あられもなくよがるだけの、ただのおとこにして」
兄でも、先生でも、英雄でも魔法使いでもない。ファウストですらない。すべての肩書をきみの手で丁寧に剥いて、ただのいきものに。
そうすればきっと、目覚めと共に僕はまた、ファウストに羽化することができるから。