1.カレーに卵は美学土鍋で炊く白米はそれだけでごちそうだし、沢山の根菜にキノコと少しの豚肉を入れた汁物だけでしっかりと栄養が取れる。
「いただきます」
そんなシンプルな食卓を俯瞰しながら温かい豚汁に口をつける。家族がいたらメインにサイドと品数も増え、それに加えて栄養バランスも考え毎日作らなくてはならない。今になって母親に頭が上がらないなんて思いながらも、“男の子なんだから”と理由で沢山の料理を食べさせられたのは苦い思い出でもある。
一人暮らしをしていて思うのは、メインのおかずが無くても十分だという事だった。勿論、手間暇かかる凝った料理をするのも好きだが、ネットに上げる承認欲求の為だけに作るのも何か違う気がする。大食漢でも無いし食べた分だけ身体に蓄える体質もあり、大量に作ることは殆どない。
大鍋いっぱいのカレー
スキレットからあふれそうなカステラ
断面がパンより分厚いサンドイッチ
ツリーみたいな唐揚げ
見るのは好きだが食べるとなっては無理な代物たち。はなから食べられないとわかっている量のものだからチャレンジはしないが、一度は作ってみたいという願望もある。
「誰か食べてくれる人がいたら話が変わってくるかもしれないな」
◇◇◇
週末はついつい残業しがちになってしまう。休みが近づくにつれて仕事のペースを速める反面、ここまでやれば来週が楽になるかもしれない……と手を出してしまうのは社畜に片足を突っ込んでいるのかもしれない。
「疲れた……」
別に誰に言う訳でもなくぽつりと口から零れ落ちた言葉。今の仕事に不満もないが、毎日ルーティーンはこの数年で確立してしまった。マンションのエントランスにあるポストを覗きエレベーターに向かう。キャパ的にギリギリだと思うがこのマンションにはエレベーターが一機しかない。数を広さでカバーしたようであったが、俺的には多少狭くても二機欲しいと思ってしまう。今日は先客がいた。
「こんばんは」
自分よりも少し背の高いお隣さん。正確に言うと隣の空き室を挟んだ隣の住人。俺と同じようにスーツを着ているが、どことなく気品があり立ち振る舞いも綺麗な印象を受ける。その容姿と反して手に持たれているもののギャップが大きかった。
(今日はフライドチキン)
有名フライドチキンチェーン店、透明な袋の中には盆正月にしか見た事が無いバケツ型のセット。それが二つ、両手にそれぞれあるから四つ。この前エンカウントした時はファストチェーン店のバーガーが数えきれないほど袋に入っていた。
「こんばんは」
ホールに入る前に気が付けばエントランスで時間を潰したが、入ってきた以上一緒に乗って上がるしかない。ほどなくして到着したエレベーターに乗り込み二人きりになった。
(フライドチキンか……。骨付きの方が肉の味が美味しい気がするが、どうしても弁当に入れるとなると少し面倒くさいんだよな。やっぱりから揚げだな。週末にまとめて揚げて冷凍しておくか)
ついついフライドチキンを見ながらそんな事をぼんやりと考えていると思いもよらず声がかかった。
「すみません、ファストフードって匂いますよね」
申し訳なさそうに眉を下げる隣人。あまりまじまじと顔を見たことは無かったが、改めてみると身なり以上に整った顔をしていた。不躾に見てしまっていたのはこっちの方なので、相手は何も悪くない。
「いや。イベントでしか見ないサイズだな、と思ってな。パーティーでもするのか?」
相手から返ってきた反応に、俺は思わず目を見開いた。
「いえ……一人で食べます」
「へっ?」
間抜けな返事しか出来ず居住フロアに着くと、会釈で別れて各々家に入る。錠のかかる音がしてもなお、俺の鼓膜はさっきの言葉が離れない。
“一人で食べます”
あの量を一人で食べるのか……?テレビの特番や最近は動画配信サイトなんかでも大食いの人が沢山いるが、まさかこんな身近にいるなんて思ってもみなかった。
◇◇◇
会社の壁に掛かった時計がてっぺんを指した。デスクにかじりついていた同僚たちがばらばらと立ち上がり部署を後にしていく。その流れに乗らずに俺は引き出しから保冷バッグを取り出すとモスグリーンのランチマットに包んだ弁当を広げる。ラップに包んだ小ぶりのおにぎりと一段の弁当箱、保温ジャーには昨日作った豚汁の残りを入れてある。おにぎりも弁当箱の中身もわかっている自分が明けるのだからわくわくなんてしないが、丁度蓋に手をかけた瞬間に数人同僚が俺の後ろを通っていく。
「クローバーくん、お弁当だったっけ?」
洒落た財布を持った同僚が俺の後ろから手元を覗く。別に隠すほどでもないが、じろじろと見られる事に良い気持ちもしない。
「社食、食べないのぉ?」
「もしかして、彼女~?」
次々と投げられる質問にめんどくさいなんて言えず、ははは……なんて乾いた笑いしか出ない。
「色々物入りでな。弁当は自分で作ってるぞ」
その言葉に最初に目を輝かせたのは最初に声をかけてきた同僚だった。
「えぇ~!凄い、自分でお弁当作ってるの!?」
そんな声と一緒にぐいぐい距離を詰める彼女。パーソナルスペースの詰め方が今まで感じたことのない速さと距離で圧倒されてしまう。
「いや……作ってるって言っても大したものじゃないだろ?」
「そんなこと無いよ!この卵焼き、凄く綺麗に巻けてるじゃん」
キラキラにネイルされた綺麗な指の先にあるのは出汁と砂糖で味付けした甘い卵焼き。ふとそんな爪じゃ料理はしにくいだろうな、なんて失礼なことを考えたのは内緒だ。糖分が入っている分焦げやすいのが難点だが俺の好みは甘い卵焼き。
「そうか?」
「おかずだって彩り良いし」
彩りは良いかもしれないが、使っている食材は多くない。汁物に使った残り野菜できんぴらとキノコのマリネを作り、メインの唐揚げは休日にまとめて冷凍しているもの。脇の緑は作り置きしてあるインゲンの和え物だった。卵焼きこそ朝に焼いているが、朝食にも食べるためそれほど手間ではない。
「まぁ、慣れればこれくらい……」
「やっぱり料理の出来る男の人っていいよね!」
彼女たちは自分のことを褒めている。それはわかる。社食が充実しているこの会社でわざわざ手作り弁当を持ってくるのは新婚さんか節約がしたいほんの一部分だけ。どちらのカテゴリーにも属さない俺は少し異質なのだろう。
周囲から見れば家庭的で結婚しても奥さんに家事を押し付けず自主的に何でもしてくれるとでも思っているのだろうか?
別に、幸せな結婚を目指して弁当を毎日作っているわけでは無いのだが……。
今日は週の真ん中。ノー残業デーに肖って退勤時間ぴったりに社員証をかざすと、足早に部署を出た。廊下ですれ違う社員に顔に張り付けたなけなしの笑顔でお疲れ様を言いながらさっそうとビルを出る。
「……」
オフィス街を抜けて駅に併設されたスーパーに足を運ぶ。丁度終業時間と重なる今は人通りも多く、賑やかだ。カゴを片手に商品のポップを眺めながら食品を放り込んでいく。
「……」
自宅に戻った俺はそこで正気に戻った。二人掛けダイニングテーブル一杯に置かれた食材に、俺は膝から崩れ落ちる。
「やってしまった……」
ストレスを発散する方法はいくつか存在する。俺の場合、食べて発散することは出来ないので必然と購買欲にベクトルが向く。悪い癖であり三食自炊しないと食料を無駄にしてしまう。これが会社に弁当を持っていく理由でもあった。
幸いにも保存がきくものが多いから小分けにして冷凍しようと試みたがお生憎、先週末にした作り置きがそのほとんどを占拠している。
「……」
今日買い物に行った目的もなくなりかけていた調味料を買い足すだけの予定だったのに、昼間の事があってすっかり失念していた。
「どうしようか……」
自分で消費する事は不可能であり、家族のいる地元も遠方だ。この時間から自宅に呼べる気の許した友人も近くにはいない。
「……あっ」
そんな中、俺は先日の出来事を思い出した。二件隣の住人。両手に抱えたファストフードの袋、それを全て一人で平らげる隣人の存在を。
「……」
時々顔を合わせていた為、生活リズムは大きくズレていないと踏んだ俺は早速調理に取り掛かった。
一人暮らしには少し大きいと思ったがちまちま炊くより便利だという理由で買った五合炊きの炊飯器。手早く米を洗いメモリ通りに水を入れて早炊きスイッチを押す。
豚バラブロックの表面にフォークを突き刺し大きめにぶつ切りにしたものをバターと刻みガーリックを熱した圧力なべに入れて火にかける。こげないように焼き目をつけながら並行して玉ねぎと人参、ジャガイモをカットする。
玉ねぎのみ鍋に入れて軽く混ぜてから水を入れて圧力なべをセットする。圧をかけている間に残った野菜をスチーマーに入れてレンジにかける。
もう少しで米が炊けるという段階で丁度鍋の準備も完了したようだった。減圧して蓋を開けると、湯気の中からプルっと柔らかくなった肉が顔を出す。肉のうま味と玉ねぎの甘さが溶け込んだ煮汁にカレールーをひと箱入れて蒸した野菜も一緒にする。
賛否あるかもしれないが、俺的にはジャガイモとニンジンは形が残ってて欲しい。根野菜や夏野菜のカレーなら素揚げにして添えるところだが、今日はあいにく時間も限られる為時短に重きを置いた作り方になってしまう。
「よし……」
食材の段取りがついたところで本題に取り掛かる。自宅を出て扉を一枚通り越した先。意を決してインターフォンのベルを鳴らした。
◇◇◇
「という訳ですか」
見慣れたダイニングに見慣れない人物。この光景を目の当たりにするまで万事解決したと思っていた自分はいわゆるお花畑の状態だったんだと思う。
「貴方のお話を要約すると、食材を買いすぎたためお食事をご馳走してくれる……と」
「はい……そうです」
思わず敬語になった。
この男、ジェイド・リーチがする表情はごもっともだろう。冷静に考えて数回顔を合わせただけの何なら今日初めて名前を知った隣人が急にピンポンを鳴らして「夕食いかがですか?」なんて怪しさの極みだろう。このご時世殻だけのカニを送り付けて着払いさせる詐欺まであるんだ。食事に一服盛るなんて安易に想像できてしまうだろう。
「すみません、本当に怪しすぎるとは思ってるん……」
「僕が食べていいのですか?」
俺の想定した展開とは裏腹に、ジェイドはスプーンを持つと丁寧に両手を合わせて目を閉じた。
「いただきます」
山のてっぺんに置かれた半熟ゆで卵を崩すと、とろりとマグマのように流れ出し山肌を下っていく。こつこつと山を崩してスプーン山盛りにしたカレーを口いっぱいにほおばる。
ばくんっ……
あれだけ大盛にしたカレーを口角を汚さず綺麗に食べる。もぐもぐと咀嚼して飲み込むとまた同じように山盛りの匙を口に入れた。
ばくっ……ばくっ……
テンポよく食べていく食べ進めるジェイドの姿にトレイは徐々に今まで感じていた稀有が一緒に食べられてるようだった。
「ごちそうさまでした」
もくもくと食べ進められた山はあっという間に更地になった。皿を汚しがちのカレーがここまで綺麗になるのかとしみじみ感心してしまうほどだった。
きれいな顔をしたきれいな所作をする隣人の豪快な食べっぷりに、食べた後の事なんてすっかり考えていなかった俺はあくせくする事をまだ知らずにいた。