わるいことはしてないもん(仮夷陵の山に恐ろしい黒龍が住んでいる。人と妖がまだ共存する世の中、じわじわと何年もかけて噂が広がっていった。
一つ途轍もない力を持っている。
龍族ならば余程の怠けものでもない限りは、力は持っていて当たり前だろう。
一つその黒龍は山奥の大きな洞窟を住処にしている為に余程の限り近づかなければ遭わないが、近づけば威嚇されるらしい。
妖はどの種族も縄張りというものを大事にしているし、特に龍種は縄張り意識が強い威嚇された理由が住処に近づいたなら当たり前の反応ではないだろうか。
一つその黒龍は死鬼を使役するらしい。
姿を見た、という者の話では黒龍しかその場にいないのに誰かがそこにいるように話をし、時に動く屍が傍にいたらしい。この噂の真偽は分からないが、その話は本当ならその黒龍の能力なのだろう。妖の中には彷徨うものの魂を輪廻へ返す種族もいるので、珍しさはあるがそれが恐ろしさの全てではないだろう。
他にも森に深く入ろうとすれば迷わせ、いつのまにか森の外に追いやられているやら家畜が病死したのは黒龍の呪いだやら、届く噂は本当にその件の黒龍の仕業なのか疑わしいものばかり。害されたという、事実がない。
人はどうしたって怪我や病気をするものだし、それを全部夷陵の付近に住む者達は黒龍が何かしたという事に仕立て上げた。そして巡りに巡って四聖獣とされる一角、姑蘇の山に雲深不知処という住処に住まう姑蘇藍氏に陳情が届いた。
どうか悪族である黒龍を退治してください、と。
このような懇願書が届いた時、一族を纏める宗主をしている藍曦臣とそしてその叔父である藍啓仁は軽く頭痛を覚えた。
黒龍の噂は姑蘇まで届いてはいたが、三千以上の家規で己を律する藍家の青龍達は噂を安易に信じてはならないという家規がある為に黒龍が諸悪の根源とは思えなかった。
書面に書かれた悪行の数々も思い過ごしではないだろうか、というものばかりで黒龍直々に襲われた話は一つもないのだ。
悪天候まで黒龍の所為にしていては、ただの体のいい”良くない事”が起きた時の罪の押し付けである。天候を操るは青龍である姑蘇藍氏の力である故にまるで青龍が怠けていたから悪天候に見舞われたと言われているようなものでもあって何とも言えない気持ちにもなる。
そもそも無暗に天気の良し悪しを操るべからずも家規にあり、余程の大災害に発展するような天候以外には青龍は手を出していない。自然をそのまま受け止めることも大事なことである。何もかも思った通りになるとは考えさせてはならないのだ。
ふたりの青龍は熟考した結果、黒龍は悪しき龍ではないと予想した。ただ、こうして陳情が来てしまったのも事実であり藍家より代表を派遣して当の本人と接触し、意思を確認し場合によっては住処を移動するように提案を伝えるしかない。
しかし先に触れた通り、龍族というのは縄張り意識が高く周囲の人々に恐れられていて悪しき虚言を拡げていると伝えても動いてはくれないかもしれない可能性が高い。
より良い住処を此方が提案できるか、先に姑蘇藍氏が動いたという実例を出してしまう方が手っ取り早いか。考えた末に、姑蘇藍氏からの使者は直系血筋であり藍宗主の弟である藍忘機に向かわせることが決まった。
直系、そして含光君と号があり名高く妖界でも人の間でも、雅正そのものであると言わしめる自慢の若君。これだけの大物を向かわせたとなれば、人々はそれだけで安心するだろうという目論見である。
こうして、藍曦臣と藍啓仁に呼ばれた藍忘機は名目上は姑蘇藍氏に届いた懇願書を聞き入れたということに、本当の目的は悪龍に仕立てあげられてしまっただろう黒龍の事情と本当に無実の業を背負わされているならば手助けするようにと言い含められ夷陵へ向かったのだった。
夷陵の街に辿り着いた藍忘機は、乱葬崗と呼ばれる山奥に住むとされる黒龍を刺激しないためにも龍の気配をなるべく消して話を聞いていた。
藍の二の若君は無口である。けれども聴覚は鋭く耳に届く会話を拾うだけでも情報を得られた。
死鬼の王などとここら一帯に恐れられている黒龍ではあるが、その噂が広がる前からこの地域で凶屍が出たことは無いらしい。それは屍鬼を部下にして王様気どりをしているからだろうと聞き取れる。
そして、会話の行きつく先が襲ってくる前に退治されてしまえばいいのにというのが締めである。
被害はないのに勝手な想像を膨らませた挙句に倒されればいいと思われる黒龍を、藍忘機は不憫に思った。全てがひとの誤解の産物だと知れた時、この街の人々はどう手のひらを反すつもりなのだろうかとも。
街には長居する気は無く、藍忘機は早々と歩を進め人通りの少ない道へと向かい乱葬崗へ続く山道へ歩いて行った。
けれど、まだ山の入口に足を踏み入れたばかりなのに人と異なる仙気が微かに感じ取れることに気づく。噂は沢山流されてはいても、姿を見たことが無いらしいことから隠蔽術は徹底しているのではないのだろうか。
その気配は山の奥ではなく幅は狭くてもひとが均した道だった。進んでみれば、簡素な墓が幾つも並ぶそこは夷陵の者達の墓場なのだろうか。
「ほら、兄ちゃんと一緒に見ただろう?お前の母ちゃんは、泣いてなかった。ちゃんと前を向いて生きてる」
乱雑な墓の奥から男の声が聞こえた。とても快活そうな青年の声で、今は誰かを慰めるような声で話しかけているようだった。
それ以上は歩は進めず、龍の千里眼のような力で声の先を見つめる。
長い髪を緩く赤い髪紐で括り、墨色の袍を纏った背も高い男が透け色、いや霊になった男児と話しているようだ。霊の声は例え力のある青龍の一族でも楽器で音と共に問いかけ返答を聞かなければ伝わらない。なのに藍忘機に背を向けた男は、やすやすとぱくぱくと何かを話しているのだろう霊の声に頷いて術も道具も必要ないらしい。
「…うん、そうか。じゃあ、もう大丈夫だな。一人で上にはいけるか?…そうか、強いなお前は。じゃあ、これは道しるべだから寄り道するんじゃないぞ」
男はそう言うと手のひらから小さな黒焔を生むと子供の手の上にそっと乗せる。
「これがあれば悪霊が寄ってこないからな。ほら、もう行け」
黒焔を手にした男児の霊はこの世の心残りを無くしたかのような晴れ晴れとした顔でそのまま、すっと消えていく。
全てを盗み見た藍忘機は、龍角も尾も隠しているがあれが噂の黒龍ではないかと考える。先ほどまで微かに漂わせていた極上の陰の気配はすでに感じることは出来なく、霊魂を見送った男は踵を返して墓場の出入口へと、藍忘機が立つ方へと歩き出す。
下手に避けるようにすればかえって怪しくなると藍忘機は近づく男にそっと拱手をした。一度閉じた瞳をそっと開くと初めて、男の顔を見た。
人好きするような俗世に混ざっても目立つ美貌、逞しさもあり顔つきの造形が向きによっては幼くも見えて色香が混じる。切れ長な瞳は珠のように鮮やかな深緋色をしている。
美醜には拘りを関心を持たない藍忘機は、この時初めて誰かを美しいと思った。
急に全身が真っ白の美丈夫に拱手されて男は、大きく目を見開いた後同じく拱手を返した。
「…どうも」
状況が良く分かってないといった様に小首を傾げて笑ってみせると、じゃあと一言告げて男は立ち去っていく。
「…………」