三者面談出されるプリントをこなし、予習をして単語を暗記。小テストは毎回行われ、中学3年の授業は思った以上に進みが早かった。社会科では白紙のプリントに数人でテーマに沿った話し合いの結果を書いていく。それによって論理的な考えを構築していく等、ただ覚えるだけでない授業に千寿郎は難しさと同時にやりがいを感じていた。
今迄どの教科に於いても平均点を出し、高等部への進学に大きな問題は無いと思っていた千寿郎だが、ここ最近はそれが怪しくなってきた。
余り得意ではなく共何とか付いて行った体系数学Ⅰ、Ⅱは中3になると基本問題が減り、反復して解法を身に付けていく厳しいテキストに変わった事で躓き始め、少しずつ焦りを感じていた。
数日後には三者面談を控えている。千寿郎は良くも悪くも平凡で平均だった。兄の杏寿郎に比べ目立つ事も、何かに秀でる事も無いが真面目に授業を受け、委員会の仕事もこなし、友人も居る。
今迄の面談を含め日常でも担任に何かを言われた事は無い。ごく平凡に学園生活を送っていた千寿郎だが、ここ最近の数学の小テストの点数の下がり様に両親も担任も心配しているのは分かっていた。今度の面談ではそこを突かれるだろう。
「はあ…」
小さな溜息を零して自室に入ろうとすれば温かな感触が肩に乗った。
「千寿郎、どうした?」
顔を上げればそこには兄の杏寿郎が立っていた。兄の気配ならいつでも敏感に感じ取る自分が気が付かなかった。それ程迄に気が落ちていたのだろう。
「い、いえ、その…」
口籠った後に「大丈夫です」と続けた所で兄には何か有ったと直ぐに見破られる。
「今度の面談の事で…」
「ああ、来週の三者面談か」
「はい」
扉の前で俯く千寿郎の腰に手を回した杏寿郎はそのまま兄自室へとその体を導いた。
杏寿郎は千寿郎をベッドに腰掛けさせ、自分はパソコンデスクのイスに座って向かい合わせに座った。
杏寿郎はいつでも真摯に自分に向き合ってくれる。千寿郎はポツリポツリと心の内を吐露した。
「3年生のテキストは問題の量も膨大で、それも目にして行き詰る生徒も多い。点が取れないのは千寿郎だけでは無いが、このままでは成績は下がり、更に苦手意識が強くなる。1、2年で習った似た単元を纏めた勉強をもう一度理解しておかないと代数・幾何で躓く。時間のある時に一緒に1、2年の数学をもう一度やり直してみないか?兄も付き合おう」
「い、いいんですか!?」
「ああ、俺も理数系は余り得意では無いから役に立てるとは言えないが」
「そんな事ありません!有難うございます!」
また連立方程式や一次関数をするかと思えば気が重いが、兄に教えて貰えるならばやる気も出る。自分の欲に呆れながらもその提案を素直に喜んだ。
「他に心配事は無いか?」
「他ですか?」
千寿郎は唇を尖らせて天井を見た。他の教科も友人関係も、学校生活に於いて特に悩みは無い。
「今は大丈夫です」
「そうか、良かった。千寿郎が心穏やかに学園生活を送っている事が兄の何よりの幸せだ」
柔らかな笑顔でで見詰められ、千寿郎は思わず俯いた。
(好き…)
心の内で兄に告白をする。届かぬその思いを何度呟いただろう。
生まれた時から「兄」として杏寿郎は千寿郎の傍に居てくれる。優しく、時に厳しく大きな愛情を持って。そんな兄を千寿郎は尊敬していた。兄として「大好き」と本人に言えば「俺も千寿郎が大好きだ」と答が返って来る。
しかしいつの間にかその「好き」に違う思いが載せられた。
千寿郎は杏寿郎が好きだ。兄として。人として。恋愛対象として。それを告げれば兄が困るのは分かっていた。だからこそ、その思いを心に秘め毎日心の中でひっそりと伝えていた。それだけで楽しかった。自分しか知らないこの密かな恋。
特に自分にしか向けないと自負するこの優しい笑顔が好きだった。「弟」としてだが愛されていると思える笑顔。
「兄上に見守って貰えて俺は幸せです」
ふふ、と笑みを返せば「うむ!」と太陽の様に輝く笑顔が返って来た。互いに見詰め合うこの時間は自分だけの特権だ。
「そうだ、千寿郎。このまま面談の練習でもしないか?」
「練習?」
「俺も今度、面談を控えている。兄の練習も兼ねてだ」
「兄上もされるんですね。俺で良ければ、是非お願いします!」
少しだけ高揚した気分で千寿郎は背筋を伸ばして座り直した。杏寿郎はノートを出して机の上に広げる。
「では始めようか?煉獄千寿郎…」
「はい…」
トクンと胸が小さな音を立てた。いつもの甘い響きでは無い。生徒の一人として呼ばれた事で思わずときめいてしまった。
チラリと机の上を見れば白紙のノートに力強い兄の文字で自分の名が書かれていた。
教師としての兄は学園で何度か見掛ける。他の生徒が居るので目を合わせるだけで殆ど会話は無い。自分が高等部に進んで選択科目として日本史を取れば教師として接してくれるだろうか?その時にはこんな風に自分の名を呼び、書いてくれるのだろうか?
いつもは優しく自分を撫でる兄の手には無機質なペンが握られ、教壇に立つ教師を想像させた。
「煉獄はこのままこの学園の高等部進学を考えているのだろう?」
担任と同じ様に「煉獄」呼びをされて擽ったい。兄を見ればその口元も少し綻んでいた。
「はい」
「その先は?」
「え?あ、その…、大学進学を考えています」
「希望の学科はあるのか?」
「いえ、まだ…」
先の話に千寿郎は戸惑った。何となくだが家族間でも高校、大学進学は話していたが、改めて聞かれると希望の学科が思い付かない。
「今直ぐ決めなくても良い。煉獄はどの教科も理解しようと努力をして知識を得ている最中だ。その中で興味を持った物を突き詰めていけば良い。…学園生活は楽しいか?」
「は、はい」
「何が楽しい?」
「そうですね…。勉強もですが、友人達と趣味やお互いに興味の有る事を話す時間はとても有意義で楽しいです。おれ、いえ、ぼ、僕が知らない事も教えて貰えるのはスマホで調べるよりも深い知識や友人の考えを知られて、より興味を持てます」
「休みの日には友達と会ったりするのか?」
「はい。先日は水族館に行きました。魚に詳しい友人に見る魚全てを解説をしてもらいました。水族館では実際には見られないベニクラゲは不老不死だと教えて貰ったので家に帰ってから兄と調べました。得た知識を改めて家で兄と調べるのが楽しいんです」
水族館からの帰宅後、二人でiPadで見ては驚愕した事を思い出す。
チラリと目の前の教師を見れば、兄もそれを思い出した様で少しだけ口角を上げて頷いていた。
「その日の出来事や知った事を共有する程に君達兄弟は仲が良いのだな」
「はい。兄とは毎日話をしてとても仲良しです」
「…良い事だ」
「はい…」
家族の事を面談で話した事は無い。思わず出た自分の話に杏寿郎が楽しんでいるのが分かり、千寿郎は笑顔のまま兄を見た。
「…、面談だったな」
咳払いをしてその場を仕切り直す杏寿郎に倣い、千寿郎も再度姿勢を正す。
「友人関係、家族関係、共に良好だな」
「はい。でも一人の子は最近はデートがあるからと余り一緒に出掛けられないんです」
「彼女か。そういう友人も徐々に増えていくだろうな」
「少し寂しいですけど、そうですよね」
担任とここ迄話す事は無いだろう。兄が相手だとつい日常会話に近くなってしまう。
「煉獄は好きな人は居ないのか?」
「え…?」
「クラスでも学園内でも、…それ以外でも。好きな人は居るのか?」
「え…と…」
何故そんな事を聞くのだろうか?
「えっと、その…」
もし、もし万が一に千寿郎が今この場で「好きな人は兄上です」と答えればどんな返事が返ってくるのだろうか?千寿郎の心が微かに躍った。
「成績が下がる原因は様々だ。その一つに恋愛がある。片思いでも両思いでも、彼氏彼女が出来て浮かれたり、関係に悩んだり。恋焦がれる相手に思考を持っていかれ、勉強も手に付かず成績に響く生徒も多い」
「…僕の成績が下がったのは誰か好きな人が居るからだと。煉獄先生はそう思っているのですか?」
だから聞いたのか。
千寿郎の成績への不安から始まった疑似面談。教師である兄としては成績不振の原因を多方面から解決せねばならない。日常会話を糸口にそれを見出し、千寿郎が恋愛にのめり込んでいないか聞いているだけなのだ。
目の前の杏寿郎は教師の顔を通していた。しかし内心は兄として心配してくれている。
そう、目の前の人は教師であり兄なのだ。
決して「恋人」にはなれない人。
もし同級生の名を言えば「そうか!千寿郎にもついに好きな人が!」と兄として喜び応援してくれるだろう。
この恋が叶う事は無い。分かってはいても、その事実を目の当たりにした千寿郎は心の痛みを打ち消す為にきつく下唇を噛み締めた。
「そうでは無いし、そうかもしれない。成績が下がった理由は上がった難解度に付いて行けないのもあるし、友人関係や恋愛の悩みもあるかもしれない」
「成績が下がったのは自分で良く分かっています。先程先生がおっしゃた様に1、2年の数学の理解を深めないまま進んだからです。でも…、もしかしたら今後はそうなるかもしれませんね」
「今後?」
杏寿郎の片方の眉尻が微かに上がったのに千寿郎は気付かなかった。
「煉獄先生のおっしゃる様に恋愛で悩んで勉強に手が付かなくなるかもしれません」
「…好きな人が現れたら、とう事か?」
千寿郎は大きく息を吸った。
「いいえ。現れたら、では無く今現在居るんです。とても好きな人が。好き過ぎて悩みそうなんです。その人の事で頭が一杯になって勉強が手に付かなくなるかもしれません」
千寿郎の答に杏寿郎の握ったペン先がノートに鋭く沈み込んだ。
「そうか…、好きな人が」
杏寿郎はペンを握る手が汗ばんでいくのが分かった。それを悟られない様に平静を装って声を掛ける。
「恋愛で悩むのも君達の年齢には必要な経験だ。しかし余り考え過ぎて学業を疎かにしない様に…。煉獄、面談はこれでおしまいだ…」
「…有難うございます、煉獄先生」
しばしの沈黙の後、千寿郎は静かに立ち上がり、頭を下げてから兄の部屋を出た。
その後ろ姿に杏寿郎が目を向ける事は無かった。
一人自室に戻った千寿郎は電気を点けずにベッドに横になった。
兄の質問に一瞬でも期待した自分が馬鹿だった。兄は何処までも冷静で顔色一つ変えない教師のままだった。
自分に好きな人が居ても何一つ動揺していなかった。
「それは誰なのか?」
それすら聞いてくれなかったのは興味が無いからだろう。単に千寿郎に好きな人が居るか居ないかを聞き、学業への支障を心配しているだけなのだ。
「これが失恋なのかな…」
もう数学も、好きな国語も頭に入らない。何もしたくない。
寂しさで思考の全てを兄に持っていかれ、余計に執着しそうだ。
「あにうえ…」
自然と零れた涙は枕を濡らしていた。
***
「誰なんだ‥‥」
千寿郎が部屋から出てから何回その言葉が出ただろう。杏寿郎の口から吐き出されるのは千寿郎の答に対する問だった。
本人を目の前にして聞けなかった情けなさ。あのまま「教師」として聞いてみればその名を聞けたかもしれない。
しかしもし仮に同級生の名が出たら「そうか、どんな子だ?」と兄の顔で聞けただろうか?名を知らない今ですら嫉妬に狂いそうなのに。
三者面談の練習なんて良く分からない理由を利用して、千寿郎の「好きな人」を聞き出す自分は何て姑息で小心者なのだろうか。
ふと手元も見れば尖ったペン先が刺さり、小さな穴の開いたノートが目に入った。
(今現在居るんです。とても好きな人が)
グラリと視界が揺れた。
誰だ?
杏寿郎の頭を占める疑問は幾つもの文字となってノートを黒く埋め尽くした。