みひつのこい「やあ、賢者様」
ラッピングされたたくさんの贈り物を両手に抱えて魔法舎の廊下を歩いているフィガロに晶は遭遇した。
今日はバレンタイン。晶の世界で大切な人にチョコレートを贈る日だ。こちらの世界にはそんな風習はなかったらしいが、晶が話したらみんな楽しんでこのイベントに参加してくれた。
晶はたくさんのチョコを魔法使いのみんなからもらったし、晶もみんなにチョコを渡した。それは晶相手だけでなく魔法使い同士の間でも行われていた。
「フィガロ。プレゼントたくさんもらってますね」
「うん。ルチルたちからね」
フィガロは続けて、晶にプレゼントを部屋に運ぶのを手伝ってもらいたいと言った。晶に否やはなく、フィガロの荷物を半分受け取り、一緒に部屋に向かう。
フィガロが冗談ぽく続けた言葉は、晶がフィガロを訪ねようと思った理由そのものだったからだ。
フィガロにもチョコを用意した。それは今日、渡したいものだ。
フィガロの部屋に向かう前、シャイロックのバーで西の魔法使いたち全員に会えたことで二十人の魔法使いにチョコを渡し終えた。あとは隣を歩くフィガロだけである。このまま部屋に行ったらフィガロはチョコを受け取ってくれるだろうから、全員にちゃんとバレンタインのチョコを渡せることになる。
——よかった。
晶はほっと息を吐いた。
共同生活をしているとはいえ、みんなが常に魔法舎にとどまっているわけでもない。
「賢者様、どうしたの? 疲れてる?」
フィガロは自分の部屋のノブに手をかけ、ドアを開けた。フィガロの部屋からは彼のにおいが少し香って、晶は少し落ち着かなくなる。魔法舎のなかでも別の場所に来たような感覚だ。特に優しい陽が差し込まなくなる、夜の間は。
気づくと、自分で抱えていたプレゼントを机の上に置いて手ぶらになったフィガロが晶を覗き込んでいた。それから晶が預かっていた荷物を、自然とフィガロは受け取った。
「い、いいえ。大丈夫ですっ」
「一日中、みんなに付き合って疲れただろ。あと誰に会ってないの?」
フィガロは晶の行動なんてすべてお見通しという眼差しで、晶に微笑んだ。
確かに言われた通りだった。朝からみんなにチョコを渡すのと同時に、誘われて何かをしたり、話したりと気がついたらあっという間に時間が過ぎていた。どの時間も楽しい時間だけれど目まぐるしい一日だったことは間違いない。
「もう皆さんに会いましたよ」
「そうなんだ? じゃあ俺が最後か」
フィガロは驚きとも喜びとも見えるような複雑な顔をした。それから薄く笑って「もう部屋に帰ってゆっくり休んでよ」と囁くように口にした。
「えっ」
晶の方が思わず大きな声を出してしまう。そんな晶の反応を嬉しそうに受け止め、フィガロは笑った。
「うそうそ。最後ならよかった。次を気にする必要はないわけだ。それなら俺の部屋でゆっくりしていって? 賢者様」
「あ、ありがとうございます。フィガロは疲れていませんか? 俺がここにいても……?」
「疲れてなんかいないよ。むしろきみがいてくれて嬉しいよ」
フィガロは晶に椅子をすすめてくれた。
「この前、賢者様の部屋を訪ねたら留守だったから余計にね」
「この前?」
いつのことだろう? と晶は頭をひねる。
「きみがどこぞの魔法使いに愛の告白をされてたっていうときだよ。スノウ様たちとその魔法使いに会いに行っていたんだろう?」
「え……、あ、はい」
ついこの間の出来事だった。
「大丈夫だった? 賢者様」
フィガロがポットとカップを持って晶が座る場所に近づいてくる。そっと机にそれらを置いて、フィガロは晶の目の前に立った。
「あ……はい」
「本当に? そんな不埒な気持ちを抱える奴のところになんて、のこのこ出向いて行って。賢い行動とは思えないけど?」
晶を見下ろすフィガロは微笑みを湛えている。その笑みに晶は背筋が冷たくなるのを感じた。氷のような冷たさがある。
「きみのことを『運命の人』だなんて言ったんだって?」
「それは、なんて言うか……言い間違いっていうか、勘違いというか……スノウが、その」
「どうして俺だけ知らなかったんだろう。教えてくれればよかったのに。そうしたら俺だって賢者様を守るために一緒に行ったよ?」
「守るなんてそんな……。危険はありませんでしたよ? スノウたちも一緒に来てくれましたし」
「きみの体や心が痛みを感じることだけが危険という意味じゃないんだ。俺たちが守るのはきみのすべてだからね」
鋭い瞳を和やかに細めたままのフィガロが、そっと晶に手を伸ばす。その指先が晶の頬に触れた。
晶の身体は正直にビクッと震えてしまった。フィガロは晶の反応など気にしていないようにそのまま手のひらで晶の頬を包み込んだ。少し冷たい感触だった。反して、鋭い瞳の奥には熱い感情が燻っているように見えて仕方がない。晶の心はぞわりと揺れた。
フィガロは複雑なひとだ。飄々としていて、にこやかで優しい。でも時に誰よりも非情であり無情な考えや行動をすることがある。それはフィガロの合理的な考えとつながることが多いと晶は思っていたが、今回はどうしてこんな態度になっているのだろう。
晶が狼狽えていると、フィガロの態度の方が先に変化した。
「まあ何事もなく戻ってきてくれてよかったよ。まさかきみが誰とも知れないぽっと出の魔法使いなんかに恋をするとも思ってなかったけれど」
からかうような声だ。同時に表情がただただ優しいものになる。
「あ……」
晶は思い当たることがあった。さっきシャイロックのバーでラスティカと話していたことだ。晶が留守にしているときにフィガロと話したと言っていた。そのこと——。
「心配かけてすみません。フィガロ」
晶は自分の頬を覆うフィガロの手に自分の手を添えて、真剣にフィガロを見つめた。彼は本当に晶の行動を心配してくれていたのだ。晶のこれからの行く末を含めた全部を。
「……そんなきみだから、心配ないと思うのに心配なんだ」
フィガロが複雑そうに呟いた。
「え?」
「いいや。何でもないよ、賢者様。さあ今日の目的を思い出して欲しいな!」
明るく言うフィガロの言葉に晶はハッとした。
「あ!」
フィガロにチョコを渡したくて晶はやってきたのである。
二つの袋のうち、一つをフィガロに差し出す。
「もらってもらえますか? フィガロ」
「もちろん。断るなんてそんなばかな真似絶対にしないよ」
ありがとうという言葉と一緒に、これ以上ない笑顔を向けられて晶は心が満ちるのを感じた。それだけで本当によかったと思う。
フィガロは大事な宝物を受け取るように晶のチョコを手にした。
晶はフィガロの行動を見つめ、このイベントの話をしてよかったと思い返す。それ以上は——望まない。
「嬉しいな。賢者様からのチョコ。あとでお酒と一緒に楽しもう。いや、酒のあてにするなんてもったいないか。大事に食べるよ」
「ありがとうございます。あ、お酒と一緒に楽しむなら……あ、いえ」
晶はフィガロに渡した袋ではない、もう一つの袋——自分の手元に残った袋に視線をやって、狼狽えた。
「なあに? 賢者様。その袋がどうかした?」
フィガロは晶の行動を見逃さなかった。
「あ、いえ。その……なんでも、」
「賢者様」
フィガロの声はこの上なく優しい。けれど、誤魔化すことを受け入れないという強い何かが含まれていた。
「————……、その、さっきシャイロックにもらったチョコレートです」
「バレンタインで?」
「いいえ。このあとフィガロのところに行くって言ったら、その……『フィガロと一緒に食べてみては?』と言われて、もらいました…………」
「なあんだ。じゃあ俺ももらう権利があるってことか」
「あの、でもっ、」
「いいね。これでお酒も飲めるし、賢者様との時間も楽しめる。さすがシャイロック。気が利くなあ」
フィガロはその袋を持ち上げた。
「あ! あの、でもフィガロ……」
晶は狼狽えるばかりだ。
「付き合ってよ賢者様」
フィガロがあまりに嬉しそうに言うものだから、拒否する言葉なんて口にできなかった。
「……わ、わかりました…………」
「はは。ありがとう。さて、どのお酒が合うかなあ」
フィガロはうきうきと酒瓶を選び出した。
「あ、あのフィガロ……」
「なあに? あ。安心して? きみにまでお酒はすすめないよ。きみはお茶で付き合ってくれたら嬉しいから」
「いえっ! 俺も、飲んでいいですか……」
フィガロは目を丸くした。
「賢者様が?」
「はい」
「お酒飲むの?」
「はい……だめですか?」
「だめじゃないけど、苦手でしょ?」
「でも、少しくらいなら……フィガロと飲みたいなって……お酒の味は全然分からないので、申し訳ないんですけど」
身を縮こませて伝えたが、フィガロは大きく否定した。
「そんなことないさ! きみと晩酌できるなんて最高な日だな。ああ。記念にすごくいい酒があるんだ。あれを開けよう」
「ええっ!? やめてくださいフィガロ! 俺そんな、味全然分かりませんから! 勿体無い」
「そういうことじゃないんだよ、賢者様。嬉しいんだ、俺。できれば俺の気持ちを汲んで付き合って?」
「……フィガロがそれで、いいのなら」
フィガロが酒を用意している間に、晶はチョコを机に広げた。西の国のチョコらしい。艶のある真っ赤な色をしたハート型のチョコレートが並んでいる。
それを見やって、晶はごくりと息を呑む。
晶はずっと落ち着かなかった。その正体は分かってる。罪悪感だ。このチョコをシャイロックからフィガロと食べたらいいと渡されたのは本当だ。けれどフィガロに伝えられていないことがある。これはただのチョコレートじゃない。
食べた瞬間に、目の前にいる人に恋をしてしまう魔法がかけられている。一時的なものだからその時間を楽しんだらいいと西の魔法使いたちは言った。
でもそんな人の気持ちを弄ぶようなこと、していいはずがない。好きな人の心であれば、尚のこと。
フィガロが喜んでくれるのは嬉しい。喜んでくれていると知れば知るほど、断れない。言えない。
「一緒にチョコとお酒で楽しい夜を過ごそう賢者様」
フィガロが誘う。その無邪気さが嬉しかった。
「はい——」
ずるい自分をフィガロはあとで軽蔑するだろうか。
それでももうあとには引けない。
一度でいい。一夜でいい。
運命の人じゃなくても、好きな人の心を手にしてみたい。
せめて、彼の好きなお酒を一緒に飲み交わして。
*
「賢者様、フィガロ様」
翌日の朝というには遅い時間。誰もいない食堂でシャイロックに会った。珍しいことだ。
彼はいつも朝が遅いから、フィガロと晶がいつもと違う行動をしているのだろう。
「昨夜は楽しい時間を過ごせましたか?」
優雅に問われる。
「そ、それが……俺、フィガロに付き合ってお酒を飲んだら何も覚えていなくて」
「賢者様がお酒を?」
シャイロックが驚いた顔をする。晶は常に酒は苦手だと言って飲まないでいたから、そうだろう。
「そうなんだすぐに寝ちゃうんだもんなあ。賢者様、相当お酒弱いよ。今後は飲まない方がいい」
フィガロが言うと、晶はすまなそうにうなずいた。
「そうします。ごめんなさいフィガロ。朝まで部屋にお邪魔してしまって」
「気にしないで。たまには誰かと一緒にベッドで寝るのも悪くないよ」
フィガロの言葉に晶は赤くなったり青くなったりと忙しい。
「俺、朝食もらってきますね!」
晶は慌てて、キッチンへと駆けていった。
フィガロとシャイロックは礼を言い、そんな彼の姿を見送った。
「フィガロ様」
呼ばれて、フィガロは振り向いた。
「気を利かせてくれてありがとうシャイロック」
唇に立てた人差し指をそっとあて、フィガロは言った。秘密と内緒の合図のつもりだったのに、シャイロックは口を開く。
「あなたほどの方が気づかないはずありませんね。それに今は賢者様からあなたの魔力を感じます」
仕様がない方——とシャイロックは肩をすくめただけだった。