それは偶然の出来事だった。
ヒースクリフから、自分の代わりに本を返してきてほしいと頼まれ、シノは図書室を訪れていた。なんでも、どうしても外せない個人レッスンが入ってしまったらしい。Domなのだから、頼み事の一つや二つ、もっと気軽にすればいいのに。こんな小さな頼み事すら滅多にしようとしない己の主人に、シノはいつも通り小さな不満を抱きつつ、ヒースクリフから預かった本を司書へと手渡した。
シノは典型的な読書嫌いで、活字を見るとすぐに眠くなってしまう。当然、図書室に縁などなく、訪れるのは合併前の校内見学ぶりだった。司書がバーコードを読み取るのを待つ間、室内をぐるりと見渡すが、やっぱりシノの好奇心をくすぐるようなものは存在しない。
「……?」
ふと、シノのよく聞こえる耳が、小さな物音を拾った。誰もいないはずなのに、僅かながら人の気配がする。音のした方向へ視線をやると、整然と並んだ本棚の間、自習室と書かれたプレートが見えた。
「利用していきますか」
「いや、いい」
返却処理を終えた司書に問われて、シノはそこから視線を外した。さっさとレッスンルームへ戻ろうとカウンターに背を向ける。けれどもその足は出口へは向かわずに、自習室の扉の前で止まった。自分でもなんだかよくわからないが、どうしてもその先が気になったのだ。ひやりと冷たいドアノブを掴んで、ゆっくりと回す。しんと静まり返った室内、視線を上にやると、一番奥のブースの照明だけがついていた。足音を立てないよう、踵を浮かしながらそうっと歩いて、ブースの入り口へと近寄る。左右の個室ブースとは異なり、奥は扉がない構造で、中の光がほんのりと漏れ出ていた。
「――!」
こっそりと中を覗いた先にいたのは、シノのよく知る人物だった。ダイナミクスがきっかけで知り合った、元進学校の三年生であるファウストと、元不良校の二年生であるネロだ。ファウストは真面目な堅物だが、ヒースクリフが懐いていて、よく勉強を教えてもらっている。ネロはあの有名なネロパンの生みの親であり、どこか気だるげだが、面倒見はいい先輩だ。言わずもがな料理もうまい。シノはちょうど先月、単独ライブの記念にレモンパイをつくってもらったばかりだった。
そんな、シノにとって近しい間柄にある先輩たち。二人が一緒にいるところは、何度も見たことがある。けれど――シノが二人のそういう姿をみるのは、これが、初めてだった。
シノの視線の先、椅子に座るネロの足の間に、ファウストがすっぽりとおさまっている。柔らかそうなクッションの上に座り込んだその姿は、端からすればkneelをしているようにも見えるが、それにしては体勢が崩れすぎていた。下半身はまだしも、ファウストのうすっぺらい上半身は、ネロの左腿に力なくしなだれかかっている。あれでは美しいkneelとは言えない。
一歩、また一歩と近づいていく。五歩目でようやく、シノはファウストの表情をのぞくことができた。
シノやヒースクリフの前では常に凛とした光を放っている瞳は、輪郭がわからないほどにぐずぐずにとろけ、開きっぱなしの小さな口からは、熱っぽい吐息が漏れている。そのまま視線を少し上にあげてネロの方を窺うと、彼は琥珀色の瞳をゆるませながら、硝子細工にでも触るような丁寧な手つきで、ファウストの柔らかな髪を撫でていた。
ファウストがサブスペースに入っているのだと、すぐにわかった。部外者が見ていいものではない、と思いつつも、未だサブスペースを経験したことのないシノの視線は、同じSubであるファウストに釘付けだった。
サブスペースは、Subの、Domに対する絶対的な信頼のあらわれだ。Subは己の全てをDomに委ね、DomはSubから全てを委ねられているという、絶対の信頼を得る。DomとSubが到達できる、快楽の最高点。今のままのヒースクリフとシノでは、絶対にたどり着けない場所。
「……、」
恍惚とした表情を浮かべ、サブスペースに浸る二人の姿を熱心に見続けていると、突然、ファウストの頭を撫でるネロの動きがぴたりと止まった。穏やかな空気が一転、絶対零度の冷たさがぶわりと広がり、シノは思わず背筋を震わせる。ファウストに向けられていた顔がゆっくりと持ち上げられ、視線が絡む。その眼光の鋭さに、小さく息を呑んだ。瞬間、呼吸をすることができなくなって、シノは苦しさからワイシャツの胸元をきつく握りしめる。
まずい、と思うよりも先に、恐怖が身体を支配した。脚は震え、今にも床に崩れ落ちてしまいそうだ。はやく目の前のDomの怒りを鎮めなければと、シノの中のSub性が、荒い呼吸の中、必死に弁明の言葉を紡ぎ出す。
「は、ちが、これは…っ」
「……しぃ」
そう囁いて、立てた人差し指を、ネロが自分の唇にそっと押し当てた。その指示通りに口を閉じると、凍てついた空気が少しだけましになって、遠のきかけていた意識がなんとか戻ってきた。細い呼吸を続けながら、シノは己の中のSub性を落ち着かせようと、心の中で何度も大丈夫だと言い聞かせる。
ネロはそんなシノには見向きもせずに、足元におさまるファウストの顔色を窺っていた。己のSubがスペースに入ったままであることを確認すると、自身のシャツを脱いで、シノから隠すようにファウストの顔を覆う。
「俺以外の人間に、見せる気はねえよ」
語気に激しい怒りを孕ませながら、Domらしい独占欲をこれでもかと曝け出すネロに、シノはSubとしての恐怖心だけでなく、驚きも隠せずにいた。普段のネロは、お世辞にもDomらしいとは言えない。パートナーであるファウストへの態度もそうだが、Normalだと言われれば信じてしまいそうなほど、Dom特有の圧のようなものを感じないのだ。それに、ファウストが見知らぬ人間と仲睦まじげに話している姿を目にしても、ネロは気にするそぶりすら見せなかった。軽度のDomはNormalと大して変わらないんだな、と思ったのは一度や二度のことではない。
――けれど、今、シノの目の前にいる男はどうだ。己のSubを守ろうと、知り合いの、それも危険度の低いSubであるシノに対しても容赦のないグレアを放つネロは、誰がどう見ても立派なDomだ。
「ん? いや、ちょっと待て。おまえシノか」
ぱちぱちと、ネロが瞬きをする。気の抜けた声とともに琥珀からは攻撃的な光が消えていき、ネロはようやく、シノのことを己のSubを害する存在ではなく、友人の一人であると認識したようだった。グレアだけでなく、Dom特有の威圧感もあっという間に消えて、シノのよく知る、Normalみたいな空気を纏う男に戻る。空気が軽くなり、シノはやっと満足に呼吸ができるようになった。
「あー……悪かった。スペースに入ってるとこ誰かに見られたの、初めてだったから……。大丈夫か?」
「ああ、大したことはない。ただ少し、驚いたけどな」
心配そうな顔でこちらを窺うネロに、シノはいつも通りを装ってそう返す。皺のついたシャツの下では、心臓がいまだ早鐘のように打っていた。けれど、悪いのはシノの方だ。Domは己を信頼し全てを明け渡してくれたSubを、命懸けで守る。ネロの反応はDomとして当然ものだからだ。サブスぺースに入っているときのSubは極めて無防備だ、けれどそれは同時に、最も信頼できる檻に守られていることを意味する。
「さっきのってディフェンスだったよな? それに命令っぽいこともしちまったし、後でヒースに謝っといた方がいいな……」
ネロはやってしまったという顔で息を吐いた。シノはヒースのSubだ。先ほどのネロの行為は、シノに非があったとはいえ、結果だけを見れば、DomがパートナーのいるSubを脅かし、従わせたに等しい。ここでの出来事をなかったことにするのが一番穏便にすむ方法だが、目敏いDomなら、己のSubが他のDomに害されたことにはすぐ気がつく。ヒースは確実にこのタイプだ。
「ヒースには俺から説明しておく。悪いのは俺だ、理由を伝えればわかってくれるだろ」
己のSubが害されたとなれば、Domとしては黙っているわけにはいかない。けれどヒースは普通のDomと違って、その怒りを、己のSubにもネロにもぶつけられない。Domである自分を受け入れられない。沸き立つ怒りを、自身の中でどうにか消化しようと苦しむ姿が、シノには容易に想像できた。正直に事情を話してしまった方が、シノのDomのためになる。
「助かるわ、今度また、美味いレモンパイ焼いて持ってくよ」
「やった。でもそれだけじゃ足りないな。ひとつだけ、質問にこたえろ」
「ん?」
「自分のSubが、サブスペースに入ってるって言うのは、Domにとってはどんな気持ちなんだ」
サブスペースに入ったSubは、多幸感に包まれ何も考えられなくなるとはよく言うが、DomはいったいそんなSubを前にどんな気持ちでいるのか、シノはDomの口から聞きたかった。サブスペースには入ってみたいと思う、けれど己のDomがそれを望んでいないのなら、今はそれでいいとも思うのだ。
「はは、そうだな……言葉にすんのは難しいけど」
シノの言葉にわずかに目を瞠ったネロは、瞼のしたに琥珀色を隠して、答えになる言葉を探しているようだった。そしてうーんと一度唸ってから。己のシャツの中に隠したファウストを手のひらで優しく撫でて、小さくつぶやく。
「――なにものにも替え難い感覚だよ。一生俺の腕の中で、守ってやりたいって思う」
その時ネロが浮かべた表情を、シノは、自身の持つ言葉であらわすことはできなかった。けれど――自分も、いつかヒースクリフに、あんな表情をさせることができるのなら。
胸の内に沸き上がった感情を解き放つように、シノは、勢いよく駆け出した。自習室の扉をぶち破るように開け放って、全速力で図書室から外へ飛び出していく。走ってはいけません!と怒鳴る司書の声なんて届いちゃいない。ファウストをサブスペースから引き揚げてやろうとするネロの姿も、一瞬で霧散した。今、シノの頭の中にあるのは、たった一人、己のDomのことだけ。
「待ってろよ、ヒース!」
渦巻く感情を声にして吐き出して、シノは学園の敷地内を、全速力で駆けていった。
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