もものあまま(後編)-----
「ん…っふ、…うう…ッ」
熟れた匂いの充満する祈りの間。塞ぐ唇の隙間から漏れ出る吐息は甘く、余裕のない響きが混じっている。
足元のふらつくアバンを祭壇に腰かけさせて、掌にすっかりと収まる頬を掴んで口づける。もつれそうな舌を、ひりつくような粘膜を絡め合うたびに、クチュクチュと濡れた音が響いた。
とろりとした唾液が止めどなく湧き出る、蜜壺のような口内。このまま頬を握りしめて、蜜のしたたる果肉にむしゃぶりつきたい欲求が芽生えるほどに、彼はいかにも“桃“らしく、ひたすらに蕩けていた。
弟子たちが訪れるまで日を置かず繰り返していた、口づけの給餌行為。一度受け入れていたそれを十日も避けていたうえ、この男はカラ元気のために、今や"異物"にしかならない食物を、体内に留め置く愚挙に出たのだ。
結果“桃“の毒素の制御は乱れに乱れている。全身に張り巡らせた魔力で何とかしていた痩せ我慢も、一枚剥がしてみれば想像以上に危うい状態であった。
いつもならば口づけを交わすうちに、瑞々しく澄んだ香りで安定する“桃“の体臭だが、雨露匂わす草熱れのように、むっとした淫猥さが増すばかりだ。しっとりと汗を滲ませるアバンも、ますます悩ましく眉根を寄せる。これでは埒が開かない。
顔を離すと、蕩けた双眸が薄らとハドラーを見た。
「……ッ!…ハ、ドラー…ッ」
十数年前より成長したとはいえ、己よりも一回り以上小さい体。それを易々と抱きかかえ、祭壇に敷きつめた白い羽根の上へと寝かせる。そして自らも乗り上がりアバンの上へ覆い被さると、見開かれた彼の目に驚愕と怯えが滲んだ。
「…な、何を…ッ」
身をよじって逃げを打つ体を背中側から抱き締め、そのままハドラーも羽根の上に横たわる。アバンの頭の下で枕にした左腕を曲げて胸部を押さえ込み、足を絡めて身じろぎを封じながら、彼が腰に巻いていた、端切れでこしらえたエプロンの結び目をほどいた。
「やッ…!待っ…」
「抜いてやる」
「止めっ…ぁ!…ふ…ッ…、…ンっ…ん……!」
手を忍ばせた下穿きの中は蒸れて、火照る昂りが硬く実っていた。じかに触れると静止の声がたちまち裏返り、咄嗟にアバンは口を押さえる。隣接する部屋では、弟子たちが眠っているはずだ。
空色の後頭部に鼻先をすり寄せる。スープの湯気と、花壇の葉や土と、強烈な“桃“の妙香。とろとろと熱く濡れたアバンの陰茎を、ハドラーの手が揉みしだいた。
「んんっ……!…ぅ…んッ、う……!ふ、ん…んッ」
きつく閉ざされたまつ毛が細かに震える。制止のつもりかハドラーの腕を掴む力はあまりに弱々しく、本人の意思を無視して、垂涎の体は触れられることに歓喜する。
うぶ毛をしとどに濡らす汗が髪を濡らし、落ちた雫が羽根をも濡らし、アバンの善がって身悶えるたび、それが頬や額に張り付いては落ちる。背中越しにも垣間見える、切なげに寄せられた眉。当てられるハドラーも呼吸が荒み、内から燻る熱を逃そうと、努めてゆっくりと息を吐き出した。
「…はっ…ぅう!…んッ…、ぅ…うぅーっ…」
アバンの喘ぎは啜り泣きに似て、意思に反して翻弄される様は痛ましくすらある。濡れた髪の先から毛穴の一つ一つまでが快感を叫んでいるのに、彼の陰茎は壊れたように先走りを垂れ流すばかりで、一向に射精する気配はない。強烈な快感を受け止めながら、いつまでも寸止めされている生殺しの状態だ。
ハドラーは内心舌打ちをする。彼の体は男の淫欲を慰めるための性奴隷として調教されてきた。強烈に、繰り返し叩き込まれた内臓を抉られる快感がなくば、もはや通常の自慰で絶頂を迎えることすらできないのだ。
彼をここまでにした者達への憎しみが、ジリジリと皮膚の裏で燃えたぎる。やり場のない怒りに胸を焦がしながらも、ハドラーはことさらやわくアバンの空色の髪に頬をすり寄せ、愛撫をやめた。
「…ふ…ぁ、……ハド、らぁ…?」
「……ッ」
アバンの口から出た、己の名を呼ぶ声があまりに無防備で、思わずぐっと息が詰まる。
施す側まで険しく表情を歪めながら、ハドラーはアバンの枕にしていた腕をそのまま少しずらして肘を立て、左肩を浮かせ頭を起こした。横寝の体をひねって、ハドラーを見上げたかつての勇者。真下に見下ろす蕩けた眼差しは、"物欲しそう"としか形容できなかった。
「……声を抑えていろよ…」
「……ぇ、…ぁ…ッ!」
上向く顔を、腕枕にしている方の左手で巻き込むように抱え込む。そして前側から潜らせていた手指を伸ばして陰嚢のさらに奥、会陰から尻たぶの合わせ目までを蟻の這うようになぞる。途端ビクリと跳ねる体。両手がハドラーの胸を押し返そうとした。
「ひ…ッぁ…ッ!だ、駄目だ…、ッ…、んふっ…ぐ…!」
強張った表情で制止を求めたアバンの口を口で塞ぐ。
そして輪郭を失くしたかのように、とろとろに濡れそぼった秘部に辿り着いた指を、一気に突き入れた。
「っ…んンっ…ッ——!!」
分泌されていた"桃"の愛液がグポリと響き、待ち侘びていたとばかり指を深々と飲み込んだ。まるで泥濘のようなそこは、排泄の役目を奪われた性交のための臓器だ。熱い肉壁が貪婪に指に吸いつき、まるで口淫のようにうねってきゅうと締めつけてくる。
アバンがイヤイヤとかぶりを振る気配が、重ねた唇と抱えた掌に伝わる。しかしそれとは裏腹に、無意識にか震える膝が立てられ足が開き、もっと深くと言わんばかりに腰が浮いて揺らめいた。
"桃"の蜜水がとぷとぷと溢れて、指を濡らし、下穿きを濡らし、下衣をびしょびしょに濡らしてゆく。口からは混じり合った唾液が垂れ、くまなく汗にまみれ、放たれる色香は、目も眩むほどだった。
勇ましく、賢しく、高潔な男の嬌態の、なんと蠱惑的なことか。二つの心臓が早鐘を打ち、もはや自身ははち切れそうに勃ち上がっている。臓腑を焼く情炎に、ハドラーは低く唸った。
「……ッ」
「ン…!…うッ、んンッ…!」
アバンの切羽詰まった嬌声は、すっかりと唇を覆ったハドラーの口腔に消える。息苦しさと強過ぎる快感に激しく顔を歪めながら、限界まで追い立てられた体が身をよじって暴れた。僅かにも快感を逃せぬように押さえつけ、熱くうねる内壁の中で指を曲げて、腫れたしこりの性感帯を揺さぶった。
「んぁ……ッ!んぐッ…ふッ…!」
ギュウギュウときつく締め付けられる、ハドラーの指の束。アバンが顎先をのけ反らせた事でずれた唇、それを追いかけて重ねなおし、顔を喰らうように貪りついた。
上下も分からなくなる刺激の渦に悶絶し、閉ざした目の端から涙をこぼすアバン。内壁がひときわ激しくうねる。促すようにハドラーの指が、一層強くしこりを突き上げた。
「んんンぅーー…ッ!!」
背筋をのけ反らせ、強烈な絶頂を果たしたアバン。迸る白濁が下衣の隙間から飛び散って、上衣や祭壇やハドラーの腕を、とろりとした快感の印で濡らした。
「…………」
「…ぁ、…あ…、ァ…あ…ぁ……」
匂い立つ首筋に顔を突っ伏しながら、ハドラーは秘部からゆっくりと指を抜く。腹の下のしどけない体は、ヒクヒクと痙攣していた。
アバンは絶頂の余韻が体を駆け巡るたび、腰を震わせ蜜をこぼしていた。ぼんやりと開かれた口が繰り返す呼吸は甘く、いまだ快感に翻弄され続けているのが分かる。指を抜かれることにすら感じて、抜ける瞬間にまた悶えるように背筋を浮かせた。
毒気と謂うに相応しかった“桃“の匂いは、体内で渦巻く毒素を放出したことで、幾分落ち着いたようだ。
このまま休めば、弟子達に要らぬ心配をされぬ程度には回復するだろう。アバンの耳の裏辺りに鼻先をすり寄せ、強く抱きしめながら彼の匂いを鼻腔いっぱいに嗅ぐ。火をつけられてしまった自身の昂りをこの場で発散するつもりはないが、もう少しだけ、このままで居たい。
暫くお互い無言のまま、忙しない呼吸音と重ねた体に伝わる互いの鼓動だけを聞く。
やがてハドラーが身を起こそうと身じろいだ時、アバンの腕が、ハドラーの首に回った。
「…はぁ、…は…ッ、……はろ…ら……」
「……ア、アバン…」
「やめ、ぁ…い…で……つづ…、…て」
「……っ、…おまえ…正気ではないな。…弟子どもが居るのも忘れたのか…?」
「…も…いい、…いいから……さいごまえ、してほし……」
「……ッ!後悔するのはお前だろうが…ッ」
甘露に潤んだ飴玉が、間近で切なげにハドラーを見詰めている。まき散らす薫香を呼気にすら漂わせて、アバンは縋るように、ハドラーを引き寄せた。
「らいて…くだ、さ……ハドラー、……あなた、なら…い…、い…」
「……ッッ…!」
焦点の定まらない眼差しから目が逸らせない。鼓動に合わせて視界がぶれて、酩酊に似た心地を覚える。鼻先の触れる距離、囁く吐息が皮膚を擽り、弱い力に抗えず引き寄せられた。
そして二人は、火照りを残す互いの唇を再び触れさせる。
甘やかな芳香が、祈りの間を隙間なく埋め尽くした。
◇
◇
魔界の昼夜のサイクルは地上とは異なるようだが、少なくとも中庭から見える空は白み始め、心なし、ここ数日の空と比べればワントーン明るくなったようにも見える。
服やエプロンが干された中庭の一角、アバンは炊事スペースで便宜上の朝食のために、マンドレイクの亜種でジャムを煮詰めていた。
下茹での段階では感じなかった甘い匂いが、煮詰めることではっきりと分かるようになってきた。このジャムは成功しそうな気がする。イケる。味覚を無くそうと、長年の料理の勘がそう言うのだから間違いない。
アバンはそうやって自画自賛しながら、ひたすらにジャム作りに没頭していた。かたわらには、焦がし切った失敗作一号が、"畑の飼料行き"のバケツに入れられていた。
——数刻前。私は、正気ではなかった。
ハドラーの手に翻弄されるうちに意識が朦朧として、恥も外聞もなくあの男に抱いて欲しいなどと懇願した。この出来事は残念ながら夢や思い違いの類ではない。霧が晴れたように妙にスッキリとした心身と、弟子達よりも早起きして洗濯を終わらせジャム作りまで出来てしまう、このすこぶる絶好調な体調が何よりの証拠だった。
『なおさら抱くに抱けんわ』
ハドラーは、そう言って最後まで私を抱かなかった。懇願に動揺し眼球を惑わせ、グウと唸り声までもらしておきながら、絞め技まがいの抱擁の力をただ強めるだけだったのだ。
アバンは回想する。あそこまで我を失くすようなことは、大魔宮で玩具として弄ばれていた頃にもなかった。醜態を晒すときは必ず何らかの打算があり、打ち靡いた振る舞いは、油断を誘うための演技を常に孕んでいた。どんなに虐げられようと、理性を手放すことなどなかったのだ。
ところがハドラーに対する懇願は、打算のない本心の吐露だった。相手がハドラーだからこそ、言うなれば"安心して"理性を手離し、耐え難きを訴え、ハドラーに全てを委ねたのだ。
ゆえに、ハドラーはアバンを抱かなかった。本来のアバンならば、あのままなりふり構わず抱かれてあられもない声を神殿に響かせるなど、絶対に望まないとハドラーが判断した。アバンの“信頼“に応えるために。
——しかし、その程度の話で済めば、大切な食材を無駄にするような事などなかったはずだ。この私が料理の最中も心ここに在らずになるほどの大事件は、むしろその後にあった。
その先を拒否しながらもそばを離れず、あやすように唇を重ね、アバンの体を慰めるハドラー。そんな相手にしつこく縋って、『これでは足りない』というようなニュアンスの言葉を、何度も喚いて泣きついた。
鍋の中で沸き立つあぶくのように、思い出したくもない記憶が沸々と蘇る。
その後は、そうだ。懇願するだけに留まらず、しまいにはとんでもない言いがかりのような罵倒を口走ったはずだ。『望むだけ与えると言ったのは嘘だったのか』『制止も聞かず手を出したのだから責任を取れ』。そう詰ると彼は牙を剥いて、鬼のような形相で唸りながらも、『無闇に煽るな』『オレとて制御が効かなくなる』と絞り出すように言いながら、頑として懇願を聞き入れなかった。
挙げ句、ハドラーの昂りに触れようと伸ばした腕をエプロンの紐で縛られ、弱火で炙り続けるような愛撫で気を失うまで、幾度も享楽の果てへと追いやられてしまった。他でもない、かつての宿敵、魔王ハドラーの手によってだ。
(穴があったら入りたい……)
――いや、謂ってしまえばこの魔界自体が、大魔宮に掘った私の墓穴のようなものだった。その覚悟あっての自己犠牲呪文であった。
死の大地に自ら掘った穴の中で、弟子たちに気取られまいと気を張り過ぎて、返って窮地に陥る墓穴掘り。
恥の上塗り。重ね重ねの大失態。
(ダブルで墓穴……ダブボケ…)
「……おい、」
「――はぁいっ!はいはいはいッ?!おはようございますグッドモーニング!!いや~~いい朝ですねぇ?!」
いきなり後ろから声を掛けられて、仰天の勢いのまま元気よく挨拶をする。振り返ると、ハドラーがそこに腕組み立っていた。
先刻アバンが気を失っているうちに、祈りの間から姿を消していたこの男。醜態を晒した居た堪れなさもあり、起き抜けに顔を合わさずに済んで内心ホッとしていたのだが、やはりこうして対面してみると、どう接していいのか分からない。
常に雲で覆われた天井を“いい天気“と称したチグハグさを無視して、ハドラーは焦がした鍋を一瞥し、しかしそれにも言及せずアバンを見ると、顎で指し示す仕草をした。
「眼鏡をしておらんぞ」
「……え、あ……」
アバンは反射的にこめかみ辺りに手を当てる。いつもつけているトレードマークの眼鏡を、祈りの間に置いたまま出てきてしまった。
乱れた髪は念入りに二段カールに整え、身支度は完璧だとすら思っていたのに。頭隠して尻隠さずとは、まさにこの事だ。
「これはうっかりしていました」
「要らん心配をかけたくないのだろう、しっかりせんか」
「いやはや全く…」
後ろ頭に手を当て苦笑するアバン。ふんと鼻を鳴らすと、ハドラーは視線を上空に逸らした。
「……アバン、雨間だ。外の雲も安定している」
「!そうですか…道理で空が明るいわけだ」
「…だがあの様子だと、また日を置かずに降り出すぞ。お前のよく回る口で、さっさとガキどもを地上へ追い返せ」
動揺がそこかしこに現れるアバンを前に、いつもと変わらぬ仏頂面で接するハドラー。
挙動不審に目を瞑り、醜態をさらし落ち込む己を一人にしてくれたうえ、雨が止んだことをわざわざ知らせに来てくれた心遣い――アバンはピンと来た。
(なかったことにしてくれるのか…なんと寛容な……)
ハドラーは、もはや挫くべき因縁の宿敵ではないのだ。彼は不器用なりに私を気遣い、常に励まし助けてくれた。現に数刻前だって、私の短慮をなだめ、矜持と意思を尊重してくれたではないか。
そうだ、あれは既に信頼関係の中で完結したのであって、必要以上に恥じるようなことではない。私も些細なことなど気にせず、大船に乗ったつもりでいればよいのだ。
そう自らを納得させ、一度咳払いしてから落ち着いた声で礼を言う。この調子だ。そう内心で呟きながら再び背を向けると、何事もなかったように鍋へと視線を向ける。
ハドラーに背を向けドドメ色のジャムを煮詰めながら、「次こそはうまくいった筈です」と得意げに、ペラペラと製法を語り出すアバン。
そのうなじが赤らんでいるのを見ているうちに、ハドラーにはムクムクと、意地の悪い感情が込み上げて来る。
一歩、二歩、歩み寄る。取り繕うので必死なアバンは気づかない。背後でそっと身を屈めると、カールヘアーで隠れた耳元へ、低く囁いた。
「——『続きを、最後まで』、か……流石の口殺法、あれにはオレもグラリと来たぞ」
「〜〜!!」
ぶわりと、アバンが総毛立ち肩を竦めた。ハドラーはいやらしく目を光らせ、ニヤリと口角を吊り上げた。
「正気のお前ならいつでも抱いてやろう。勇者様たっての願いとあっては、聞いてやらんわけにもいかんからなぁ…?」
バッと振り向きざまにハドラーの胸を押し退けた、この時のアバンはなかなかに見ものだった。表情を強張らせワナワナと震え、怒りか恥か、顔面を真っ赤に染め上げて、ギッと上目に睨めつけた眼差しが心地よくハドラーを射抜いた。
「今完全に"なかったことにしときましょう"って流れだったでしょうがっ!徹しなさいよ!」
「――ブッ…」
「油断させておいて不意打ちとは…何と卑怯なっ…!」
「…クク…ッ!」
「あなたのことちょっと見直してた私がバカでしたっ!」
「ハハハハッ!!!」
「聞いてるのかハドラー!!!」
ハドラーは堪らぬとばかり、高らかに声をあげて笑った。これほど笑うのは復活後、初めてのことであった。
ああ、なんと胸のすくことだろう。次から次へと飛び出る罵倒の、一言一句も小気味いい。
思えば復活後、激しい雨が己とこの男とを打ち据えていた。雨宿りに逃れた今もなお、雨粒は仮宿を叩き続ける。
だが、それでいい。我らはともに千の豪雨を凌ぎ、百の雨間を分かつのだ。
急げアバン。時間がないぞ。防魔の塔でも何でも、とっとと攻略して早く完全復活せんか。
かつての魔王と勇者が手を組んで、成し遂げられぬことなどある筈がない。いっそ二人で三界の、転覆を目論むもまた一興。
面白くなってきたではないか。なぁ?
——我が、宿命の伴侶よ。
かつての魔王の尊大な野望など露知らず、怒り心頭に発したアバンが桶に噴水の水を汲んで、ハドラー目がけて直情的に撒き散らした。
これをきっかけに眼鏡もジャムもそっちのけで大喧嘩をすることとなり、心配した弟子たちを説得するのにだいぶ苦労する事となるのだが——このときの二人は、そこまで考える余地はなかった。
犬も喰わない喧騒に、弟子たちが中庭へ出て来るまであと少し。三精霊像は呆れたように、よそよそしく背を向けている。
その足元のカランコエがのんびりと揺れる中庭には、ほんのり香ばしいジャムの匂いが、甘く甘く漂っていた。
〈完〉
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