桃人と偶人-----
その日は突然に訪れた。
魔族との契約のもと死神に隷属する、最も穢れた場所にまで堕ちたはずの彼の玩具。それは、訪れた使い魔を見るなり風凪のような眼の奥を光らせて、意味深にこう言った。
「ピロロ。あなたは、私の両腕が拘束されている時にしか、私の前には現れませんでしたよね」
見開かれた大きな一つ目に自らを映し、それと示し合わせるように口角を上げた“桃”。
「警戒心の強い使い魔。…いいのですか?今、私の両手は空いていますよ」
しらばっくれることもできた。それなのに、伸ばされた腕がやたら大きく長く見えて、ピロロは飛び退かずにいられなかった。
「う…わああぁぁ…ッ!!」
両のこめかみに食い込む生身の激痛。大きな帽子が、はたりと床に落ちた。
滅多に人に見せることのない2本の小さなツノが、奴隷の眼前に晒される。
少しイタズラをしてやろうと思っただけなんだ。
せっかく仕込んだ玩具が、遊び方も知らない男の手に渡った途端、つまんない遊ばれ方ばっかりするようになったから。
客室で"桃"を賞味してからというものの、サプライズの衝撃も過ぎたらしい魔軍司令殿は、随分その味が気に入ったらしかった。彼は“桃“での余興を自らの手で行わせて欲しいと大魔王に嘆願した。この手で泣き叫ぶ宿敵の、惨めな姿が見たいのだと。
大魔王は、元魔王が勇者の成れの果てへと向ける執着心を面白がり、あらゆる嗜虐の演目を元魔王の手でやらせた。この頃はすっかり処遇を受け入れていた“桃“も、元魔王の前では随分と新鮮な表情を見せ、それがまた大魔王の興味を引いたようであった。
こうして謁見の間で行われる遊戯の大半が変わり映えのしない出し物に差し替えられてゆく。それは、死神にしてみれば、全く面白くない展開であった。
“桃“が死神と交わした隷属の契り。それは魔族との契約であり、絶対に反故できぬ強固な縛めだ。
現状死神が献上した”桃“を大魔王が魔軍司令に下げ渡したような状態になっているが、実際の主人が死神であることに変わりはない。
それなのに元魔王と来たら、まるで自分の物だとでも云うように“桃”の耳に針を通し、自らの魔力を込めた魔石の耳飾りを付けさせていた。このピアスもピアスで全くセンスがないのだ。それがまた癇に障る。
今日は魔軍司令が大魔王の命令のもと、地上侵攻のため大魔宮を留守にする日であった。大国を攻めるらしく、大魔王も今日は進軍の様子を水晶で見物している。ゆえに淫蕩の饗宴も催されることはなく、佳境に差し掛かるまではと、“桃“も珍しく暇を与えられていた。今や実質の死神の管理を離れた“桃“は、地下の牢獄で束の間の安息を享受していることだろう。それではつまらない。あれをひと時だって休ませてやるべきではないのだ。
日々虐め抜かれてすっかり熟れた体は、ことが済めば外傷はすぐに癒され、被虐の匂い立つような色気だけが蓄積してゆく。彼の放つ薫香は甘やかで、今や、まさに鼻腔を蕩かすほどだ。
これほど仕上がった極上の果実。これを前に、いつまでも正気で居られる者も多くはない。彼の苦悶の汗雫は、如何なる銘酒の陶酔もたちどころに醒めるほど美味なのだから。
——だからって、なぜ?
拘束がないことに気づかず不用意に間合いに入って、こめかみに迫る指を避けられなかったなんて。
ボクに限って、まさかそんな。
こんな初歩的なミスを、一体どうして?
「う…ああっ!こ、これは…魔法力ッ…?バカな!首輪にほとんど魔力も体力も吸われて、キミは呪文も唱えられないはずなのに…!」
狼狽するピロロを射抜く眼差し。据わった眼光は、戦慄を覚えるほど冷徹であった。
「この呪文は己の全生命エネルギーを爆発力と変える。ゆえにほとんど魔力を使わん…!いかなる力を奪おうともこれだけは奪えまい、私をこうして生かす限りは…!」
「ま…まさか…ッ?!」
自己犠牲呪文……?!馬鹿な!人間が使うなど聞いたことがないッ…!蘇生の可能性がある僧侶ですら、ハイリスクなうえ敵へ命中させることすら困難なこの呪文を使用する者など居ないと云うのに!
だが——魔導の心得のある者ならば、契約せずとも唱えることのできる呪文でもあった。必要なのは、命を賭ける覚悟と、ターゲット必中の間合い。
奴隷の強靭な眼差しは、真っ直ぐにピロロを見詰めていた。こめかみに突き立てられた両手を外そうとしても、小さく非力な力ではビクともしない。己が魔力さえ、生命エネルギーに相殺されてゆく。
「や、やめろよぉぉ!!ボクは、ボクはただ前みたいにキミのお世話をしに来ただけなんだよぉ!ボクを巻き込まなくったっていいじゃないかぁ!」
「私が鳥籠に入れられた時、キルバーンはこう言いました。『つきっきりで寄り添って、“ボクが全部“面倒を見たんだ』と。……フッ、手柄を横取りとは酷いご主人様だ。私のお世話をしてくれてたのはあなただったのに——ねえ、ピロロ?」
「!!」
聞いていたのか、あの状況で。“鳥籠“の中で視界も奪われ、変わるがわる犯されながらも、こちらの言動にまで耳をそばだてていたと云うのか。
気づいている。この男はピロロがキルバーンだと気づいている。かまをかけるだとか、もはやそういう段階の話ではない。おそらくは、初めてピロロの姿で接した時から疑っていたのだろう。そして“鳥籠“で確証を与えてしまった。
(不覚……!)
なんて不用意なことを。口が滑ったのか?抗うすべもなく慰み者となる勇者があんまり無様で惨めだったから、起き抜けの元魔王があんまり間抜けな顔で立ち竦んでいたから。
人間の分際で魔王を討ち取りし勇者をここまで穢らわしく堕としたのはボクだと、誇示したくなった?そんなわけが、ない!こんな取るに足らない人間ごときに足下をすくわれるなど、ボクの自尊心が許さない!!
「あなたをここで討ち取れば、私の捕虜生活も無駄ではなくなりますね…むしろ、辛酸を舐めた甲斐もあったと云うもの…!」
「……や、やめろったらやめろォ!!キミは…!キミはボクに従うと契ったじゃないか!魔族との契約は絶対の効力を持つ!キミがボクの命令を無視できるはずがない!!」
「ふふ、語るに落ちたな…!確かに私は隷属の契約を結んだが…私が契ったのはキルバーンただ一人!ピロロ、お前ではない!」
「なッ…!!そんな屁理屈…っボクがキルバーンだ!ボクの命令はキルバーンの命令だ!貴様、馬鹿げたことを言うな!!止めろアバン……離せェェ!!」
「おやおや、ますますキルバーンとは思えぬ取り乱しようだ……、見なさいピロロ、呪文は中断されない。契約の天秤は私を是としたようだな…」
魔族との契りは不条理な天秤だ。誓言に縛られはするもののその解釈は優位な側に委ねられ、気圧されて劣位となった側にとって不利に作用していく。今まさに、契約が、価値を無くした。
どこから崩れた?あの方に対抗し得る輝きを放つ前に、地底へ引き摺り落とした赤星。それが今、強烈な閃光となって迫り来る。全ては、全てはあの男と引き合わせた時。そうだ、あれが、あの涙が、不吉の前兆。災厄の布石。魔王と勇者の再会は、カタストロフの幕開けを告げていたのだ。
「死神との…隷属の契り…!私がそれを受ける理由など、この日のため以外にある筈がなかろう!!」
「……ッッ!」
死神は言葉も選べず絶叫した。
「……ダメだッ!本当にダメなんだ!!死神がもう近くまで来ている!自己犠牲呪文なんてしたらっ、大変なことになる…!!!」
「観念しろ死神…!恋人同士のように連れ添った仲なのならば…ッ最期まで、付き合ってもらうぞ!!」
「くそ…ッ!!くそぉぉぉ!!!」
突然黒い影が空間を裂いて現れ、それが奴隷へと襲い掛かった。しかしその手が触れる前に、眩い閃光が奴隷と道化を包み込む。
直後——爆音。
この日、死の大地は激震し、世界中へと届くほどの地響きが地上に轟いた。
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