熒惑心を守る———
人間界の、遥か地底に広がる不毛の大地、魔界。
天井は雷雲に覆われ、偽の太陽が照らす荒涼としたこの世界は、ハドラーにしてみれば久方ぶりの郷土であった。
死の大地の地下で未曾有の大爆発が起きてから数日後。大魔王達の行方も知れず、地上は人魔入り乱れての大混乱の只中だ。
交戦直前の軍に退却を命じたハドラーは瞬間移動呪文で魔界へと向かい、か細い魔力の気配を頼りにアバンを探していた。
宿敵を飾った耳飾りの魔石。彼の安否は不明だが、少なくともその魔石は死の大地の崩落と共に魔界へと落ちた。在りどころを知らせる気配を頼りに捜索するうちに、ハドラーは岩壁の入り組む迷路じみた僻地に辿り着いていた。
岩壁と岩壁の先に色濃く感じる気配を追い、奥へ奥へと進んでゆく。辺りには、地上から落下したものと思われる瓦礫が散乱していた。
客室での密談以降、アバンはハドラーと接触するたび、多くの情報をハドラーに渡した。これまでの経緯や首輪のこと、会って欲しい者のこと。それから、大魔王がハドラーに地上を与える気がないことも告げた。『消えゆく地上を見届けよ』と、アバンに言ったのだと。
地上の隅々にまで届く大魔王の目も、ある場所に釘付けになる時がある。アバンとの、チェスの対局中だ。ハドラーが同席を命じられる時もあるが、魔軍司令としての任務を優先するよう命じられる時もある。下げ渡しの体裁などあってないようなものだが、大魔王はハドラーの口に出さずとも貸し渋るような反応を面白がって、事前に許可を取るような言葉をよく口にした。
長くて一時、短ければ四半時の、監視の目がなくなる瞬間。この時間を狙ってハドラーは、アバンを解放するための協力者を募るべく秘密裏にはたらきかけていた。
まず、バルジ島の窟に隠遁するマトリフの元を訪れた。彼はハドラーを警戒し敵愾心をあらわにしたが、アバンからの暗号めいた伝言を伝えるとすぐに信憑性を見出し、盟友の置かれている窮地を理解した。ハドラーはアバンがひどく案ずる弟子のことを話し、彼につく見張りを倒して身柄を保護するよう依頼した。既に居所もわかってはいるが、ハドラーは下手に手出しができぬゆえの苦肉の策であった。
「……何故そこまでして助けようとする?てめえにとっちゃあ不倶戴天の敵だろうが」
弟子の件の真偽を用心深く探りながら、容易には返事をせずにマトリフは問うた。
不倶戴天。”同じ空のもと存在することすら許せぬ憎い敵”。ハドラーは視線を地に落として皮肉げに口角を上げた。
「違うな…オレはアバンに、このオレを認めさせねばならんのだ。その勇者が不在では、蘇った意味がない……」
マトリフは重い沈黙ののち、ハドラーに協力することを約束した。
ある時はデルムリン島へ、魔王軍幹部であったブラスに接触するため赴きもした。ハドラーの魔力の波動に影響されるブラスは、かつて旧魔王軍幹部を担っていた頃の彼らしい鋭い眼光の奥に、見知らぬ柔らかい色あいを湛えながらハドラーにかしづいた。
目的は地上の情報収集であったが、思いがけず竜の紋章を宿す子をつい先日まで育てていたことを知らされ、すぐにそれがバランの探す子であると察する。ハドラーは海上に眩いばかりの黄金の光を見つけ、その光が包む小舟の上で、気絶するこの少年を見つけ出し、内密にバランに引き合わせた。珍しく狼狽えるバランに包み隠さず経緯を話し、恩着せがましいことを承知で彼にも協力を仰いだ。いつか勇者を危地から解放する時、手心を加えて欲しいと願い出た。
「叛逆の宣言とは……"桃"の色香に狂ったか、ハドラー殿」
大魔王の所業に渋面を作ったバランであったが、ハドラーの発言を聞き咎めると厳しいまなこに威圧的な眼光を湛えた。その迫力を真っ向から受け止めたハドラーは総毛立ち——突如、呻きか笑いか分からぬ声を絞り出すと、なりふり構わず手を地に突いて頭を下げた。その無様なまでの姿に驚愕し、言葉を失うバラン。
「オレとて思う、狂気の沙汰と…!だがあの男が…オレを討ち破った勇者があのような窮境に置かれるなど、己が身を裂かれるよりも耐え難いッ!もはやオレには、これ以外の選択肢はないのだあッ…!!」
圧倒された竜の騎士は、まるで単なる一介の男のように瞳を揺らした。
それからハドラーは、地底魔城へ赴く機会があった際に、ヒュンケルにもブラスからのとある伝言を伝えていた。かつてバルトスがブラスに語ったという“魂の貝殻“の話だ。もしも己の身に何かあった時に、十分にヒュンケルに別れの言葉を伝えられないかも知れない。その時には地底魔城に隠してある“魂の貝殻“に遺言を託したい。どうかその時は、ヒュンケルにそれを伝えて欲しい。そう言伝を頼まれていたのだとブラスは言った。
アバンはヒュンケルが魔王軍に属していることを知らされていなかったらしく、その生存を知ると目の奥に喜色を浮かべた。しかし、当の本人はアバンを酷く憎んでいるようであり、協力を求めるのはリスクが高い。下手に勘繰られるのを避けるべくヒュンケルとの接触を極力避けていたハドラーは、それゆえ魔軍司令の職務で地底魔城を訪れる機会なくば、遺言の内容を知らぬのもあり、これを告げる機会を逃したことだろう。
かつての魔王の顔を見るなり冷笑を向けたヒュンケルに、“魂の貝殻“の存在だけを伝える。激しい動揺を見せた不死騎団長に背を向けて、ハドラーは地底魔城を後にした。
それら全ての行動は、いつか勇者を解放する道筋を繋げるためだった。それでいて疑いを持たれぬよう、大魔宮で彼を前にした時は執拗に組み伏せ、完膚なきまでに叩きのめした。その暴力を前にすっかり打ち靡き、涙を流して許しを乞う彼を疑うものはいなかっただろう。時には踏み絵のような、苛烈な指示にもハドラーは眉一つ動かさず、寧ろ残虐な笑みすら浮かべて従った。彼を自らの手で徹底的に虐げることで、ハドラーは彼を守っていた。
それなのに、目を離した隙にこんな先走ったことをしでかすとは。あの大爆発が誰の仕業かなど分かりきっている。アバンはきっと言うだろう、『この日のために耐え忍んできたのだ』と。しかし、たとえ彼がそれで満足したとしても、ハドラーにとっては承服しかねる事態であった。
(——甘い、匂い……)
すさんだ魔界の風に、唐突に乗る霊香。幾度も嗅いだ果実のごとき甘い匂いを、岩壁の向こうに強く感じる。魔石の気配のみを頼りに来たが、目前に来て肉体がそこにある確信を得る。それに混じるのは——血の匂いか。生死は分からない。だが、にわかに心が急き始めた。
岩壁と岩壁が阻む道のりを踏み締める。この先に、居る。そう確信し、岩壁の向こうへ出ようとした時——。
「——!」
突然顔面に向けて飛来する閃光。頭ひとつ身を捻って躱すと、それは背後の岩襞に突き刺さった。岩片の先端を尖らせただけの、即席の刃であった。
追撃が来るかと身構えたが、不意打ちの先制攻撃はその一手で終わる。鋭く空をつんざいた切っ先は生命エネルギーを纏っていたが、その光はすぐに霧散した。
攻撃の軌道の先へと向かう。すると、背の低い岩壁の向こうに身を隠した、探し求めていた人物の姿があった。
「……アバン」
彼は岩壁に寄りかかって座り、静かに双眸を閉じていた。
今しがたの先制攻撃でもう余力も尽きたのだろう。血の気の引いた顔色は蝋でつくった人形じみて、生気もほとんど感じられなかった。身に纏った長衣は血や汚れでボロ雑巾のようになり、先ほどのことがなければ、彼の生存を疑ったほどだ。
呼びかけに、アバンはまぶた一つ動かさない。ハドラーは座り込んだ彼の正面に立ち、妙に静まり返った静寂を破った。
「……生きておったのか。悪運の強い奴め…」
「…ハドラー……」
アバンは薄らと目を開けた。頼りなげな眼差しが、ハドラーに向けられる。
「私を……討ちに来たのですか…?」
ハドラーは鼻で笑った。
「今の貴様を討ったとて、オレの雪辱は果たせぬわ」
アバンの口角も微かに上がる。
「…いやぁ、面目ない……我ながら、ヘマをしたものです…」
アバンが視線で指し示した先には、砕け散った首輪が転がっていた。細く、長く、息を吐いて、やり取りに疲弊した彼はまた瞼を閉ざす。
目の前で無防備な姿を晒す勇者は、現れた魔族の正体がハドラーだと知って、明らかな安堵の様相を見せていた。十五年前では信じられない彼の態度が、ちくちくと胸を刺す。不快と言い難い、不可解な居心地。
その違和感に戸惑ううちに、またアバンがゆっくりと息を吸った。
「あなたの…仕業ですか…?」
「……何の話だ?」
アバンは、握っていた手を差し伸べるように持ち上げて、手のひらの中の物を見せた。そこには砕けた石の破片があった。ハドラーが与えた、耳飾りの魔石だ。
「死神を、討つべく唱えた自己犠牲呪文で……私の肉体が砕ける代わりに…あなたが与えた、この魔石が砕け散りました……」
「……」
「この世には、強い祈りをアイテムに込めることのできる者がいると聞きます……それは、呪文の類とは違う不確かな才覚で、熟練度や、魔力の多寡は関係ない、持って生まれた素質なのだとか……」
「……殺戮の覇道を歩んできたこのオレに、他者を護るすべがあるべくもなかろう」
「…そう、ですか……」
納得したようでもなかったが、それきりこの話題は途切れた。
ハドラーにとっても何故あの大爆発の中アバンが生き残れたかは不明であったが、己の祈りが彼を護ったなど、最もあり得ぬ話としか言いようがなかった。
しばしの沈黙ののち、またアバンが話を切り出した。
「情勢は……?」
「……お前の唱えた自己犠牲呪文が、大魔宮の何らかの兵器を誘爆させたらしい。大爆発を起こし、大魔宮は壊滅した。結界の影響で被害は死の大地が陥没する程度で済んだが、地上は戦闘どころではない。バーン様、……大魔王達は、行方不明だ…」
「……大爆発?……そうか、自己犠牲呪文を唱える時、ピロロは言いました。『死神がもう近くまで来ている、自己犠牲呪文なんてしたら大変なことに…』と。操り人形であるキルバーン自体が、実は大爆発を引き起こす兵器でもあったのかも知れません…」
「なにっ?キルバーンが操り人形だと…?!」
「ええ、使い魔のピロロがキルバーンの正体でした。本体を討つチャンスを窺っていたのですが、どうにも隙がなくて……あなたの復活後、何か思うところがあったのか、…珍しく不覚を取ってくれたので、助かりましたよ」
驚愕するハドラーを置き去りに、アバンは回想を続ける。
「私を阻もうと現れた操り人形が、至近距離で自己犠牲呪文を受けたことで爆発し、それが大魔宮の兵器をも誘爆させた可能性があります……私は死神さえ討てれば、と思っていましたが……地上に被害がなかったのなら、なかなかのファインプレーだったみたいですね」
あっけらかんとしてそんな事をぬかす勇者。伏せられていた事実は重大だった。
死神の使い魔が、キルバーンの正体だと…?そんな重要なことを隠していたのか。何故?
驚愕と困惑で立ち尽くしたままでいると、「ハドラー」と、穏やかな声が名を呼ばった。喉につかえた言葉は行き場を失う。
「あなたには…助けられました。ありがとう……あなたの、協力なしには、死神に一矢報いることなど…できなかった……」
「……」
まただ。不思議な胸の痛み。今すぐ「黙れ」と言いたくなるような、それでいて時が過ぎ去るのが惜しいような居心地。
居た堪れず、ハドラーは彼の前にしゃがみ込み、視線を合わせた。
「……立てるか。魔界から地上へは瞬間移動呪文で戻ることができる。そこまではオレが面倒を見てやろう」
「……」
ハドラーは手を差し伸べた。しかしアバンはその手を取らない。訝しく見詰めるハドラーの視線を、彼は頬の産毛に受けた。
「……帰りません」
「……なに?」
「帰れませんよ。この体では」
薫香はいまだ、甘く漂い続ける。桃の媚薬だけを摂らされ、汗のひと雫まで甘美な玩具に作り変えられた肉体。容易く色づく体は凌辱のためだけに集められた者達に貪り尽くされて、慰み者として飾り立てられ、むごく弄ばれ、余さず全身を穢された。
大魔宮から逃れたとて、“桃“に作り変えられた体は戻らない。淫蕩の色香を垂れ流す限り、人の中には戻れない。
「私はもう…できる限りのことをしました。大魔王の本拠地を壊滅させ…死神と相打ちになる大金星を挙げたのです。思いがけず、命を拾いましたが……もう、一度は死んだ身です。こうしてあなたにお礼も言えて……もう、じゅうぶんだ……」
「……死ぬ気か」
「まさか。ですが……後は運を天に任せるのみです。やれるだけやってみますよ……あなたには感謝していますが、もう…これ以上の助力は、不要です」
アバンは、微笑んでいた。
こうして身を隠し、脅威には刃を向けて抗うが、これ以上の助力は拒み、死すればそれもまた仕方なし。
(この、男は……ッ)
——平気な素振りで、なんたる自暴自棄。怒りが、ふつふつと沸き上がった。
死神の正体を伏せていた理由も大方見当がついた。初めから、この男はこの幕引きを思い描いていたのだ。だからこそ、ハドラーに"邪魔立て"をさせまいと、あえて死神の情報を渡さなかった。
ハドラーはまなこに陰を落とし、低く唸るように言葉を吐き出す。
「……らしく、ないな」
「あなたに…私を語られる日が来るとはねぇ…」
「お前の弟子の鼻タレは、あの老ぼれのもとで鍛え直されているところだ。ヤツにしごかれ挫けそうになるが、アレでなかなか折れん。今度はお前を救うのだと、息巻いておるわ」
「そうですか……あの子が…」
「それに報わねばとは思わんのか」
「……」
「本当に、地上に未練はないのか。協力させたあの老いぼれにも、礼は言わんでよいのか。生き別れた一番弟子の憎たらしく育ったツラも、知らんままでよいのかっ…今戻れぬのなら、いつか戻るためにすべき事をせんでよいのかッ!」
アバンの取り繕った表情に、次第に亀裂が生じる。ハドラーの唇が戦慄いた。
「オレは貴様が恐ろしかった。貴様の揺るがぬ真っ直ぐな眼差しが何より怖かった…!だが、その恐怖がオレをこの世にしがみつかせた!オレに不屈を教え、蘇らせたのは貴様だ!貴様への恐怖が、このオレの全てだ!!」
感情が、抑えられなくなる。声が荒む。ハドラーはアバンの両の二の腕を掴んだ。ビクリと揺れた肩。勇者の瞳に映るかつての魔王が、全霊で叫んだ。
「生きろアバン!貴様が死ぬ時はオレが死ぬ時だ!オレをこの世に蘇らせたからには、容易く死を選ぶことは許さんぞ!穢れた体を引き摺って、腹這いで這い回ってでも生きろ!地底に堕ちようとも…泥を啜ってでも!生きて、オレを生涯恐れさせんか…ッ!それができんのなら最初から楯突くなッ!!貴様はオレの宿敵、勇者アバンであろうがあッッ!!」
「……ッ!」
アバンの顔が歪む。歯を噛み締め肩を振るわせ、きつく寄せた眉の下、眦が感情を露わにしている。
だがそれ以上に景色が歪む。とめどなく溢れているのはオレの涙だ。抑え切れん感情が不毛の大地に落ちる。
牙を剥き出し泣き濡れる形相に、勇者は釘付けになっていた。陸に上がった魚のように口をハクハクとさせて、やがて吐息を震わせながら、不貞腐れたように口を曲げ、顔を背けた。
「……だからっ…死ぬつもりはないと言ってるでしょ…!」
惑乱の馨香が甘く漂おうとも、絢爛な勇者の光輝に勝るはずがない。目の前にいるのは、死よりも耐え難い汚辱に耐えて一人戦い続けた、十五年前から変わらぬ高潔な勇者そのものだ。
ハドラーはただ傷ついた宿敵を励ますために、目の前の男を抱き締めた。そしてボロボロと、彼の代わりに泣き続ける。
力強い腕の中、勇者は詰めていた息をそっと吐いて、「苦しいですよ」と呟いた。
そして魔王へと腕を回すと、嗚咽に揺れる背中をポンポンと慰めた。
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