自分の世界を変えた存在 コンコンコン、とノックされる音が響き、アンドルーだろうかとルカは振り向く。
けれど、扉はノックされてから開かれることはなく、アンドルーではないなと椅子から立ち上がって扉を開ける。
すると、そこには同じサバイバーの仲間であるヘレナが立っていた。
「おや、アダムス嬢。どうしたんだい?」
「あ、バルサーさん……すみません、今お時間よろしいでしょうか……?」
何か困ったことがあったのだろう、彼女は眉を下げて控えめに口を開く。
「ああ、構わないよ。何かあったのかい?」
「実は……日記を書くのに使っている、点字タイプライターが壊れてしまったみたいで……動かなくなったんです……」
日記、それはこの荘園で過ごす間に一日一回は書かなければならないもの。
それを毎日書かなければゲームには参加できなくなり、ルール違反として脱落扱いとなってしまうのだ。
記憶力が悪くなり、約束事も忘れがちなルカですら忘れず書いているものだ。
ヘレナは幼い頃に視力を失い、このゲームでの日記も点字タイプライターを使って書いているのだが、故障してしまっては日記が書けなくなってしまう。
「なるほど、分かった。点字タイプライターは部屋にあるのかい?」
「はい……! 部屋の机にあります……!」
「よし、それなら工具箱を持って来るから少し待っていてくれ」
ルカは部屋から工具箱を持ち出し、ヘレナの元へと戻る。
そうしてヘレナの部屋に訪れ、テーブルに工具箱を置き、直して欲しいと頼まれた点字タイプライターを一通り見たルカは小さく頷いた。
「……うん、これなら直せそうだ。中のネジを取り換えてオイルを差せば動くだろう」
「本当ですか……! 良かった……買い換えないとダメかと思いました……!」
「ハハッ、まぁ今まで動いてたものが動かなくなると焦るよな」
ルカは手際良く点字タイプライターを一度解体しては問題がある箇所の修理をし、カチャカチャ、カンカン、と金属が当たる音が響く。
ヘレナは何だか解読をしている時の音と少し似ているな、と思いながらルカが修理している様子を見守り、やがてルカが振り向いて声をかけた。
「直ったぞ、アダムス嬢。ちゃんと動くか確かめたいから、何か打ってくれるかい?」
「えっ、も、もう直ったんですか……?」
「ああ、簡単な修理だったからな」
ヘレナは試し打ち用に紙を挟み込んでキーの上に指を置いてはカチ、カチ……と点字を打ち込んでいく。
ある程度打って紙を取り出しては、ヘレナは嬉しそうに笑顔を浮かべてルカを見上げた。
「直ってます……! バルサーさんっ、ありがとうございます!」
「直っているのなら良かった。それじゃあ、私は失礼するよ」
「はい、今度何かお礼の品を持っていきますね!」
「そんなに気にしなくていい……と言いたいところだけれど、せっかくの厚意を無下には出来ないな。楽しみにしているよ」
ルカは修理に使ったドライバーやスパナを工具箱に戻してはヘレナの部屋から出ていき、自室へと戻って行った。
◇ ・ ◆ ・ ◇
同時刻……試合から帰ってきたアンドルーは、負傷が酷いウィリアムをカヴィンと共に抱えて医務室に向かっていた。
「いってて……悪ぃな、二人とも……」
「いいさ、これぐらい」
「試合に勝てたの……エリスのお陰だったしな」
ウィリアムがハンターにタックルをし続けてロケットチェアに座らされそうになったアニーを助け続けたお陰で、試合はサバイバー陣営の勝利となった。
けれど、ハンターから反感を買ってしまったウィリアムは手酷く攻撃を受けてしまい、自分の力で歩けなくなってしまったのだ。
「すみません……私がもう少し上手くチェイス出来ていたら……」
「いやいや、アニーちゃんは悪くないさ! 三台分暗号機が解読終わるまで持ちこたえてくれてたしな」
「そうそう、それに俺の仕事的にはこういう事になるのはある程度仕方ないから、気にすんなって! ハンターからしたら、俺は邪魔者でしかないからな」
医務室の前まで来ては、アニーが扉を代わりに開けて、傷だらけのウィリアムを見てはエミリーは慌てた様子で駆け寄った。
「エリスさんっ、酷い傷じゃない……!」
「へへっ、ちょっとばかしハンターを怒らせちまってな……」
「クレスさん、アユソさん、そこの椅子にエリスさんを座らせてあげて。レスターさん、あの棚から包帯を取ってもらっていいかしら」
ウィリアムが治療を受けるのを心配そうにアンドルーは見守り、その様子を見たカヴィンは小さく笑う。
「なんか、アンドルーも変わったなぁ」
「え……な、なんだよ、急に……?」
「前なら、医務室に人を運んだらすぐ出て行ってたろ? そんな心配そうに見てないでさ」
そうだったろうか、と思ったけれど、ここに来たばかりの頃は他人と極力関わりたくなくて、必要最低限でしか会話もコミュニケーションも取らなかった。
とはいえ、ウィリアムは大事な仲間なのだ、心配しない方がどうかしているだろうと思い、アンドルーは呟く。
「……エリスは、仲間だから……心配ぐらいは、するだろ……」
「まぁ、それはそうだけどな。お前がそう思えるようになったの、ルカと付き合って考え方が変わったからじゃないかって言いたいんだよ。もちろん、良い意味で変わったってことだけどな」
それを聞いて、アンドルーは確かにルカと付き合ってから他人と関わることへの嫌悪感はかなり無くなったような気がしてきた。
というのも、アンドルーの視野の狭い世界をルカが広げてくれて、それで考え方や感じ方が変わったのだろう。
アンドルーの土の中のような暗くて寒い世界に、ルカという一筋の青い稲妻なような光が走り、暗くて寒かった世界に突如現れたその光は、アンドルーに沢山のことを教えてくれた。
母以外の人の優しさも、温かさも、愛おしさも知ることが出来て、他人と関わることの恐怖心を和らげてくれたのだ。
その光のお陰で、アンドルーの世界は母が居た時のような温かさを取り戻したのかもしれない。
「……そう、かな」
「ああ、そうだよ」
話を聞いていたアニーやエミリー、ウィリアムも微笑ましくアンドルー達を見ていて、良い意味で自分が変われたことを、アンドルーは少し嬉しく思った。
◇ ・ ◆ ・ ◇
コンコンコン、とまた部屋の扉が叩かれ、それと同時に「ルカー、いるー?」とトレイシーの声が扉越しに聞こえた。
丁度終わったスケジュールのメモを捨てていたルカはすぐに扉を開き、トレイシーが珍しそうに目を丸くさせる。
「わ、珍しい。ちゃんとルカが扉を開けるなんて」
「丁度メモを捨てていたところだったからね。どうしたんだい、レズニック嬢」
「ああ、そうそう。チタンの六角ボルト余ってない?」
トレイシーとルカはよく足りない部品を交換し合ったりしていて、互いの部屋に訪れることはある。
ルカはボルトを保管している箱を漁っては、幾つか出した。
「ネジ径とピッチは?」
「ネジ径は3.5mm、ピッチは0.793mm。ロボ君のメンテしようと思ったら足りなくてさ」
「んー……ああ、あったあった」
トレイシーはルカからボルトを受け取り、持ってきた交換用の部品を並べる。
「どれ欲しい?」
「じゃあ、このナベ小ネジで」
ふとトレイシーは、ルカにしては珍しく机周りや部屋が片付いていることと、部屋の片付けを自分でしていたことに疑問を抱く。
「珍しいね、ルカがちゃんと片付けしたりしてるなんてさ」
「ん? ああ、まぁね。机周りとかテーブルを片付けておかないと、アンドルーが夜食や菓子を持ってきてくれた時に置く場所が無くて困るだろう?」
アンドルーの為かと思うと納得は出来るけれど、ルカが他人の為に時間を割くことそのものが珍しくて、トレイシーは「へぇ、変わったねぇ」と言いながらルカから貰ったボルトを作業着のポケットに入れる。
「変わった?」
「うーんと、なんかこう……前は他人の為にわざわざ自分の時間割かなかったじゃん? ほっといたら自分の世界に入って、そのまま寝落ちするまで作業してさ。僕も人のこと言えないけど」
あまり覚えていないけれど、確かにここに来たばかりの頃は、発明と荘園での最低限のルールを守ることしかしなかった。
食堂だってほとんど出向くことはなく、誰かしら部屋に来たとしても気付くことはなく、きっと発明に没頭しすぎて無視すらしていただろう。
ましてや、他人の為に発明の時間を割くなど絶対にしなかったはずだ。
「……ま、それだけアンドルーがルカのことを変えたってことかな」
「ふむ……そうだなぁ……そうかもしれないな」
トレイシーは自室に戻っていき、ルカは息をついて少し片付いた部屋を見る。
思えば部屋の片付けなんて殆どアンドルーに任せっきりだったし、以前までは彼が来たところで気付かないことが多かった。
「変わった……か」
発明は今でもルカの中で最も重要で大切なものだ。
事故で記憶を失い、空っぽだった自分が唯一覚えていて、それが無かったら『ルカ・バルサー』そのものが居なかったかもしれないのだから。
ただ、それでも……そんなルカの世界に、アンドルーという恋人が居座っているのが、どうにも心地好く感じる。
ルカの冷たい機械と数式や図形だけで構成された世界に、ぽつりと咲いた一輪の花のようなその存在が愛おしくて堪らなくて、可能な限り大切にしたいと心から思うのだ。
そう思い始めてからだろうか、自然と他人と関わることを億劫に思わなくなったり、発明以外のことに時間を割くことに対して嫌悪感を抱かなくなったのは。
そんなことを考えながらぼんやりとしていると、廊下から「ルカさーんっ、ルカさんいるーっ」とエマの声が聞こえてきて、苦笑しながらも部屋の外へと足を運んだ。
◇ ・ ◆ ・ ◇
医務室から出た後、アンドルーは廊下で出会ったデミに頼まれて酒樽を運んだり酒の棚の整理を手伝っていた。
「いやぁ、悪いねぇ! アタシ一人じゃバーの時間までに整理出来ないから助かったよ!」
「まぁ……酒樽は流石にバーボンだけじゃ運べないよな……酒瓶も量多いし……」
「ホセもナワーブも試合に行ってるし、ウィリアムは今日一日安静って言われてるからねぇ。アンタが手伝ってくれて、本当に助かったよ。ありがとう、アンドルー!」
アンドルーはこんなふうに礼を言われることや頼られることは荘園に来るまでは無かったため、少し照れくさそうに目を伏せてはほんのりと頬を染めて「……ん」と小さく返す。
幾つか酒瓶をカウンターに並べたけれど、どれが何やら酒を普段飲まないアンドルーにはよく分からず、デミに問いかける。
「バーボン、これはどこに置いたらいい……? なんの酒か全然分からなくて……」
「ああ、それ? それはラム酒だね。そのラム酒は三段目の右側に同じ瓶があるから、それの後ろに置いてくれたらいいよ」
「ん、分かった」
ラム酒、と聞いてふとアンドルーは、ルカがそういえばラム酒をよく好んで飲んでいたなと思い、じ……と思わずラム酒の瓶を見つめる。
「ん? どーかしたかい?」
「あ、いや……ルカが好きな酒だな、って……」
「ああ、確かにバーに来たら、ワインかラム酒をよく飲むねぇ」
アンドルーはどうにも酒が苦手……と言うよりも、少量ですぐに酔うため、飲むことがない。
けれど……恋人であるルカは、ある程度酒は嗜む。
もう少しぐらい酒が飲めたなら、夜にバーで一緒に酒を飲みながら会話を楽しんだりできただろうか……と思っていると、デミが「アンドルー?」と心配そうに声を掛ける。
「どうしたんだい、そんな思い詰めた顔してさ」
「え……あ、いや……僕ももう少し酒が飲めたら、ルカと一緒にバーに来てたかな……って」
「ああ、まぁ確かにルカがバーに来る時は一人が多いねぇ。アンタが酒苦手なの覚えてるから、誘わないんだろうけど……」
恋人と一緒に酒を飲む時間を楽しみたい……アンドルーがそう考えているのだろうと察したデミは、カクテルに使うフルーツを籠に入れながら一つ提案をする。
「じゃあさ、今夜時間あるなら、試作のカクテルを試飲してみてくれないかい? ルカと一緒にさ」
「え……? 試飲、って……僕、あんまり飲めないぞ……?」
「大丈夫大丈夫、アルコールが低めの飲みやすいカクテルばっかりさ。ほら、ヘレナやマーサが荘園に居るうちに成人するかもしれないだろ? その時は、是非とも成人祝いとして酒を飲んでみて欲しくてさ。だから、二人に酒は工夫すればこんなにも飲みやすいものなんだって思って貰えるようなカクテルを考えてるんだ。それこそ、酒が苦手な人でも楽しめるような、ね」
酒が苦手な人でも楽しめる……それはつまり、アンドルーも酒を飲むことを楽しめるように、デミは考えてくれているということだ。
それに、ルカも一緒ならばルカと酒を飲む時間を楽しめることが出来る……アンドルーからすれば、願ったり叶ったりだ。
「……ありがとう、バーボン。後で、ルカに話してみる……」
「ん、良い返事が来るの待ってるよ! さぁて、後はこの一箱だ、ちゃちゃっと片付けようか!」
アンドルーは頷き、せっせと木箱から酒やフルーツを取り出し、デミはそんなアンドルーを見てどこか楽しそうにクスッ……と笑う。
(ルカと付き合う前だったら、酒が飲めるようになりたい……なんて、絶対言わなかっただろうねぇ……)
試合中に回復用のドーフリンを渡された時すら嫌そうな顔をしていたというのに、本当に変わったものだ。
ルカと付き合ってからは、暗いばかりだったアンドルーの表情もどこか明るくなり、笑顔もよく見せてくれるようになった。
(ま、それを言えば……ルカも、表情が作り笑いばっかりじゃなくて、自然と柔らかい表情になったけどね。特に、アンドルーと居る時は)
アンドルーのことを話す時や、アンドルーと話している時のルカの表情ときたら、穏やかで優しさや愛おしさに満ち溢れている。
もちろんアンドルーも、ルカと居る時は笑顔でいつも楽しそうだ。
(良いねぇ、お互いがお互いを良い意味で変えてるっていうの)
ルカとアンドルーの関係を微笑ましく思いながら、デミはワインボトルを棚に並べた。
◇ ・ ◆ ・ ◇
それから夕飯時になり、ルカはエマに頼まれたオーブンの修理を済ませては食堂に向かっていた。
階段に差し掛かった所でアンドルーが丁度階段から上がってきて、お互いに足を止めては笑顔を浮かべる。
「やぁ、アンドルー。君も食堂に向かうところかい?」
「ああ……さっきまでバーでバーボンの手伝いしてたから」
「おや、そうだったのか。そういえば、Ms.ナイチンゲールがバーの方に随分と大量の荷物を運んでいたな。あれの整理かな?」
アンドルーは頷きながらルカの隣に並び、ルカはアンドルーが隣に来てから共に歩き出す。
「なぁ、ルカ……その、こ、今夜……時間ある、か……? あ、む、無理なら、良いんだ……」
「ん? いや、構わないよ。君からのお誘いだからね」
「あ、い、良いのか……?」
「勿論。可愛い恋人の頼みだからな」
アンドルーはぱぁ、と目を輝かせ、ああ可愛いなと思いながらルカは愛おしそうに目を細める。
「その、バーボンがカクテルの試作を飲んでみてほしいって話してて……それで、ルカと一緒に良かったら来てくれ、って……」
「バーボン嬢のカクテル? 私は構わないが、君は大丈夫なのかい? 酒は得意じゃないだろう?」
「ぅ、えと……酒が苦手な人でも、飲めるカクテルを試作するらしい、から……だから……僕でも、飲みやすいはずだ……アダムスやベハムフィールが成人した時に振る舞うカクテルでもあるらしい、し……」
アンドルーは俯いて「それ、に……」と小さく呟く。
「……僕も……ルカと、一緒に酒……飲めるように、なりたい……し……」
「……アンドルー」
アンドルーはチラリとルカに目をやり、ダメだろうかと言わんばかりに見つめる。
まるで捨てられた子犬のようなその目で見つめられると、ルカは大抵はアンドルーの願いを聞いてしまう。
(……私がその顔に弱いの、知っててやってるんだろうか。いや……無自覚だろうなぁ……そういう所が可愛いんだが)
ルカがアンドルーの腰に手を回し抱き寄せると、アンドルーは「ひゃっ……」と頬を紅く染める。
「ああ、それなら一緒に行こうか」
「ちょっ、な、なんで、腰っ……」
「ん? いや、君が可愛くてつい」
当たり前のようにそのまま歩き続け、アンドルーは恥ずかしいからやめて欲しいけれど、ルカを突き飛ばしはせずなるべく食堂にいる仲間達と目を合わせないようにし続けた。
その紅い頬に思わずルカがキスをした時は流石に押し返されてしまったけれど、ルカは楽しそうに笑うばかりだった。