忘羨ワンドロワンライ 静室の床に足を投げ出して座り、魏無羨はフンフンと鼻歌を歌いながら筆を動かしていた。綺麗な丸い円の中は複雑な模様が絡み合う。開発中の新しい陣である。
雲深不知処は山深く涼しいが、晩夏の昼下がりはさすがに熱気がこもる。もちろん冷泉の傍に行って涼む手もあるのだが、夏場に多い童の風邪の時はそうもいかない。ここしばらく何人かの童が床についているため、陣で涼しくしてやれないか魏無羨は知恵を搾り始めた。まずは小さな陣を組んでみて、自分で試そうと考えていた。
「魏嬰」
「帰ったのか藍湛、思ったより早いな」
魏無羨は振り返りもせず呼びかけに応える。一気に複雑な模様を描き上げて、陣を完成させたのち、ようやく振り返った。その視線の先には道侶となった藍忘機が西瓜を提げて立っている。
「羅殿が君にと」
「綿綿の西瓜か!」
目を輝かせ、即座にこれは良い材料が転がり込んできたと、再び陣向かい何やら描き足す。
「ちょうどいい、これを試させてくれ」
描いた陣に霊力を注ぎ込み、その上に西瓜を置く。
「さて、どうなるか。綿綿の西瓜は冷えるとなおのこと美味しいだろうな。綿綿は息災だったか?」
綿綿こと羅青羊は、昨年から清談会前になると金麟台に近い宿まで赴いて金凌と語らうようになった。仙督として若輩の宗主を補佐するため、藍忘機もそれに同席する。
「ご家族全員息災であられた。御夫君と御息女は、昨年同様、羅殿の御実家に挨拶に行かれたようだ」
そうかそうかと魏無羨は楽しげに笑う。
一年ほど前、綿綿と金麟台の縁を取り持ったのは、他ならぬ魏無羨であった。
「綿綿!」
こじんまりとした民家は質素ではあるが綺麗に掃き清められ、上がり口には見事に実った野菜と西瓜が籠に入れて置かれている。見るからに美味そうな西瓜だと思わず見惚れていると、外からかけられた声に応じて開けられた扉から、幼女が顔を半分ほど出してこちらを伺ってきた。
「小綿綿! そうか、今はお前が正真正銘の綿綿なんだもんな。小綿綿、覚えているか? 前に小遣いを渡したろう? 母上は在宅か? それとも一人で留守番なのか? 留守番だとしたら扉を開けてはダメだぞ、物騒だからな」
途端に家の中から弾けるような笑い声がした。
「まあ魏公子、訪ねてきた人がそんな事を言ったら取り次いでもらえませんよ。でも、そうですね、一人で留守番するようになったら、たとえ知り合いであっても扉を開けてはいけないと教えなくてはダメですね」
物騒ですから――小綿綿が開けた扉を大きく開いたのは、笑顔の綿綿だった。
「あら、お一人なのですね」
夫は生憎留守だと言うので、魏無羨は家には上がらず、家の横に張り出した板張りの広縁に座り込んだ。小綿綿は母の足にひしと抱きついて、以前と同じく怪訝そうに魏無羨を眺めている。
「色々あってな、これからここ数年で疫病が少なくなったという辺境に事情を調べに行くんだ。その前に、ずっと世を騒がせていた傀儡の心配はほとんど無くなったと知らせに来た」
存じておりますよ――と綿綿は笑った。
「何度か大騒動があった後、雲萍城で決着がついたのでしょう? それはもう、こんな辺鄙な場所で夜狩をしている私たちのところに伝わってくるほど大騒ぎだったのですよ。嘘か本当か分からないような話も伝わってきましたが、昨日実家から便りが届いて、ようやく私も事の次第を知ったところなのです」
キョトンとしている魏無羨を見て、綿綿は笑う。
「魏公子はご存じなかったのですね、私の祖母は金光善の伯母に当たるのです。祖母は金家に仕えていた筆頭に――雲夢だと大師兄に当たる役職ですね――嫁いだのです。私が子軒さまの世話係のような真似事をして座学にご一緒したりしていたのは、金夫人のご指示だったのですよ」
なるほど、金子軒からの信頼が篤く、下にも置かない扱いだったのはそういう事だったかと魏無羨はひとり頷いた。
「そういう事なら改めて伝えることは何もないな。きっと正しく伝わっているんだろう」
「信じたくないような話もございました。なにより金家を飛び出した己の浅慮を後悔いたしました。居ればもしかしたら何かの助けができたやも――と」
綿綿は俯く。
「あの日以降、金家には――」
「一度たりとも足を踏み入れてはおりません。そんな覚悟で飛び出したのではございません」
綿綿の口調はきっぱりとしていた。
「時々、母から文がきます。こっそり母が近くの町に訪れていて、陰からそっと私たちの姿を見守っている事もありますが、会うのは心苦しくて」
「そうか」
湿っぽくなった会話を切り上げたかったのか、綿綿は立ち上がった。
「西瓜がお好きなのでしょう? 雲夢の御二方は西瓜がとてもお好きだと聞いておりますよ。切って差し上げますから、お待ちくださいね」
そんな事まで噂で流れていたのかと魏無羨は頭を掻く。雲夢の夏は暑く、修練に打ち込むと喉がカラカラになる。そんな時にはみなで奪い合うように西瓜を齧っていたのだ。
「悪いな、綿綿。物欲しそうだったか?」
「ええ、それはもう」
綿綿は笑うと、西瓜を持ち上げる。
「この西瓜は裏の畑で私と娘とで作っているのです。まだまだ実りますから、一つくらい大丈夫ですよ」
西瓜を切って綿綿が再び戻ると、小綿綿は魏無羨の傍に座り、くるりと笛が回るたびに同じく回る飾りの房を掴もうと躍起になっていた。ひと回しして小綿綿が掴み損なう度に、魏無羨は『惜しい』『もう少し』と調子の良い掛け声をかけている。
「まあまあ、綿綿、その笛は素晴らしい霊器なのですよ、そんな風に手を出してはいけません。ちゃんと敬意を持って向き合わねば」
小綿綿はバツが悪そうに両手を背後に隠してしまう。
「いいんだよ、小綿綿。――そうだな、次に会った時に房を掴めたら触らせてやろう。吹き方を教えてやってもいいぞ。この笛は少し力が強いけど、それくらいになったらきっと触っても大丈夫だ」
魏無羨は笑って小綿綿の頭を撫でると、西瓜に手を伸ばした。
「うん! 甘い! 水気は多いのに味も濃い! 良い西瓜だ。綿綿は畑仕事も上手だな」
「ありがとうございます」
綿綿は笑って西瓜を一切れ手に取り、小綿綿の口元に持っていく。夏の残り香のような暑い風が、甘い西瓜の香りを纏うと不思議と涼しげに感じられる。
ひとしきり西瓜を堪能すると、綿綿は懐から小さな文を取り出した。
「旅を終えたら雲深不知処に足を向けられるのでしょう? よろしければこれを含光君にお返ししてほしいのです」
文には藍忘機らしい整った字で、雲深不知処への立ち入りの許可と自らへの取り継ぎを無条件で行うようにとの文言が書かれていた。
「金家を飛び出した金麟台で、別れ際にくださったのです。困ってどうしようもなくなったら、必ず雲深不知処を頼りなさいと。『貴女は間違っていない』と言ってくださいました」
失望と孤独で泣きそうになった時、この文を見る度に『大丈夫、どうしようもなくなっても頼れる所がある。まだ大丈夫』と、そう思えたのだと綿綿は微笑む。
「その時、分かったんです。私が目指していたのは金氏のなかで良い仙師とされる事だったけれど、それはあまり良い目標ではなかったと。誰かが絶望の中に居る時に、まだ頼れる所があるとそう思ってもらえる人になることが、仙師として、人として目指すべきところ。やれることは小さくても、私もきっと誰かの寄る方になることが出来るはずだと」
――魏公子や含光君のように。
文を預かりながら、魏無羨は綿綿に真面目な顔を向けた。
「いろんなことが一区切りしたのに、綿綿は実家とは復縁しないのか?」
綿綿は寂しげに微笑む。
「私のことで実家は金氏の中で苦しい立場になりました。顔向け出来ません」
そうかと頷いて、魏無羨はくるりと笛をひと回しすると、綿綿に困った顔を向けた。
「実は綿綿に頼みたいことがあったんだが、そういうことなら難しいかなぁ」
「あら、私で出来ることでしたらなんなりと。お力になれることがありますか?」
魏無羨はパッと顔を輝かせ、笑顔を向けた。
「そうか、良かった。実は綿綿にどうしてもお願いしたかったんだ。綿綿にやってもらうのが最適だと思うんだよ」
どうぞどうぞと綿綿は和かに先を促す。
「金麟台へ行って、金凌に会ってやってくれないか。金氏は今回のことで大きな困難に直面する。金凌はあの若さで金家を立て直さなくてはいけない。金凌に勇気を与えてやってくれないか?」
綿綿は大きく目を見開き、首を振る。
「でも、それは。そんな」
「金氏に復籍しろなんて言わない、金凌を励ましてやって欲しいんだ。今までは江宗主が後見になって助けてやれた。でも、これから金凌は一人だ。金凌がこっそり泣きべそをかける場所を与えてやってくれないか。金子軒をうまく諭したり励ましたりしていた綿綿なら、きっと得意だろう?」
金家に足を踏み入れるのが心苦しいなら、近くの宿で落ち合う形にすればいい。大丈夫だ、あいつは大事に金をかけて育てられた割に、市井の暮らしにも割と平気で馴染むし、金子軒と違って俺とも平気で話すんだ――魏無羨は矢継ぎ早に言葉を繋ぐ。綿綿は目元を潤ませ、小さく鼻を啜りながらたまらず吹き出した。
「それは、子軒さまに似なくて良かったところかもしれませんね」
「はは。ツンツンしてたからなぁ。そういった話も金凌にしてやってくれ。俺にはできないから」
魏無羨は泣くのを堪えようと目を瞬かさせてる綿綿を見つめた。
「さっき、綿綿は『大丈夫、どうしようもなくなっても頼れる所がある。まだ大丈夫と、そう思えた』って言っただろ? 綿綿が会って話をしてくれたら、きっと金凌もそう思えると思うんだよ」
綿綿は堪えきれず涙を零した。母の涙に驚いた小綿綿がキッと魏無羨を睨み付けたので、魏無羨は堪らず頭を掻いた。
「小綿綿、怒らないでくれ。母上に意地悪したわけじゃないんだ」
その時だ、金色に輝く美しい蝶が魏無羨の頭上を飛び、気付いて伸ばしたその手の上にそっと停まったのは。
キラキラと煌めいて、ゆっくりと消えていく蝶を小綿綿は目を丸くして眺めた。
「含光君からですか?」
「うん。仙督就任を兼ねて臨時で清談会を行う日が決まったようだ。金凌の宗主就任もそこで告げられるらしい」
魏無羨は綿綿を見つめる。
「その前に金凌に会って、何があっても変わらない味方が居ることを教えてやってくれ」
綿綿は今度は大きく息吸い『はい』としっかり頷いた。
「綿綿にお任せください。必ずお支えします」
魏無羨は嬉しそうに笑うと、立ち上がる。
「頼んだぞ、綿綿。藍湛には伝令蝶で伝えておくから、すぐにここに便りが来ると思う。小綿綿を御母堂に会わせてやれ。きっと喜ぶぞ」
小綿綿の頭をひと撫ですると、魏無羨は踊るように家の前の小道へと足を進める。
「西瓜、美味しかった。綿綿の西瓜は絶品だ! 今度また食べさせてくれ。小綿綿、またな」
魏無羨が楽しげに大きく手を振るのを見て、小綿綿は少し考えて、胸の前で小さく手を振り返した。
後に残った綺麗に赤い部分を全部齧り取った西瓜の皮を見て、綿綿は何故かとても愉快になり、笑いながらまだ手を振り続けている小綿綿を抱きしめた。
陣の上の西瓜は次第に露を纏い始めた。
「どうだどうだ。冷えてるか」
光を放つ陣を観察しながら目をキラキラと輝かせる道侶を見つめて、藍忘機はそっと西瓜に触れる。
「冷たい」
ニンマリと魏無羨は笑う。
「そうか! よし、考え方は間違ってないな」
せっかくだ、全部は食べきれないから童たちにも食べさせよう――と魏無羨が笑う。
「綿綿の西瓜は絶品なんだぞ。藍湛、お前も食べるだろう?」
無邪気に笑う道侶を見つめて、藍忘機は思わずその頬に手を伸ばした。
「藍湛?」
頬を撫でられ、そっと胸の中に抱き込まれて、魏無羨はキョトンと目を丸くする。
「藍湛、どうしたんだ?」
魏無羨と道侶になったことを次の清談会で告げる。綿綿には金凌に会う前に先に伝えた。綿綿は一瞬驚いて、すぐに嬉しそうに笑って祝いの言葉をくれた。
――含光君、魏公子を泣かせたりしたら、この綿綿が許しませんよ。大切に大切に、もうどこにも行けないように大切にして差し上げてください。夫は妻の尻に敷かれるくらいがちょうど良いのですからね。
かつて仄かに嫉妬した美しい仙師は、すっかり落ち着いた母の顔をして、夫が妻にするべきいくつかの事を教えてくれた。
出かけたら、好物をお土産に持って帰る事を忘れてはいけません。
毎日、どれだけ大切に思っているか、ちゃんと言葉にして伝えなくてはいけません。
毎日、大切に大切に思いを込めて抱きしめる事は、絶対に絶対に忘れてはいけない事ですからね。
「君を愛している」
耳元で小さく控え目に囁かれた言葉に、魏無羨は熟した西瓜のように真っ赤になった。