稲笹のR18にしたいやつ「笹貫」
名を呼ばれ、笹貫は振り返る。振り返った先には稲葉江がいた。
稲葉の横にいた御手杵が、どうでも良さそうな表情で呼び止めた稲葉と笹貫のほうを見ている。
先程まで稲葉と会話していたのか彼の横に自然と立てる御手杵を『うらやましい』と笹貫は思えた。
だが自身のほうに歩いてくる稲葉を見て、チクリと痛んだ胸が少しだけ癒えた気がする。
「どうしたの、稲葉くん」
軽い笑みを口元に浮かべ、何気ない風を装い笹貫は聞いた。
そんな反応を気にする様子もなく、稲葉は右手を前に差し出す。
「やる」
無愛想な一言と、手に握られたものを交互に見て、笹貫は目を見開いた。
最終的に手に握られた数珠状のブレスレットを数秒ほど見つめていれば、受け取らないことに何かを感づいたのか稲葉が小さくため息をついた。
「いらぬのなら、よい。他のものにやるだけだ」
「オレに?なんで?」
「我にこれは必要ない」
その言葉で、この贈り物に特に意味はないのだと気づく。
笹貫が慌てて手を差し出せば、その上にブレスレットが置かれた。
限りなく透明に近い珠が連なる中、一粒だけ赤い珠がついている。水晶の数珠にアクセントで珊瑚が使われているようだ。
宝飾について詳しいわけではないが、質は普通だろう。もしくはそんなに良いものではないかもしれない。
少なくても、珊瑚の部分については稲葉が左手につけてるものがこれよりも良いものだろうというのがなんとなくわかる。水晶の透過性も、高級なものはもっと透過性が高い記憶があった。
「いらぬのなら本当にいいのだぞ。趣味ではなさそうだが、松井や村雲あたりが欲しがるかもしれぬ」
黙ってまじまじと見つめていたことを困惑と受け取ったのか、心配するような声で稲葉が語りかけてきた。
呼びかけの声にはっと我に返り、笹貫はそれを大事そうに握りしめる。
「たはは、稲葉くんからこんなおしゃれなものもらえるなんて思ってなかったから、だいぶ驚いたな」
なぜ稲葉がこんなものを持っているのかはわからないが、初めての贈り物だと思えばどんなものより価値がある。
握りしめていた手に更に力を入れ、ぎゅっと握りしめ直す。
「ありがとう、稲葉くん」
「おーい、稲葉。渡し終えたか?」
待っていた御手杵が呼びかけ、稲葉はそちらへ顔をむける。
「では、我はこれで」
それだけを言って何事もなかったよう、稲葉は御手杵の元へ行き、去っていった。ふた振りの後ろ姿を眺め、笹貫は長く小さい吐息をはき出した。
手のひらを開けばジャラ……と、石同士がぶつかり合い小さな音を立てる。
あの言い分だと本当にいらなくて、気まぐれでくれた。深い理由なんてない。処分に困っていたときにたまたま自身に目がついて声をかけただけだろう。笹貫がいらないのなら松井や村雲にも声をかけると言っていた。そのことを笹貫は思い返す。
なんとなく二人のイメージではない。松井は青空のような鮮やかな淡青が似合うし、村雲ももっと柔らかな紅色と白色が混じり合ったようなハナモモの蕾みたいな色が似合う。
だからと言ってこの色が自分に合うかと聞かれれば笹貫は自信がない。小麦色の肌と黒い髪の容貌に赤い宝飾が映えない気がした。
つまみ上げ、ジッと見つめる。
「あれ、なんかイイ物もってるじゃん」
背後からいきなり声をかけられ振り返れば、加州清光がニヤニヤと……人聞きは悪いがそう表現するしかない楽しむような笑みを浮かべ立っていた。
「今のなに? 宝石かなにかだよね?」
「多分ね。水晶だと思う」
握っていたそれを手のひらの上に乗せるように持ち直し、加州に見せる。途端、彼の目がキラキラと光り輝いた。
まるで新しいおもちゃを見つけた幼子のようだななどと思いつつ微笑ましく眺めていた。
「それ、さっき稲葉から受け取ってたように見えたんだけど」
「処分に困ってたんじゃないかな。俺がいらなければ松井か村雲に声をかけるって言ってたし、深い意味はなく、たまたま俺が目についたからくれたんだと思う」
「へぇー。なら、俺がもらってもいい?」
「えっ?」
笹貫の笑みが一瞬で凍りついた。
そんな笹貫の様子に加州は気づいていないのか、彼の手からそれをつまみ上げ、つけこそしなかったが手首にかざすような素振りを見せる。
「ワンポイントの赤いアクセントがカワイイじゃん、これ」
ゾワっと、嫌悪感のような寒気が背筋を駆け巡った。一瞬、息ができなくなり唇が小刻みに震える。そんな自身の変化を笹貫は自覚した。
あまりにもあつらえたかのよう、加州に似合っていた。元々、赤と黒を好む傾向が彼にはあるが、白い肌によく似合ってると笹貫も認めるしかない。
「……やだ」
とっさに腕を伸ばし、加州の手首を握りしめた。そのような行為に出ると思っていなかったのか、加州は目を見開き笹貫の顔を見る。
「これだけはダメ!!」
その手から奪うようにブレスレットを取り上げ、胸の前で握りしめ、睨みつける。そんな笹貫の豹変した態度に、加州は目を白黒させるしかなかった。
「オレがもらったものだから……」
「ごめん。軽い気持ちで言ったことだからさ。誰にも渡したくないものを無理やり取ったりしないから、そんなに警戒しないでよ」
祈るように両手を重ね、ブレスレットを抱え込む笹貫を見て、加州は深く考えないで言った発言が彼にとってはひどく意地悪な言葉だったと気づく。素直に謝罪し、警戒を解くように困ったように微笑んだ。
「そこまで大事なら、大切にしなきゃね。笹貫によく似合うと思うよ」
「……あまり俺っぽい感じじゃない気がするんだけど」
「緑の目と相対する色じゃん。笹貫の魅力を引き立たせているって。自信持ちなよ」
そう言って微笑みを……いや、なにかを楽しむような笑みを浮かべ加州は言う。
正直、あまり褒められない種類の笑顔にさすがの笹貫も諦めの表情となる。
加州が色恋沙汰の心情に気づかぬはずがない。
先の一連の行為はわかりやすすぎたかと、いまさらながら恥ずかしくなる。
「今度ゆっくりお茶でもしてそのあたりの話、詳しく聞かせてよ。初期刀としてはやっぱり新入りのことは気になるし、些細なことでも頼よってもらいたいからさ」
「んー、まあ時間があえば」
「オッケー。俺はいつでも話を聞くからね。あっ、相談とかでも大丈夫だから」
お世辞ではなく心の底からそう思っているだろう加州の様子に、笹貫も苦笑いするしかなかった。
「困ったら頼らせてもらうよ」
「絶対にだよ!!」
ルンルンとスキップでもしそうな上機嫌な加州に、きっと相談する日なんてきやしないと笹貫は仄暗い気持ちになる。
「あっ、そうだ。笹貫」
だが立ち去ったと思った加州が止まり、振り返って声をかけたことより強制的に浮上させられた。
「んっ、どしたの?」
「あとで回覧板でまわすけど今回は大事な内容書いてあるからしっかり目を通して。敵側のほうが最近怪しい動きがあるから気をつけてね。笹貫とか今、経験積むために特に出陣が多めなひとりだし」
「そうなんだ、厄介なことにならなきゃいいけど」
「俺もさっき主に聞いたばかりで、いまからその周知用の書類を作るから。もしかしたら新入りの笹貫の部屋に回ってくるまで2日か3日かかるかもしれないから、掲示板で見たほうが早いかも」
「うん、わかった。掲示板のほうを見ておくよ」
「これ、稲葉にも言っておいてね!!」
最後の一言で、からかわれたと気づいたが、怒る気にもならず困ったような笑みを笹貫は浮かべるしかなかった。
この本丸には回覧板と呼ばれるシステムがある。審神者の生きていた時代にあったシステムで、ご町内の大事なことはバインダーに挟めたプリントでお知らせしていた。
同時に、刀剣男士の自室は基本的には個室だ。望めば同室にすることもできるし、間取りの変更自体は景趣の変更並みに簡単らしい。
ただし、審神者にしかできないため初期刀の加州を経由に申し出をし、早ければ半日語、遅くても一週間で大きい部屋へ間取りを変更して荷物を運び入れるといった流れになる。
粟田口の者は鳴狐や鬼丸国綱を除けば基本は同室で、和泉守と堀川も同室だと聞く。あとは源氏の兄弟や、意外にも長曽祢虎徹と蜂須賀虎徹が同室であったりする。
もっとも虎徹は三兄弟で一つの部屋なのだが、脇差の浦島虎徹は夜戦での出陣が多いことや、夜に本丸にいても刀剣男士随一の人懐っこさでやれ誰々の部屋で寝泊まりするといったパターンが多く、ほとんど荷物置き場と化して長曽祢と蜂須賀の二人部屋になっていたりするが笹貫が顕現する何年も前からその状態なのだから、大体のものは理由を察しているしなぜ同室を解除しないかと深く追求するのも野暮なものである。
そうかと思えば意外な者が一人部屋であり続けたりする。豊前江と稲葉江はその筆頭といえる。
粟田口の次に顕現しているのが多い刀派であり、非常に仲が良い刀派の筆頭でもある。
他の本丸でも江派は同室であることが多いというが、桑名江と松井江、五月雨江と村雲江が同室であるがそれ以外が個室を使い続けている。
篭手切江は豊前が来るまでの長い間、個室を使い続け仲のいい細川の刀をよく呼び、出入りが多い関係で他の同室の者から誘われたときに断ったと聞く。
豊前は江のリーダーポジションであることを自負しており、他の者から相談があった時などのためにも一人部屋のほうが勝手が良いと判断し、あえて個室のままだという。
では稲葉は……というと、彼には明確に個室を選んでいる理由が笹貫はわからない。ただ、富田江がくれば同室になるのではないかと本丸内で噂されていることは知っていた。だからいまはあえて個室で過ごしているのだろうと言われている。その言葉に信憑性はなくても出どころの根拠となる部分は稲葉を見ていれば嫌でもわかった。
だがそれまでは、顕現順で割り振られた個室の隣同士であり続けられる。物理的に稲葉に一番近い場所にいられるのは間違いなく笹貫なのだ。
稲葉の反対隣の部屋に七星剣がいたりするのだが、彼は審神者の中でお気に入りの一振りで、ほとんど出陣で自室にはいない。
たまに自室に戻ってきても静かに本を読み、時には占ったりして過ごし、初めての後輩である稲葉を特に気にかける様子もない。
そういう様子を見知っているから余計に実感してしまう。世話焼きなのか、笹貫をよく気にしてくれる稲葉が優しい刀だと。
念の為に言えば七星剣が優しくないわけではない。むしろ彼が普通なのだろう。
この本丸では後輩の世話は顕現が近いもの、一つ上の先輩刀が基本は引き受ける。
稀に二振りがほぼ同時に来れば例外はあるが、七星星と稲葉、そして稲葉と笹貫はその慣習に従い、教える側と教わる側だった。
元の主の影響か、七星剣は多くの知見があり、教えるのがうまかった。そこに真面目で向上心が強い稲葉が後輩であれば、多くのことを教えるにしても時間はそうかからなかったという。ましてや稲葉には先に顕現した六振りの江もいる。勝手を知り、覚えるのに一週間もかからずかなり飲み込みの早い、優秀な男士だと一目置かれたのだと聞いていた。
そういう意味では顕現時から頼れる刀がいない笹貫と比較し、稲葉はかなり恵まれていた。
とはいえ笹貫とて縁者がまったくいないわけではない。三条のものは刀匠の弟子が打った刀でやんちゃ盛りの弟分のように思えるし、その三条宗近の弟子が打ったとされる五条の鶴丸国永なんて若々しい雛鳥のようでなんにでも好奇心が旺盛な部分は無垢な赤子のようでとても愛らしく見える。
歓迎の宴で酒を嗜んだ勢いでそう告げたとき、多くの刀が顔を引つらせたのは記憶に新しい。どうやら三条の刀や鶴丸を畏怖する存在としてではなく加護するものとして見ているのは笹貫くらいのようだった。
だが刀匠の関係性でなんとなく上下関係ができあがるのは刀剣男士の習性のひとつだ。表向きこそ対等にし、顕現順と本丸内での経験などの先輩後輩が優先されるが、南海太郎朝尊の後に来た水心子正秀を彼は師と呼び、敬っている。態度こそはふざけていることも多いが、彼らの関係性は刀匠時の師弟関係で少なくても南海は水心子のほう上とし敬意を持っている。貞宗の三振りも日向正宗には一目を起き、日向も彼ら三振りへ向ける眼差しは実子を見るような優しく温かいものである。
もっとも、笹貫にとってはそういったものは窮屈に思うことがある。三条の五振りも鶴丸も、長い間この本丸を支えた実力者だ。頼りになるのは嫌というほどわかるからこそ、敬意を払われると頼りづらく彼らに失望を感じるような真似をしたくなかった。
だからこそ、縁もない、同じ主と一緒だったなどの経歴もない、純粋にこの本丸で初めて触れた稲葉の優しさが身にしみた。
出会った日のことを目を閉じ、思い返す。
笹貫が報酬となった夏の連隊戦という催しに、稲葉は一度も戦闘に出なかった。その頃は稲葉がこの本丸で一番新しい新人で、最高難易度の合戦を選んでいたことから稲葉には出陣が難しく、主戦力である第一部隊はもちろん、控えの他の部隊にも組み込まれなかった。
だが七星剣はいた。彼が新人であるが特例で部隊に組み込まれたのは文字通り、彼だけが持つ能力が大きい。
だからこの本丸で審神者と会話し、数時間後に稲葉を呼び出されたときが初めての出会いだった。
上座に座る審神者と対面するよう畳の上で正座をしていれば「失礼つかまつる」という声のあと、間を置いて扉を開いた稲葉が入ってきた。
その時に目があった。笹貫からの稲葉に対する第一印象は威圧する覚えるほど真面目そうで、冗談などは通じなさそうな堅物な男。
「主よ、我にいかようで」
そしてものすごい古風な武士の喋り方。堅苦しいのが苦手な俺と相性はあまり良くないだろうと、なんとなく思えた。
稲葉は審神者の前では笹貫に目をくれなかった。今日来たばかりの子だから、世話を頼んだと告げ、感情の読めない表情で「御意」と頭を下げたのを覚えている。
それからすぐにもう下がっていいと笑いながら審神者は言い、二人して広間から出た。扉を締めての第一声はひどく素っ気なかった。
「ついて来い」
「あっ、うん」
廊下を歩く稲葉について行く間も稲葉はしゃべらず、うまくやれるかなと不安になった。少し離れた庭先で短刀が遊んでいるのか、笑い声が聞こえるほどの静けさが気まずくてどうにか空気を変えようと笹貫は声を出した。
「オレは笹貫。アンタの名前は?」
「稲葉江だ」
「へぇー。江の子ってたしか南北朝時代の名刀だっけ。たしかことわざで“郷と化物は見たことがない”ってこの世にあるけど見たことがないって例えだっけ。いきなりすごい子と出会っちゃったな」
話題をなんとか繋げようと会話を振るが、一瞥するだけで稲葉は返事をしなかった。
予想以上に無愛想でやりづらいと思った矢先に、廊下の先からジャージを着た眼鏡の少年が歩いてこちらに向かってきた。
「あっ、先輩!! えっと、そちらの方は……?」
「オレは笹貫。笹貫の太刀って呼ばれることもあるかな」
「はじめまして、私は篭手切江と言います。稲葉先輩と同じ郷義弘が打ったと言われる脇差です」
純粋そうで可愛らしい子だと思い、微笑めば、篭手切も笑顔を見せてくれた。
「篭手切」
いままで喋らなかった稲葉が呼びかけ、同じ刀派の子には普通にしゃべるんだとそんなことを笹貫は思
う。
「新入りゆえ、力になってやれ」
「えっ……?あっ、はい……」
呆然と言わんばかりの篭手切を無視し、そのまままた歩き出した稲葉の背中を見て、少し感じが悪いと思えたが、笹貫の予想と違い、無愛想な稲葉を気にした様子もなく篭手切は嬉しそうだった。
「どうやら、先輩にかなり気に入られているみたいですよ笹貫さん」
「えっ?」
「私から言うのもなんですが、先輩は自分にも他人にも厳しい方なので。対抗心は強いので好敵手と認定された相手にはすごく気にかけるのですが、そういうの抜きで出会ってすぐ私たちに良くするように言うなんて、余程ですよ」
あの態度で気に入られているなどと言われてもにわかに信じられず困惑していれば「笹貫」と先を言っていた稲葉に呼びかけられた。
「行くぞ」
「えっと、ごめん。じゃあ、また」
慌てて近づけば、気にした様子もなく稲葉は廊下を進む。
それからしばらく二人で行動していたが、特に会話はなかった。稲葉は寡黙で誰かに会っても必要最低限のことしか話さない、表情の変化もほとんど見られない。
ただ、必ず「よくしてやってくれ」と言葉をかけ、そのことに誰もが驚くものだから余程いままでの稲葉とはかけ離れた言葉なのだろうというのは笹貫にもわかる。
いまだ信じがたいが、篭手切が言った気に入られているというのは嘘ではないようで、少しだけ安堵した。
そのせいか稲葉と一緒に廊下を歩き、本丸の間取りを説明され、最後に自室となる部屋に案内されたころには不思議と嫌いではないかもと思い始めていた。
真面目で堅物そうで、冗談も通じなさそうだという印象はいまだに変わらないが、彼とならなんとなくうまくやれるような気もしてきた。
「ここが貴殿の部屋になる」
「へぇー、個室なんていいね」
「隣が我の部屋だ。何かあれば来い」
「うん。ありがとう」
「しばらくしたらまた案内をする。それまではゆっくりしていろ」
「では」と告げて去って行った稲葉の背を見送ってから部屋に入り、ふぅと息を吐いた。
「……疲れた」
初めて人の姿を得てからまだ数時間しか経っていないのだから当たり前なのだが、なんだかひどく気を張っている気がする。慣れるまで大変かもしれないと思うと同時に、これからどんな毎日が始まるのかと期待もしていた。
稲葉はとっつきにくい空気を醸し出しているが悪い奴じゃない。ただ不器用なだけだ。
「……まぁ、そのうち仲良くなれたらいいかな」
思わずつぶやいた独り言が、何もない与えられたばかりの自室に響く。
顕現して、はじめて一人になった。壁に身を預け、膝を抱え込むように座ってみる。
人の体というものは不思議なもので、たったそれだけで気持ちが落ち着く。
「さて、これからどうしよう」
やることといえば、この本丸のことを知ること。
そして、仲間の顔や名前を覚えることだ。
やることばかりでしばらくは退屈しなさそうだとぼんやり思う。ゆっくりできるのも今くらいなものだろう。
「……稲葉くん」
なんとなく、ポツリと呼んでみた。まだまだ顔と名前が一致しないものが多い中、彼だけはしっかり覚えた。
たくさん覚えなくてはいけないものが多い中、初めて覚えたのが稲葉のことで、他愛ないことなのになんだかおかしく感じて小さく笑ってしまう。
そのあと、稲葉のことを思い浮かべれば胸の奥が暖かくなって妙にくすぐったい気分になりながら目を閉じた。
それは小さな感情だった。幼子が飴玉をもらい、それが特別に嬉しく感じたような、そんなふわふわと掴みどころのない、甘く可愛らしい優しい感情。
それが自分の中に根付き、芽生え、成長するなんて笹貫だってこの時は思っていなかった。
それから数時間後、夕餉の時間。
笹貫が稲葉に呼ばれ、歓迎の宴の席につけば、多くのものに囲まれた。
それぞれが簡単に名乗りあげ、色々語るが情報量が多すぎて困惑していたときだ。
「しかし稲葉が先輩か。ちょっとついてねーな、お前」
「えっと?」
赤いシャツと緑のジャージの、やたら背が高い男、御手杵がそう言った。彼の名は稲葉の次に覚えた。
なんてことない、胸元に『御手杵』としっかり書かれていたからすぐに覚えられた。
「あいつ、面倒くさいんだよな」
「それってどういう?」
「話しかけても大概素っ気ないんだ。あとすげえ俺様っていうかお殿様というか、上から目線だから人によっては気を悪くするかもな」
「へぇ……」
稲葉は確かに口数が少ないし、あまり会話をしようとしないタイプだとは思っていたが、御手杵の言いようは散々だ。すごく人の良さそうな男なのにこれだけ忠告するというのは他のものにも同じ態度なのか。
「まぁ、俺はあいつとは昔なじみだし、悪いやつじゃねえのは知ってるんだけどさ。こう、勿体ないんだよな。態度で印象悪くて損するっていうか。だから笹貫も不快になることはあると思うんだけどさ、あんまり悪く思わないでやってほしいんだよ」「うーん……。大丈夫だよ。オレ、稲葉くんのこと悪く思ってないから」
「そっか。アンタ、いいやつだな」
そう笑われて、いいやつなのは御手杵のほうだろうと笹貫は思う。純粋に稲葉を心配しての根回しだというのは気づき、微笑みかけた。
「おい、手杵の槍」
そんな会話をすれば、頭上から声が降り注ぎ、見上げれば稲葉が睨んでいる。
「おっ、どうした。俺とサシで飲むか?」
「たわけ。余計なことを言うな。貴様はどこかへ去ね」
「はいはい、余計なこともなにも言ってないっつーの。じゃあな、笹貫。なんか困ったことがあればなんでも言ってくれよ」
そう言って、人好きのいい笑みで手を振り、御手杵が立ち去り、代わりに稲葉が横に座る。
その瞬間、広間の空気がややザワついた。どうしてそのようにざわめくかわからず、困惑から困ったように稲葉を見れば彼はグラスに焼酎を入れ一息に飲む。
「そういう飲み方はよくないと思うけど」
「我がどのように飲もうと勝手だ」
取り付く間もなく、なるほどなと笹貫は思う。御手杵が言いたいのはこういう部分なのだろう。たしかに気の弱いものや人が良い性格のものは威圧感を覚えるかもしれない。
「……手杵の槍になにを吹き込まれた」
ずいぶんな言いようだと思う。だが稲葉にとってはそれが当たり前なのだとわかっているため、「別に何も言われていないよ」とだけ答えた。
「……ふんっ」
鼻で笑い、稲葉はまた酒を飲み干す。
それからしばらく、黙々と飲んでいた。
先程まで目まぐるしく挨拶に来ていた刀たちがまったく近寄ってこなくなり、居心地の悪さから目の前の食事に手を伸ばす。
見慣れた黄金色のすり身、つけあげがありそれを口付ける。
「……あっ、おいしい」
「ほんと?ならよかったよ」
思わず口にすれば、ぬぅっと横から誰かが声をかけ、ギョッとした。
「もしかして、桑名か?」
「久しぶりだね、笹貫。君と会えて嬉しいよ」
目元は前髪で隠れて見えないが、穏やかな口調で笑みを浮かべるのは、桑名江だ。稲葉が来た瞬間、周囲が様子見のように来なくなった中、笹貫とも稲葉とも旧知の仲だからこそ、そんな空気をものともせず声をかけられたようだ。
「そのさつま揚げ、稲葉が準備させたんだよ」
「稲葉くんが……?」
「そう、篭手切に今日の酒のつまみに出すようにって言ってさ、篭手切から歌仙に口添えして準備したんだ。中には僕が作った野菜入りのもあるから、いっぱい食べてね」
「えっ、そうなの!?」
驚いて隣に視線を向ければ、フンっと不機嫌そうに顔を背けられる。
「色々と肴を用意しておけと言っただけだ」
「でも、オレのためにしてくれたんだよね」
「勘違いするな。酒のつまみが欲しかっただけでお前のためじゃない」
「そっかぁ」
「……なんだ、文句でもあるのか」
「ううん、ありがとう」
礼を言えば、稲葉は不貞腐れたような表情をし、それ以上は何も言わなかった。
「あはは、稲葉ってば素直じゃないんだから。意地っ張りも程々にしておきなよ」
「うるさいぞ、桑名」
「ふーん、そんなこと言っていいのかなぁ。ねぇ、笹貫」
「えっ?」
いきなり話を振られ、戸惑いながら首を傾げれば、桑名はにっこりと笑う。
「稲葉が嫌だったり頼りないって思ったらすぐに僕に言いなよ。僕は稲葉みたいに冷たくないし優しく畑当番を教えてあげれるからさ」
「畑当番だけ?」
「あはは、ちゃんと全部教えてあげるって。でも畑当番は特に念入りに教えるよ」
冗談だとわかっているから笑いかければ「桑名」と稲葉が冷たい声で呼ぶ。
「そんな怖い顔しないでよ。ちょっとしたたわむれじゃないか」
クスクスと楽しげに笑い、桑名は稲葉を見つめるが鋭い目つきで稲葉は睨んでいる。
「篭手切の言ってたこと本当みたいだね。新人をずいぶん気に入ってるって。思った以上に世話を焼いていて驚いたよ」
「……新入の不始末は教育係の我の不始末になるからな」
「へぇ、そうなんだ」
意味深なやりとりに首を傾げる。だがそれを問う前に、桑名は立ち上がってしまった。
「じゃ、僕はこれで。ああそうだ、笹貫。稲葉が嫌なら本当に僕を頼ってくれていいからね。教育係を交代するように主には僕から言うから」
「うーん、気遣いありがとう。でも俺、稲葉くんのこと結構好きだよ」
「笹貫」
「あっ、ごめん。つい……」
慌てて謝る。稲葉の顔は怒っていないが、少し困ったような表情をしている。
「……別に構わん。これからしばらく一緒に行動をすることになる。嫌いじゃないのなら我は貴殿に教えることに不服はない」
「そうなんだ」
気にしていないと言外に言われているようで、笹貫はホッとする。
食べかけていたつけあげを口に含み、味わう。えだまめが入っているのか独特の歯ごたえと甘みが口に広がる。
「ねえ、稲葉くん」
「……なんだ」
「なんか、すごく嬉しいって思う。こうやって歓迎されるとさ、俺はここにいてもいい、望まれているんだなって思えてさ」
そう何気なく口にする。嘘偽りのない言葉だが、深く考えないで発言したことだ。
「この本丸の一員になったのだから、いてもいいじゃない。お前はここにいろ」
それは稲葉にとって深く考えないで発言した言葉だったかもしれない。けれど、笹貫は驚き、目を見開く。
「何があっても必ずここに戻ってこい。それが、主の望みだ」
「そっか。そこまで言われたら絶対に帰ってこなきゃいけないね。そんで、俺の顔を見せて主にも稲葉くんにも安心させてあげる」
「我は別に貴殿が帰ってこなくても心配はせんぞ」
「うん、それでいいよ。それがいい。心配はしないにこしたことないし。ただ、稲葉くんも俺もここにいるよーって、毎日ふたりで一緒に顔を見せて主を安心させてあげるの、悪くないでしょ?」
「……好きにするがいい」
そう言って、はじめて稲葉は笑った。目を細めて小さく笑って、その顔になんとも言えない感情が芽生えて、心が暖かくて嬉しいと笹貫は思えたのだ。
なぜ、このときの感情を成長させてしまったのだろうと、出会ったばかりのことを思い返し、ブレスレットを眺める。
みんなが口を揃えるように彼は無愛想で、素っ気なくって、でも常に自分を気にかけてくれた。
ふたりで一緒にいて、主に声をかければ仲が良いと微笑まれ、稲葉が笹貫を気に入っていると噂され、それを稲葉は否定しない。それがくすぐったさもあるが嬉しかった。
それが“恋”と呼べる感情へと膨れ上がり、苦痛を与えるものに変わるなんて笹貫だって思いはしなかった。