慈愛の獣慈愛の獣
白んだ光が差し込んでいる。微粒な埃が光を受けてチカチカと光る中を突き進んでいく。窓から伺える空はまだ藍色だ。
遠くから鳥の囀る声が聞こえてくる。腕に嵌めたロレックスの短針は五を僅かに過ぎた頃。毛足の長い絨毯の上を歩くと、地に足のつかない奇妙な感覚になる。
廊下の最奥にポツンと一つだけ取り付けられた扉の前で足を止めて、指紋認証ロックに指を翳す。開錠されたのを確認してチタン製のドアノブを引くと、中から滑り出した冷気がひんやりと足元を撫でて行った。
中は薄暗く、まだ家主が起きている気配はない。それを確認して足を踏み入れ、内側から鍵をかけた。チャーチのオックスフォードを乱雑に脱ぎ捨てて上がりこむ。日光を好まない家主の部屋はいつも厚手のカーテンが下げられているので、まだ太陽の上がりきっていない早朝ではどんよりと暗闇に沈んでいる。廊下の電気をつけて回りながら、最奥にある寝室の扉に手をかけた。ドアノブを押し込んだまま開扉すれば、ノブ内部の金属が触れ合うことも無いので静かに部屋に入ることができる。ダウンライトをつけて、ダブルサイズのベッドの上にこんもりと聳える山を視認する。侵入者の気配を薄らと感じたのか、シーツが僅かに衣擦れを起こした。
「ハナガキ。」
纏わりつく薄手のシーツを捲り、枕に沈む家主の顔を覗き込んで声をかける。眉間による皺に手を伸ばして揉みこんでやると、むずがるような声を唇の端から零して、短いものの量を携えた睫毛が震えた。
「起きろ、朝だ。」
「…………しおん……」
青い血管が透ける薄い片方の瞼の間から、曙が零れだす。焦点を定めるために瞳孔が震え、己を覗き込む侵入者に気づくと、寝起きのカサついた声で名前を呼んだ。獅音は枕元にあるリモコンに手を伸ばし、ボタンを押し込んでリクライニングベッドを上昇させる。まだ意識が覚醒しきっていない家主は、されるがままに上昇するベッドの上で首を擡げた。
「体起こすぞ。」
「ん……」
家主の背中とベッドの間に抜き取った枕を挟み、上半身を起こす。そこで漸く完全に目覚めたらしい家主が、片目を瞬かせながら棚になっているヘッドボードに置かれたカレンダーを見て日付を確認した。一日一日、日付のマスには赤いペンで斜線が引かれている。『日付を理解できない』家主のための対処だった。
「今日……」
「一月の二十六日。年は。」
「……にせん……」
「二〇一七年。」
獅音の言葉に家主は溜息をついて、「ごめん」と小さな声で零した。それには応えずに、垂れさがった両腕の、結ばれた袖を解く。大きく首元が開いた寝間着のシャツを抜いて、顕になった上半身を見た。夥しい傷跡が残る体だ。ぽっかりと浮かぶ何発もの銃創が、家主が普通の世界に生きていないことを証明している。ダウンライトの暖光の中でぼんやりと存在しているその体は歪だ。
脱がせたシャツを放り、獅音は家主の体に手を伸ばす。右肩の、つるりと丸まった表面を指の先で引っ掻いた。
ベッド脇に置かれたテーブルの上にある、人間の腕を模った機械を手に取る。光を受けて白い壁に映る家主の影には、本来あるべきものがなかった。
家主の左肩に、手に取ったそれを添わせる。つるりとした断面に、微量な筋電位を敏感に察知するセンサーを宛がって、繋がったハーネスを右半身まで伸ばして接続する。
機械製の左腕は、獅音がセンサーの位置を調節すると、すぐに動き出した。肘を曲げて指先の関節一つ一つをバラバラに動かし、動作を確認した家主は、ぼんやりと機械の指先を見つめる。それを横目に右肩にも同じように装着を済ませ、問題なく動くのを確認した獅音は放り投げたシャツを拾い上げて頭から被せる。差し出された手を掴んで、重い体を引き上げた。
「朝飯、パンか白米。」
「あー……」
「食わねェはナシ。」
「……パン半分で。」
ベッドから抜け出した家主は獅音の腕に手を回して部屋を出る。壁を片手で伝いながらダイニングへ向かい、一足先に椅子に腰かけて獅音を待った。キッチンに入った獅音が三枚の食パンをオーブントースターにセットしてからバリスタでコーヒーを入れる様子を、机に伏せながら見つめる。
「ねぇ、俺もコーヒー……」
「お前は牛乳。ホットにしてやるから。」
素っ気なくされる却下に、家主は唇を尖らせて抗議のために足をぶらぶらと揺らした。
「カフェイン絶対禁止って言われただろーが。」
「ケチ……どうせ何飲んだって同じなのに。」
「だったら牛乳だったっていいだろ。」
電子レンジに牛乳を注いだマグカップを入れた獅音は、焼き上がったトーストを二枚と一枚ずつ皿に分け、湯気の立つコーヒーのカップを机に運ぶ。電子レンジが鳴るのを待つためにキッチンに戻った獅音が背を向けているのを見計らって、家主は獅音の分のコーヒーに手を伸ばした。
「オイ。見えてんぞ。」
「……何にもしてませーん。」
勘弁、と機械の両手を掲げてハンズアップをする家主の前に温まったミルクを置き、向かい側の椅子に獅音も腰を掛ける。差し出された一枚のトーストを受け取って三割と七割の比率に千切り、七割の片方を獅音の皿に戻した。眉を顰めた獅音を知ってか知らずか、ふかふかのそれに小さく歯型をつける。一度二度咀嚼して、途端に顔の左半分だけを器用に歪めた家主に獅音はトーストを齧りながら溜息をついた。
「……それだけは食えよ。」
「ンン……」
不満げな声を上げた家主は押し込むようにトーストを詰め込み、まだ色の濃い湯気を立たせるホットミルクを飲み干した。三分半温めたそれは、熱伝導のいい陶器のマグカップを触れないほどに熱している。最も、肉の両腕を失った家主には関係のないことだけれど。獅音ですら未だに口をつけられないほど温まったコーヒーよりも高温のそれを一気に流し込んだ家主の表情が変わることはない。
「今日、何があったっけ。」
「十三時に新薬の取引、二十時に八王子の第七倉庫。……八王子の方は粗方終わらせてる。必要なことだけ聞いて、沈めたら終わりだ。」
食事を終えて手持ち無沙汰になった家主が、冷たい金属の指先で顔の左半分、焼け爛れた皮膚を撫でる。溶けてくっついた左の瞼から右と同じ灰色がかった青い眼球は見えない。あまり飾り気のない凡庸な顔には、左半分を大半覆ったケロイドと、右頬から鼻の少し横まで走った稲妻のような深い切り傷の痕が呪いのように残っている。どちらも『仕事』で負ったもの。何か考えているときの無意識な仕草に、獅音は家主の残した分のトーストを食みながら口を開くのを待った。
「あのー……あそこ、何だっけ、ほら、こないだの……青野だっけ、」
「青山な。」
「そうそこ、あれ……切っていいよ。探られてるみたいだし、余計なことされると、困る。」
「土地は? だいぶ占めたろ。増えた管轄、どうすンだよ。」
「必要ないなら別に、切り離してもいい。痛手はないし、何よりあそこ、多分だけど表と繋がりがある。ガサ対策で周り洗うのも面倒だし。」
家主の動向に無言を返した獅音は、ポケットからスマートフォンを取り出して次に立場のある部下に指示を投げた。数秒でつく既読の表示と短い了承の返事に、満足して液晶を伏せて食卓の上に置く。
「”視えた”からか?」
「いや、前からちょっと。吸収もしなくていい。持て余すから。」
つまり完全に切れ、とのお達しに、仕事が増えるなァと四白眼をただでさえ幅のないのにも細めた獅音は、残りのトーストを食べ終えて、口をつけても問題がない温度まで冷めたコーヒーを飲み干し、立ち上がった。皿を片付けて、机に手を付きながら部屋に戻ろうとする家主に声をかけて引き留める。
「オイ、勝手に着替えるなよ。トンチキな格好されたら示しつかねェ。」
「シャツとジャケットとズボンだけでしょ? 無地ばっかりじゃん、なりようがないよ。」
「ハ、ウスラバカ。ボタンもひとりじゃ満足に留められねぇクセに。」
獅音の煽りに顔の左半分だけを顰めた家主は渋々といった風に聞き入れて、リビングの壁に背を預けながら獅音が皿とマグカップを洗い終えるのを待った。
ラックに洗ったものたちを立てかけ、手を拭いた獅音が家主の横に立つと、くの字に差し出された腕に自然の摂理のように掴まった家主が歩き出す。
朝食の時間を終えて段々と昇ってきた太陽の光が分厚い二重のカーテンの隙間から滑り込んで、暗かった部屋をうっすらと明るくしていた。
部屋に戻り、家主をベッドに腰かけさせて、クローゼットを開く。ハンガーにかけられた糊付けのシャツと少し厚みを持ったインナー、ロロピアーナのオーダーメイドを取り出す獅音を見ていた家主が、うげ、と奇妙な声を上げた。
「ねェ、ソレやだよ。」
「ア? 何がだよ。」
「高いヤツじゃん、汚れたら勿体ないのに。倉庫の仕事、入ってるんでしょ。」
「ウダウダ言うな。Tシャツとスウェットで行くつもりか?」
「別にそれでもいいけど……。」
「良くねェだろが。いいから黙って着られとけよ。どうせクリーニングにゃ出すンだ。」
「着られるからイヤなんだよ……」
ぶつくさと文句を零す家主は問答無用で持ってこられた一式を見て漸く諦めたようで、立ち上がって、起きる時には獅音に脱がされていた寝間着のTシャツを、今度は自分の手で脱いだ。
ハンガーを引き抜いて前を広げる獅音に応えるように後ろを向いた家主の背中には、黒い龍が昇っている。
中心に位置する卍の文字をぐるりと囲むようにしなやかな躰をくねらせ、ハムストリングスまで絡みつくような尾を伸ばした龍の鈎爪には太陰太極図を模した宝玉が掴まれており、後ろ腰には梵天を表した「ボラ」の梵字が刻まれていた。
全部が全部意味を持っているようだが、中国神話なのか仏教なのか、ちぐはぐなイメージのそれに獅音が理解を寄せたことはなかった。ただ分かるのは、それが今まで家主と関わりのあった過去の遺物を体現していることだが、梵字の意味だけは分からない。とは言えわざわざ意味を聞いたことはなかったし、意外と執念深いンだな、と思うだけで、それ以上に考えたことは無かった。
頭からインナーを被せ、シャツに腕を通す。今度は前を向いた家主の首元からボタンを留めて、スウェットは自身で脱がせトラウザーズを履いたのを確認する。クローゼットの取っ手にかけたベルトを手に取って通し、機械の腕では留めることが困難なバックルを留め、ジャケットを着せるとベッドボードの棚に置かれた瑠璃のスウィブル式カフスを取って、袖に食い込ませた。襟元を整えて、項を隠すように伸びた癖のある黒髪を引き出す。
そうすれば、自然とスイッチが切り替わるように家主の纏うオーラは変わる。
「窮屈。」
「我慢しろ。」
溜息をついた家主は少しだけ襟ぐりを指先で引いて寛げ、部屋の隅に置かれたドレッサーに歩み寄ってスツールに腰を掛けると、引き出しを開けてグレーの手袋と、黒いレザーで造られたアイバンドを手に取った。
顔の左半分を覆うケロイドにパッドの部分を当て、後頭部に回したベルトの大ぶりなスナップボタンを嵌め込む。鏡で様子を確認するのを、後ろに立った獅音は黙って見ていた。
顔半分の八割を覆う広範囲な酷い火傷は完全には隠しきれていないが、溶けてくっついた左の瞼が露出していないだけでも幾分かマシになる。後頭部の髪を引き出して適度にベルト部分に被せ、パッドの位置を調整して、最後に家主はグレーの手袋を剥き出しの機械の両手に嵌めた。筋電義手の両手を隠すためのもの。黒の割合が少し多いグレーのレザーが、鈍く光を受けている。鏡に映りこむ自身の姿を見つめて、準備を整えた家主は立ち上がった。
「……ごめん、待たせた。」
曖昧な光量の部屋の中でぼんやりと浮かび上がる歪なその姿を見て、獅音はすぅっと視線を鋭利に細める。差し出した手に重ねられたグレーの手袋を履いたそれを握りこんで、無音の部屋から這い出た。手袋の向こう側には、柔らかさも温かさもない。
表と薄い膜一枚隔てた向こう。獅音にとっては「こちら側」の世界だ。
警察も内情を把握しきれていない、未曽有の犯罪組織。
どんな事件にも絡んでいると噂されるその組織に、名前はない。
何一つ確かな情報はなく、彗星のように現れたそれは約十年という短期間で裏の世界を駆け上がった。
組織のトップは。構成員は。探る者は次々湧いて出たが、そのいずれもがパッタリと行方を消しているので、誰一人として真実を知る者はいなかった。
トップはきっと老獪きわまる男だ。いや、手練れの美しい女かもしれない。本土から逃げたチャイニーズマフィアの可能性は。元警察官では。
好き勝手な考察のどれもに、獅音は鼻で笑うのが常だった。
手練れの美しい女でも、チャイニーズマフィアでも、元警察官でもない。最初の一つは割と掠っているかもしれないが、老獪しているかと考えると断言はできないので、結局これも妄言に過ぎない。
名前のない犯罪組織。そのトップに立つのは、どの人間の考察にも当てはまらない平凡な男だ。
花垣武道。
それが、この組織の頂点に立つ男の名前だった。
獅音よりも四つ年下。頭が切れるわけでも、特筆すべき強さがあるわけでもない。
何故そんな男がこの世界で息をしていられるか。
それは花垣武道に「時を遡る力」と「未来を視る力」があるからだった。
最初、獅音がそれを聞いた時、何をバカな、と笑い飛ばした記憶は今でも残っている。
それに花垣は予想通りだったという顔をして、遠くない未来で起きるある出来事の話をした。
何てことない、競馬のレース結果の話。どんな馬が一位を切るか。獅音は競馬に明るくないし興味もなかったが、ある程度の戦績から大体予想はできるだろと笑い飛ばしたのに対し、花垣は一着の馬だけを言い当てるのではなく、その後に続く十七頭の順位も一つの間違いなく書き出して見せた。獅音でも何となく知っている、百戦錬磨の名馬が最下位になること。その理由が落馬であることも全て、花垣は事細かに伝えた。
果たして二週間後のレースをテレビで見ていた獅音は、手に持っていたコーラの缶を取り落として部屋のラグを汚すことになった。
二週間前に右肩上がりの字で書かれたレース結果。テレビに映し出されている結果と紙面のそれに一寸の違いもない。
最初は先頭を張っていた名馬の騎手が落馬で負傷し運ばれていく映像を見て思わず青褪めた獅音の横、花垣は薄い笑みで「当たったでしょ。」とその時はまだ正常に繋がっていた肉の手で呑気にピースなんかをしていた。
次に、花垣は今まで繰り返してきた世界の話をした。
荒唐無稽な話。けれども節々の辻褄はあっていた。獅音が嘗て王と崇めて付き従っていた男の過去や、その周りで起きた凄惨な出来事の数々。今とは違う道を進んだ故の結末のこと。何もかもが突飛な話だったが、獅音の中で妙な納得がことりと音を立てた。
なぜ目の前の男が嘗ては総長代理なんて重役の席に着けていたのか。頭の切れはお世辞にも良い方とは言えないのに、ここぞという時に説得感のある行動や提案を起こせたのはなぜか。
花垣が話して聞かせたそれらは酷いものばかりで、最後の垣根がこの世界なのだとも言った。まさか総長の座に立っていたあの男もグルだとは思わなかったが、確かによく二人で神妙な顔を突き合わせていたり、かと思えば何かを懐かしむような表情をしていることも多かった気がする。
消化不良を起こしていたのも確かだが、半ば無理やり飲み下した。そうでないと説明のつかないと思うようなことも無かったわけではないから。
とは言え、いつでも自由に未来を視られるわけではないらしいし、タイムリープの力に至っては今所持しているのかすらも不明らしい。
未来視について、多くは突然映し出されるようで、少し努力をすれば意の未来を覗き見できる程度だという。いつからか取り上げられるようになった『対価』もそれに伴って大きくなると、止まらない鼻血を抑えながら花垣は言った。
超能力もタダではないことを獅音が知ったのはその時だった。未来を知るその能力は、使う時間、視えるものの正確さや鮮明さのレベルが上がるのに連れて、花垣の体に圧し掛かる負荷も大きくなっていくようだった。
この十二年間、獅音が行動を共にするようになってから花垣が未来視をした時間の最長は約七分で、その際には鼻からの出血だけではとどまらず、止まらない吐血と目から涙のように大量の出血が伴ったことで、あわや輸血かと言うところまで踏み込むこともあった。
花垣の体は所々が破綻していて、介助なしではまともな生活ができない。獅音がタイムリープと未来視、それに伴う多大な負荷を知ってからは、獅音がいない状況下での自発的な力の使用は禁止させた。突然起こる未来視は防ぎようがないが、その時は必ず報告することも約束づけた。花垣はそれに不満そうな顔をしていたが、組織を潰す気かと詰めた獅音に渋々頷いた。
花垣の持つ異常性はそれだけではない。確かに時を遡ることができたり未来を視られることが強みの大半でもあるが、それだけでは裏で伸し上がることは難しい。花垣は他にもいくつか異常を孕んでいた。
それは、暴力的なまでのヒーロー性と、慈愛の精神。本当は未来視だけではなく洗脳の能力も持っているのではないかというほど、説得力のある正義感も持っていた。
獅音や花垣が息をするのは裏の世界だ。
法律も常識も通じない、修羅の道。邪魔になるのなら人は殺すし、裏切りも許されない。血と鉛で舗装されたそこで、花垣の正義感は異常だった。やっていることは泥濘を踏み荒らして蛆を潰すようなことでも、花垣の前では何もかも正しいと思い込んでしまう、そんな危険なバイアス。
花垣はその見た目や物腰から凡夫だと侮られやすい。
組織の大きさに釣りあげられて加わった権力と金に目が眩んだ構成員が寝首を掻きに来ることも珍しくはなかった。そんな時花垣は命乞いをするでも交換条件を出すでもなく、柔らかく片目で微笑んで問う。
「どうしたい?」そう問われた人間は大体が首領の座を狙っていることや莫大な財産を望んでいることを打ち明ける。それを聞いた花垣は頷いて、「そっか。いいよ。」と軽い了承を投げて寄越すので、相手は当然戸惑って疑問を口にする。それに対して不思議そうな顔をして、花垣は言うのだ。
「あなたが幸せになれるなら、それが一番いいと思う。」
その異常性が発露するのを見て、誰も彼もが完全に恐れを生す。持っていたナイフや爆薬、拳銃を取り落として震える相手に近づいて、花垣は緩やかにとどめを刺す。
「俺でよければ、あなたが幸せになる手伝いをしたいな。」
それで、終わり。あとは勝手に感化された相手が花垣の両手を握り締めてさめざめ泣きながら謝罪を繰り返すだけ。次の日には熱の浮かぶ目で花垣を見つめている。獅音がそれを見て居心地の悪さに舌打ちをするのが一連の流れだった。
今も、そうだ。
決して倉庫内の埃臭さだけが理由ではない不快感に、獅音は顔を歪めた。ひくひくと肩を跳ねさせながら必死に弁明をする『裏切り者』の男を、花垣は緩い目で見ている。
子供を良い大学に行かせたかった。妻に不自由のない暮らしをさせたかった。
耳障りの良い裏切りの理由を並べてはいるが、その実それら全てが真っ赤な嘘であるのを獅音は知っている。確かに男に妻と子供はいるが、数年前にこの男自身からの苛烈なDVから逃げてシェルターに入っているのは調査済みであるし、男が手を付けた金の行き先はギャンブルか色街であるのも把握している。
よくもマァこの期に及んで、と薄くため息をつく。花垣を大した脅威だと思っていないのだ。自身が所属する組織のトップであることも上辺の理解で留めている。そもそも花垣が直接構成員と関わることも極々稀なので仕方がないことではあるものの、顔を知らないわけではないはずだ。
「そっか、大変だったんですね。良いお父さんだなぁ。」
しみじみと頷く花垣に、男の目の色が段々と変わる。「押せば行ける」と勘付いた表情だ。思わず舌打ちを漏らした獅音を、花垣が流した視線だけで宥めた。
「それじゃ、あなたのお望みを聞き受けましょう。お子さんには良い大学の席と必要費を全てこちらで用意して、奥さんとお子さんの二人に今後の人生困らない程度の援助をします。それでいいですか?」
ぴたりと、男の動きが止まる。花垣が笑みを浮かべたままで首を傾げた。
「良いお父さんを持てて幸せだと思いますよ。自分たちのために命まで張ってくれて。相手が家族だったってなかなかできることじゃない。」
感動したように目を細める花垣に、男が言い淀んだ。
アーア、失敗。
獅音は手元で満タンまで弾が装填された銃を弄ぶ。男はきっと、そんな家族思いの自分だから情けをかけてくれる、とでも思ったのだろう。親指でセーフティを解除する獅音を見て、男の顔が限界まで青褪めた。
「二人の人生があなた一人の命で賄える。良い選択だと思います。」
花垣の視線がこちらに向く。それが合図だ。男が汚く泣き叫ぶ。
「情けはかけてもらったろ。良かったなァ。」
縛られた体をがむしゃらに動かして逃げを図るその姿は醜い芋虫のようだった。
確かに花垣は情けをかけた。男ではなく、家族に。全て嘘八百であるのも知っていたのだろう。
男の股座が濡れていく。それを無心で見ながら撃鉄を上げて男の額に照準を合わせた。
「いいよ、獅音。」
花垣の一声で、トリガーを引いた。サイレンサーのつけられた二十二口径が鳴く。最大限まで抑えられた銃声と同時、男の体が跳ねた。続けて二発撃ちこむ。完全に体が弛緩したのを確認して隣で様子を見ていた花垣を振り向く。
「遠回しなンだよ。さっさと始末しちまえ。必要なコトは吐かせたっつったろ。その場凌ぎのデタラメだって分かってたクセによ。」
「もし万が一本当だったらと思って。」
「本当だったら生かしてたンか?」
「さぁどうだろ。結局デタラメだったしなぁ。」
手元で処理班を呼びつけるメッセージを送りながら、獅音は食えない態度に舌を打った。花垣が事切れた男の回りをうろうろと回りながら、脳漿を垂れ流している頭蓋に手を伸ばすのに声をかける。
「オイ、汚ェ。触ンな。」
「獅音、奥さんと子供の居場所、分かる?」
「ア? ……調べは着いてる。それが何だよ。」
「大学の席と諸々の援助、頼んでいいかな。俺のトコから引っ張っていいから。」
花垣の発言に一小節分ほど放心した獅音は、深い溜息を漏らしながら半目で花垣を見た。げんなり顔の獅音に対し、花垣はそれを柔らかく弛ませた目で促すように眼球を動かす。
「バカじゃねぇの、オマエ。ラットの身内だぞ。慈善事業でもナシ、そこまで手ェ入れる必要ねェだろ。」
「でも約束しちゃったからさ。ネ、お願い。」
緩く下げられた眦と合わせられる両手に、獅音はぎっと眉を寄せてうざったらしく項にかかる襟足を払いのけながら不本意そうに「金額は」と問い質した。
「適当に……二千万くらいあれば暫く困らないかな。また入用みたいだったらその都度足せばいい。」
「オマエ、誰にでも同じコトする気か? ウチがどういう集まりか分かってンのかよ。トップはオマエだぞ。見境ねェお恵みヤメロ。」
「ゴメン、これっきりにする。さっ、帰ろ! 俺酒飲みたい!」
合わせた両手を叩いて鳴らした花垣が獅音の腕を引いた。手に持っていたスマートフォンと二十二口径をしまい、体幹もままならない花垣の体に支柱のように寄り添いながら、全てが終わった倉庫から脱する。
後は先程連絡を投げた処理班が到着して中にある肉塊を片付ければ仕事は終わりだ。花垣の頭の中は既にどの酒を飲むのかの算段でいっぱいらしい。月の光を受けた青白い顔は笑みで綻んでいる。
さっきまで何千年も息をしている得体の知れない大人のような表情をしていたくせに、今獅音に向けられるそれは十二年前と変わっていない屈託ない幼稚なものだった。
花垣武道が異常とされる所以は、こういうところだ。
誰が最初に口にしたのかは知るところではない。
「うつろ」だとか、「ジョン・ドゥ」だとか、そこかしこで好き勝手に呼称されているのをそれとなく伝えた時、花垣は「面白いね。」と呑気にきゃらきゃら笑っていた。
とは言え、獅音も所々で不便なのは感じていたため、組織が発足して暫くに訊ねたことがある。
組織に名前は付けないのか。
獅音の問いに花垣は薄く笑って、「付けないよ。」と言った。柔らかな声色ではあったものの、明確な意思も含んでいるのが獅音にも分かった。
「名前を付けたら形になっちゃうでしょ。だから、付けない。遺したくないんだ、誰の記憶にも。」
「ここまでデカくしておいて、そりゃ無理だろ。」
「名前って、色んなもののきっかけになるんだよ。名前がないだけでも記憶には残りづらい。マァ確かに不便なこともあるけど……それは今だけだし、ね。」
それ以上話すことは無いとでもいうように机に突っ伏した彼を見て、獅音は納得をした、フリをしていた。
「好きに呼ばせておけばいいよ。」
花垣がそう言うので、獅音はそれきり組織の名前については触れないことにした。諦めの悪さならよく知っているし、特段せっついて付けさせるものでもないと思ったから。
にしてもまぁ、付けられる呼称が軒並み厨二病めいているな、と伸ばし始めた襟足をクルクルと弄りながら少しだけ面白く思った。
名前のない巨大犯罪組織。トップは不明。何ともまぁ都市伝説のような存在。気まぐれに語られて、きっと数年経てば忘れられていく。
花垣は多分、それこそを望んでいるのだろう。
全員が全員、綺麗さっぱり忘れるなんてこと、ありはしないけど。
少し前まではあんなにも名乗ることに固執していたはずの獅音が今身を置くのは名前のない組織だなんて、なにかの皮肉だろうか。
きっと嘗ての王に話して聞かせれば、鼻で笑うくらいはしてくれるかもしれないと思った。
「……天竺が恋しい?」
花垣の青く沈んだ目が静かに獅音を見ている。この時はまだ両目が揃っていた。
獅音はそれに是も否も返さない。
普段は何事にも鈍感な癖をして、こういう時にだけ目敏く何かを感じ取る花垣のことが、この時はまだ苦手だった。
「恋しいも何も、オレァ天竺を捨てたワケじゃねェ。」
そうとだけ返した先の花垣が嬉しそうに目を細めて笑ったから、これでいいと思ったのを覚えている。
「何か思い出してる?」
カラ、とアイスボールが薄いグラスに触れ合って立てた音で現実に戻る。あの時と同じ温度の、けれど片方欠けた目が、グラスに瓶を傾けたままの獅音を覗き込んでいた。もう少しで溢れそうになっていたのに気付いて、取り繕うようにしながら栓を締める。
「……お前が、組織に名前は付けねぇって言った時ンこと。」
「んー……?えっと…………」
「イイ。何となく思い出しただけだ。意味も何もない。」
記憶の箱を探ろうとしている花垣に縁まで満たされたグラスを押し付ける。どうせ花垣が思い出せるとは思ってもいないので、早々に切り上げた。掘り下げたかったわけでもない。
花垣の記憶能力は、時を経ていくごとに低くなっている。重要なことはかろうじて努力しつつ覚えているようだが、それ以外は疎らだ。三日前の会話を覚えていないのに、かと思えば獅音でさえ記憶にない何年も前のことを突然思い出したように話してくることもある。
ロックのウィスキーを舐めながら獅音を伺う花垣の前に、ありあわせのもので作ったつまみを置く。花垣の眉がキュッと中心に寄った。
「酒だけ腹に入れるな。飯も食ってねェンだからせめてそれは食え。」
「んえ~……」
少し揺らせば零れるほどに注がれていたはずのウイスキーは、既に半分以下になっている。顔はもう十分という程に上気しているが、それでも花垣はグラスを手放さない。咎めるような視線を向ける獅音に、渋々と言ったように目の前の皿へ手を伸ばした。
「なに、これ。」
「生ハムと桃とモッツァレラチーズ。」
「え、合うの?生ハムとチーズは分かるけど、桃ってさァ……俺酢豚のパインとか許せないタイプなんだけど……」
「オレが食いたくて作ったヤツだからな。オマエの好みとか知らねーよ。」
「ンン……まぁいいや、どうせ分かんないし。」
いくつか口に放り込んで咀嚼した後、流し込むようにまたグラスを傾ける。空になったグラスを持って何か言いたげにこちらを見るのを、獅音は無視して皿にフォークを伸ばす。
「それで終わりだ。」
「もう一杯だけ!」
「明日朝から詰まってンだよ。オマエが青山切れっつったから処理進めてンだぞ。」
██※OD・バッドトリップ描写██
部屋に入った瞬間から漂う独特の臭いに、顔を顰める。床には倉庫から掻っ攫って来たのであろうありとあらゆる種類の薬が、空っぽのケースだけを残して無惨に落ちている。
予想を上回る惨状だ。倒せるものは倒せるだけ倒されているし、収納していたものは全て引きずり出されている。
耳をすませるとバスルームからシャワーの流水音が聞こえてくるのに気がついて、ガシガシと項に爪を立てながら獅音は薄く息を吐いた。
割れたシリンジの破片と注射針を避けながらそちらに向かうと、浴室に続く開け放たれた扉の先に、着衣のままで溜めっぱなしの浴槽に入って膝を抱えている花垣が見えた。
冷水のままのシャワーを頭から被りながら、寒さからなのか下唇を震わせて濡れた壁を見つめている。
獅音は短く舌を打ちながらソックスを脱ぎ捨てて浴室に足を踏み入れ、シャワーの水を止めた。
「おいハナガキ」
獅音の咎めを含んだ呼び掛けに、花垣のどろんと融けた目がこちらを向く。
過剰摂取で血の巡りが加速した所為か、花垣の人中には今も絶えず鼻血が流れていた。薄まった血液が浴槽に溜まった水へ混ざる。
「んぁー…………あー、? シオンー?」
力の抜けたような笑みを浮かべた花垣が義手を引きずりあげて縁に掛ける。
首筋を見れば、相当乱雑に太い血管を狙うだけ狙って針を刺したのか、突き破られたような注射痕からぷくりと赤黒い血液が真珠のように浮かんでいる。それもひとつでは無い。
鬱血して青黒く痣になっているのを見て思わず顔を顰めると、花垣が口端を上げて首を傾げた。
「んはは、何その顔ー? 変なの!」
「テメェ、義手つけっぱで……センサーイカれたらどうすんだ。」
揶揄う余裕はあるらしい。思ったよりも深刻じゃ無さそうだな、と呆れたその折、花垣の様子が急変した。
笑みは貼り付けたままに、けれど嫌悪感を滲ませたような表情で獅音を見上げている。
「なにー? ……なんでそんな顔すんの? なに、その顔、」
「……おい、」
雲行きの怪しくなる空気に、ひとまず浴槽から引きずりあげようと伸ばした獅音の手が弾かれた。
「……やめろよ、それ……なんでそんな顔すんの? なぁなんで? やめろよ、そんな目で見んなって、なぁ、ヤダそれ、」
ガタガタと震える体を守るように縮こませて髪を掻き乱しながら頭を抱える花垣が、近づこうとする獅音から逃げようと狭い浴槽の中で後ずさる。
「やだって言ってンじゃん、こっち見んな、見んな!」
「っハナガキ!」
「俺だって好きでこうなったわけじゃないよ!」
悲痛の滲んだ叫びが浴室に反響してぐわんと音の波を放つ。
義手の両手首を捕まえると、花垣が肩で息をしながらのろのろと顔を上げた。
拡張する瞳孔、痙攣する虹彩が獅音の姿を捉えて少しだけ収縮する。
震えていた唇が歪な笑みの形になって、眉が緩く下げられるのを見て、花垣が獅音のことを認識していないのに気づいた。
花垣は、獅音にこんな表情で笑ったことは無い。
「…………あ、あっ? あ、ま、マイキーくんっ? あ、ちがうよ、そうじゃなくて、」
何かを必死に取り繕おうと縺れた舌を動かす花垣の体に触れる。浴槽の中身は水だ。加えて冷水を頭から被っていたせいで、花垣の体は冷えきっている。
「……ハナガキ、もういい、」
「タケミっちって呼んでよ! …………マイキーくん、俺、もういらない……?」
冷水によってさらに冷たさを増した金属の手が、獅音の目尻に触れた。懇願するような滲んだ瞳が、正気では無いくせに真っ直ぐに獅音を射抜いて、花垣の言葉とその目線に息を詰まらせる。
「…………た、」
「俺、おれ……俺、嬉しかったんだ…………マイキーくん、が、たけみっちって、呼んでくれるの…………」
溶けて癒着した左瞼から涙が流れているのに、「涙は流せるのか」と他人事のような気分でそれを見つめた。
引き絞るような声がぽつぽつと浴槽に落ちて滲んでいく。
『マイキーくん』も『タケミっち』も、久しく聞いていなかった名詞だ。
こんな音で、こんなイントネーションだっただろうか。
「……マイキーくんが、俺のこと、たけみっちーって、呼んでくれた、から、俺……たけみっちに、なれたんだ……マイキーくんが、俺のこと、ヒーローにしてくれる…………」
獅音の頬に触れていた義手が離れて、その手は花垣自身の胸の中心をそっと撫でた。
何度も何度も、忘れてはいけない何かがあるみたいに。
「俺……俺まだ、まだがんばれる、よ……マイキーくん、が……みんなが……タケミっちって、呼んでくれるから…………」
何かが、どんどんと外側に引きずり出される。
今までずっと詰まっていた何か。
花垣の喉からずるずると引きずり出すように、解けないほど硬く複雑に絡まったものが、獅音の前に曝け出されている。
「う、腕……腕、なくなっちゃった、けど、まだ、まだ…………まだ、顔も体も、まだ、つかえるよ…………こんなの、なんともない…………」
「みんなが……タケミッちって、呼んでくれるなら……がんばれる、から、だから……」
「だから…………す、すて、……棄てないで…………」