先代の青龍が倒れ、新たな青龍の誕生はあっという間だった。そうして多くの付き人に囲まれ目の前に現れたのはまだ幼い龍。
人間で言うところ、齢十やそこらの幼い命。彼が立派な〝青龍〟となり、その座に正式に就くまでのお世話係を託された白虎に拒否権はない。無論、拒否する理由もないのだが。
一見、人の子となんら変わらない子供。ただ、少しだけ感情表現が苦手な不器用な一面もあった。
そして、子供というのは突拍子もない。
「散歩へいってまいります」
朝の挨拶と共に彼はそう言った。容易く許可を与えてしまいそうなほどごく自然に吐き出された言葉に、白虎は一度言葉を詰まらせ瞠目する。何の前触れもない発言に驚くなという方が難しい話。
青龍の発言を頭の中で反芻し、そしてその意味を汲み取ろうとした。されど、辿り着く答えは単純明快。
「また急ですね。……外へ出たいのですか?」
「はい」
基本彼は大人しく素直だ。物分かりが良く、ともに過ごすにつれて芽生えた、多少の親馬鹿フィルターこそあれど、本当に手の掛からない良い子だった。その反面、一度やると決めたら意思を曲げない頑固さもある。きっとここで駄目だと言い放ったとて彼はふらっと一人でどこかへ行ってしまうだろう。
「……分かりました。では身支度をするので暫しそこでお待ちなさい」
「? 白虎はついて来なくていいです」
「えっ」
どうしてついてくるのか。心底疑問だとばかりの表情で告げられ白虎の口からは少し情けない声が出てしまった。我が子の巣立ちの瞬間を今まさに味わったようなそんな感覚。
「僕、ひとりで大丈夫です。立派な青龍なので」
「〜……それもそうですけどぉ……! せめて付き人を、」
「いりません」
やはり頑固。白虎は悩ましげに自らの顔を片手で覆った。彼はこの先正式に青龍の座につくことは確定している。だからこそ、何事もなく儀式が行われるその日まで丁重に扱わなくてはいけない。体にかすり傷のひとつでも付けようものなら、二国の戦争は免れない。行方が分からなくなるなんて言語道断。それほどに彼は重大な存在であり、逆もまた然り。同等の存在でありながら、白虎の責任は重いのだ。
最悪、彼の後ろをついて歩くしかない。
「そんなに一緒に行きたいんですか」
「……え?」
「仕方ないですね、白虎は。特別に同行を許可します」
◇◆◇
「さて、支度は済みましたか、青龍」
「ん」
「いいですか。私がいるから、特別に外出が認められるのであって、一人で何処か遠くへ行くことは許しません。それから、人の多い場所へはまだいけません」
「……なんで?」
「あなたの正式な継承とお披露目がまだ済んでいないからです。青龍の存在は薄々知られているとは思いますが。それはそれ、これはこれ」
あからさまに不服そうな青龍を宥め、屋敷を出れば先程までどんよりと灰色が覆っていた空が眩しいほどに青く染められていた。まるで彼の外出を歓迎するように。
「傘は持ちました?」
「持ってます」
「ツノと尻尾は〜……まあ、いいか」
幼い彼は、まだ上手く神力をコントロール出来ない。故に些細な感情の揺れで本来の姿に近い姿へと変わってしまう。まだ人のかたちを保てているだけ上出来だ。これが今回、民が多く集まる場所への外出を禁止した理由のひとつでもある。
表情変化は乏しいが、彼自身より彼の尾は素直なもので、青空の下に立った途端、先程の不機嫌さは何処へやら。ゆらゆらと揺れた龍の尾が彼の感情を語っていた。
「わかりました。遠くへは行きません。でも、歩く場所は僕が決めます」
そう言って彼は、返事を聞くより先に足軽に歩みを進めた。
普段、閉鎖的な屋敷の中で過ごす彼にとって散歩はいい息抜きになるのかもしれない。喜色を滲ませる青龍の後ろ姿を見て、白虎は密かに口もとを緩めた。
小さな歩幅で、大きな一歩。一切振り返ることのない彼は、心底散歩を楽しんでいるようだった。傘を肩に担いだまま、新鮮な空気を取り入れるように深呼吸をしている。
白虎のもとへ初めて訪れた時より少しだけ伸びた背丈。それでもまだまだ小さなその背中に、一国を守るための力と責任が重くのしかかっている。しかし、それを感じさせないぴんと伸びた背筋は、小さいながらも逞しさすら感じた。きっと彼はもっと強くなる。
「……あ」
我が子を微笑ましく見守るように後ろをついて歩いていた白虎の口から、思わず短な母音が零れる。はらりと眼前に舞ったのは淡い桃色の花弁。
「青龍」
反射的に呼び掛けるが、景色に夢中になっている少年は歩みを止めることなくぐんぐんと前へ進んでいく。
こころなしかペースも速くなっている。
彼の通る道に、鮮やかな花々が咲き乱れていた。そして風に乗ってはなびらが舞う。不思議な光景ではあるが、白虎はやはり、と想像していた展開に再度額をおさえた。彼を民の前に出すことが出来ないもうひとつの理由。
当の本人はまるで気にもとめていない。はたまた、気付いていないのか。再度呼び掛けたとて彼は止まらない。白虎は慌てて道に敷かれた花たちを拾い集め彼の後を追う。秋桜、桜、紫陽花。季節も種類も違う、色とりどりの花を抱えながら、悠々と闊歩する小さな龍の背中をただただ追う。
「青龍〜……」
もちろん返事はない。小さく溜め息を吐き、腕の中にある花へ視線を落とす。
青龍が咲かせた花がこんなにも。そこらに生えているただ綺麗なだけの花ではない。何ものにも代え難い価値のある花だ。こんな姿が民の目に入ればどうなることやら。ご利益欲しさに人の波が押し寄せるに違いない。この花は国宝と言っても過言ではない。しかし、だ。
「青龍、嬉しいのは分かりますが、少しは落ち着いてくれませんか」
「なんで?」
薄く溶かしたふたつの翡翠がようやく白虎を見た。それでも尚、花を撒き散らしながら、歩みも止めずに。
「見て分かりませんか」
「……花?」
「ええ、そうです」
「白虎が拾ってくれるからいい」
「そうじゃなくって……!」
ようやく振り向いたかと思えば、青龍はまた、軽快に歩を進めた。様々な花の香りが鼻腔を擽る。
拾っては追いかけ、拾っては追いかけ。白虎の心情など知る由もなく。立派な尾はゆらりゆらり上機嫌に揺れていた。
「ああもう……!」
これ以上はまずい。一度花を置いてから小さな肩を掴む。驚きにぴん、と跳ねた尻尾を横目に、そのまま体を反転させた。
「……危ないから……ッ、マジで…………!」
「……?」
青龍の頭部に乗った花弁を軽く払い、深く溜め息を吐く。
綺麗な花には毒がある、なんて言葉を耳にしたことがあるが、そんな比喩表現は可愛いもの。この花にはトゲなどひとつもない。代わりあるのは。
「あなたが今まさに撒き散らしてるこの花には毒があるんです」
「でも、白虎は普通に触ってる」
「私はね!! 普通の人が触れたら大変なことになりますよ。確かに見る分には十分なご利益があるけども。とにかく、今のあなたは、人々からすれば歩く災害」
「すごい言われよう」
「この花は玄武に回収させますから、今日のところはもう帰りましょう」
「え〜……」
口角を下げて不満を示す姿は年相応。それでも、片手を差し出せば、彼は大人しく小さな手を重ねた。余程不服だったのか、彼の周りに咲く花はもうない。安堵の気持ちと微かな罪悪感が拭えない。
いくつかはなびらが残る道を戻れば青龍は白虎の顔を見上げた。
「ていうか、玄武、また白虎に使われてる」
「言い方悪いな」
「回収なんて付き人でもいいんじゃないの」
「あれは我々と、ごく一部の者たちにしか触れないものなのでね」
「じゃあ朱雀でもいいじゃん。燃やしてくれそう」
「まあ……そう言われると玄武一択ですよね」
「やっぱ使ってる!」
「アッハハ! 違いますって!」
豪快な笑みに、一度はじとりと視線を向けた青龍だったが、やがてつられて小さく笑った。
「玄武は研究熱心ですから。情報の提供です。あと、せっかくあなたが咲かせた花ですから。燃やすのは勿体ない。丁寧に扱って、是非いつかの日のために保存しておきましょう」
「いつかの日?」
「ええ。あなたがもっと立派な青龍になった時、改めて民のために展示しましょう。初めての開花は貴重ですからね」
「えぇ〜……なんかやだなぁ、それ」
「――いや。我ながらいい案かもな、これ。よし、青龍! 引き続きたくさん咲かせなさい!」
「ウワ。今度は僕を使おうとしてる! 悪い神様だ」
「冗談です」
「半分本気だったくせに」
◇◆◇
「こうしてあなたと並んで歩くのは私としてもいい息抜きになるし、何より純粋に嬉しいので。また明日もお出かけしましょうか、今度はもう少し遠くまで。花をコントロールする練習も兼ねて」
「……!」
ぶわり。花が舞った。見開いた瞳は宝石のごとく輝く。返事の代わりに頷いた彼に、白虎は再び笑みを弾ませた。
その裏で、大量の花弁を回収することとなった玄武の気苦労を知るのはまた別のお話。