風の日 ゴウゴウと鳴る風の音は耳に入っていた。ただ作業に集中していたから気にならなかっただけだ。ふと時計に視線を向けると、深夜1時過ぎ……一般的にはもういい時間だ。けれど僕にしてはこれからが作業時というタイミングで集中力を欠いた上、随分と耳障りなこの音を無視して作業に戻ることは出来なさそうだった。
「……眠るか」
たまには早く眠るのもいい。ディスプレイを消すと、柔らかな光を放つ間接照明の光だけがぼんやりと室内を照らしている。その光を頼りにベッドに入り込むと照明を消した。
暗闇の中、目を瞑る。
唸る風がぶつかり窓を叩く……その音がやけに耳についた。
拠点の窓は風などで壊れたりしない。石が飛んできたって銃弾が飛んできたって弾き返すだろう。それでも何故か完全防音になっていない。無視して眠ろうとするが、そう思えば思うほど耳が風の音を捉えてしまう。
何か他のことを考えよう。
そう思って一番始めに思い浮かんだのは比治山くんだった。
比治山くんはいつも「作業も大事だが早く寝ろ」と言ってくるから、明日顔を合わせたら「昨日は早く寝たぞ」と言ってやろうか……そういえば今日は会わなかったな。朝は早かったけど夕方には帰ってきたはずだから、戻ってきてから誰かに捕まったのか? ……いや、別に会う約束をしているわけではないのだから、顔を合わさなくてもおかしいことはなにもない。現に他にも会わなかったメンバーはいるし、数日顔を見ていない人もいる。それなのに比治山くんだけ顔を見ていないなと思ってしまうのは……
「……」
布団から起き上がると、カーディガンを羽織って部屋を出た。拠点内は快適に過ごせるとは言え、ベッドから出たこの格好は薄着だった。
拠点内を歩いて到着したのは女性陣の希望で増設されたサンルームだ。日中はガラスが日光を通して暖かく、みんながのんびり過ごす憩いの場だけれど、僕はこうしてたまに深夜に空を眺めに来る。作業中の気分転換にちょうど良かった。
少しだけ明かりをつけると、窓際に置かれたアームチェアに腰を掛けて外を見る。外には照明はない。室内の薄暗い灯りが届く範囲しか見えないが、強い風が草木を揺らし、時折折れた枝がどこかへと飛んでいくのが見えた。彼方へと飛ばされた枝がなんだか自分のように思えて、すぐにらしくないなと切り替える。
比治山くんに出会う前はこんなこと考えなかった。最善を見つけ出し、それに向かって意思を貫き通す、そういう強さがあった。
けれど今はどうだ。仕方ないと、待つつもりだと思いながらも、なかなか変わらない比治山くんにやきもきしているのは間違いない。決意したはずの気持ちが強い風に吹かれて吹き飛ばされてしまいそうになる。
「夜は感傷的になっていけないな」
今日顔を見なかっただけで寂しいと思うなんて……そんな風に思うだけで不思議だ。こんな深夜に会いに行くわけには行かない。明日になれば会えるのだ。
はぁと大きく息を吐く。その自分の声すら聞こえないほど風は強く音を立てている。だから部屋の扉が開いた音も聞こえなかった。
「沖野くん?」
突然聞こえた声に振り向く。
「冬坂さん? こんな時間にどうして……」
「沖野くんこそこんな所で会うなんて初めてだね。隣いいかな?」
どうぞと答えると、彼女はテーブルを挟んで右側のアームチェアに腰かけた。外を眺められるよう、椅子は横並びに置いてあり、互いの顔は見ようと思わなければ見えない。それが今はありがたかった。
「風すごいね。音が大きくて目、覚めちゃった」
荒れる外の景色を見ながら「そうだね」と返すと、冬坂さんはそのまま続けた。
「たまにね、悪い夢を見るの。皆で戦ったあの戦いに負けちゃう夢。とくにこういう嵐の日とかは見やすくて……飛び起きるとちゃんと勝ったからここにいるんだって理解するんだけど、でも大体そのあと寝付けないからここに来るんだ」
「それは……災難だね。夢のコントロールについて少し調べてみようか?」
「あ! 違うの! そういうことじゃなくて」
その言葉に冬坂さんは急に慌てた。親切心で言ったつもりだったが、的を外していたということか。
「そうじゃなくて、だから今ここに沖野くんがいて安心した」
「そうか」
彼女の言葉の意味を理解しきれずに返事をしてしまったので、そのまま会話は途切れ、風の音だけが部屋に響く。それでも自分以外の誰かがいる気配がするだけでなんとなく部屋の空気は変わるものだ。しばらくすると冬坂さんが「あのね、」とまた口を開いた。
「すごく心配になると思うんだけど、大丈夫だよ」
「? 何が……?」
「比治山くんのこと考えていたでしょう?」
「…………」
沈黙は肯定だ。すぐに返せなかったことを後悔した。
「沖野くんよりも私の方が年代が近いから少しわかるの。セクター5の時代は本当に厳しかったから……きっとセクター1ではそういうことは些細なことだったんだと思うけど、こういう時に年代差があると考え方の違いでちょっと辛い気持ちになっちゃうよね」
私もちょっとだけ瑛くんとあるんだよ、と笑う冬坂さんは続ける。
「でも比治山くんが沖野くんのことを好きなのはよくわかるし、だから沖野くんも変なところで気を遣うことはないよ。会いたいなら会えばいいし、遠慮することないよ」
「遠慮なんて」
「沖野くんも変なところで意地張っちゃうから。だから比治山くんも素直になれないところあるんじゃない?」
彼女はそこまで僕たちのことを知らないと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
「良く見ているね」
「なんかね、目が追っちゃうんだ」
笑う彼女の気配が動き、見ると立ち上がり「うん」と頷いた。
「ありがとう、すごく気が紛れたみたい。お陰で寝れそうだよ」
「いや、僕はなにもしてないよ」
「ううん、ありがとう。それじゃ私は戻るね」
おやすみなさいと言う冬坂さんに僕も同じ言葉を掛ける。
一人サンルームに残された僕は見える空に視線を向けた。
「素直、か」
今さら馬鹿正直に素直になるのもおかしいし、僕自身がそういう性格ではないこともある。けれど、明日は僕から比治山くんの部屋を訪ねて朝食に向かおうか。
止むことのない吹き荒ぶ風は雲をも巻き込み、彼方へと連れ去っていく。雲一つないその空にはまばゆい星々が輝き続けていた。