苦いのも痛いのも好きじゃない。甘さと優しさは好きなのに、そう上手くいかない。
シルバーアッシュに噛まれた首筋は紫色になり、行為の後よりも惨めになっている。
コートで生々しい傷を隠す。見えそうで見えない、ギリギリを狙って痣が足される。
歯形が分かるほどの痣は、消えるまえに増えてゆく。
いつかはコートで覆い隠すことのできないほどに、傷と痣が増えてゆきそうな気がしている。それでもシルバーアッシュは止めない、制止の声も涙での懇願も届かない。
拒否も逃亡も選択肢を捨てられて、興味の収まるまで噛まれて身体を曝かれる。
それだけ、だ。
痛いことは好きじゃない、ただ気持ち良いことの延長なら嫌いじゃないだけ。
あと「傷ができた」とシルバーアッシュを責められる。そんなの意味など、ほぼないけど。
シルバーアッシュ「だから」ではない、絶対に。
認めてしまえば、楽になる…なんて事もない。相手は自分を弄んで、騙そうとしてるだけだ。
責めようにも砂糖がたっぷり入った卵液のような、シルバーアッシュの甘い言葉に絆されて浸される。さながら自分は食パン。
冷たいバットの上に寝かされて、徐々に甘く滴る卵液で覆い被される。
焦っても遅い、気がついたらもう溺死寸前まで黄色い液体が迫ってきていた。必死に呼吸をしようと吸い込んだら、シルバーアッシュの甘い言葉も飲み込んでしまう。
もしかして、騙されてしまったと悲劇のヒロインを演じて大人しく卵液を漂えば、少しは上手な関係を築けていたのだろうか。
そもそも食パンに人権などなくて、ただ美味しく頂かれるだけなのかもしれない。
***
倉庫の壁際で迫られる。
「ぐっ」と声を殺し、ドクターはシルバーアッシュの胸に両手をつく。それでも、大柄な身を引きはがすことは敵わず、より窮地に追い込まれてしまう。
強制的に胸のなかに収められて、黒い手袋に包まれた大きな手に顎を掴まれた。
「盟友」
普段よりも力強く、頬肉がひしゃげるほどに掴んだ手の持ち主をドクターは睨み上げた。
常に淡泊なシルバーアッシュの表情は、やはり普段と代わり映えがない。
強い手を引きはがそうと、ドクターはシルバーアッシュの手首をしっかりと取る。
だが悲しいかな、全く動かない。手袋に包まれた指先でシルバーアッシュの手首に爪を立てる。
情事の最中でもない現在に、そんなこと意味はないと分かっているけれども。
「離せ」
「断る」
短い問答のあと、ドクターはシルバーアッシュの視線から逃れようと目を閉じた。
「逃げないから」
やや間をあけて、冷たい声が問いかける。
「信用をして良いのか、私は」
「したくないなら、別に良いけど」
可愛げがないと自分でも分かっているが、言わずにはいられなかった。
シルバーアッシュは、ずるい。
散々とドクターの身を噛み、弄んでも身体は傷つかないのだから。
いつかシルバーアッシュの気が変わって関係が消失し、痣も消えたら…残るのは何もない。
卵液がしっかり染みこんだフレンチトーストも、バターで焼き、食べたら無くなる。シルバーアッシュが愛情を染みこませたドクターも食べてしまえば、それでおしまい。
「お前を疑いたい訳ではない」
「分かってるよ、君の言いたいことは。私が悪いと責めたいんだろ?」
「そういう訳では―」と言いかけたシルバーアッシュの声に被せるように叫ぶ。
「なら手を離せよ。君は何も知らないくせに」
シルバーアッシュの眉間に皺が寄った。落ち着き払った顔の瞳に怒りの色が浮かぶ。
「何も知らない?」
「そうだろ、私のことを何も知らない。君は傷つかずに済むけど、こっちは中身もボロボロだ」
「証拠はあるのか」
シルバーアッシュのいつになく落ちた声音が、怒りと共にドクターへ覆い被さってくる。
「私が傷ついてないという確固たる証拠は、あるのかと聞いている」
「あちこち噛むから痛いんだよ。そんな心配ないじゃないか、君には」
伏せた視線の端でシルバーアッシュの尻尾が灰色の床を叩いていた。
「それは外傷だろう?私は精神面も含めて聞いている」
「何が言いたいんだ。今更、被害者ですって私をなじりたいの?」
「そうではない、私は―」と言いかけて、シルバーアッシュは手をドクターの頬から離した。
「私は、ただ…」
ドクターから一歩後退し、シルバーアッシュは手で額を覆う。
「ここまで避けられ、逃げられては、どうしたら良いのか。お前を責めたい訳では勿論ない」
「だって君、私の話を一切聞いてくれないんだもの」
「お前なら、何をしても私を受け入れてくれると…いや、ただ甘えていただけなのかもしれない」
普段は自信に溢れるシルバーアッシュの声が小さく絞られてゆく。
「傷ついてないだろうと問われて、苛立ちを覚えてしまうなど。私は、どうしたら…」
急におろおろとし出したシルバーアッシュを、これ以上責める気になれなかった。
愛情がないから逃げている訳じゃない。寧ろ過度な愛情に恐怖を覚えるからだ。
「シルバーアッシュ」
そっと空いた手をとり、大きな体躯を見上げる。
「ごめん、私が言い過ぎた。君があんまりにも噛み付くから、怖くて逃げちゃっただけだよ」
「…盟友」
色素の薄い瞳がドクターを静かに見下ろす。
「傷が痛むほど噛むし、何度言っても止めてくれないから。だから私を騙して面白がってるのかなって…悪く考えちゃった」
「騙すなど、絶対にしない」
優しく後頭部に手が回る。そして胸に引き寄せられて、シルバーアッシュに抱きしめられた。
「傷つけてしまったね、ごめん」
「いや、私こそ―」と言いながら、強く抱きしめられる。傷にさわって痛むが、ここは大人しくしていたほうが良いなとドクターは我慢した。
きつく胸に押し当てられた状態で、顔も上げられないままシルバーアッシュに問いかけてみる。
「ね、シルバーアッシュ。フレンチトースト好きかな?」
「特段、好物だという訳ではないが」
やや答えるまでに間があったのは困っている証拠なのかもしれない。
「君の声や仕草が甘いから、砂糖たっぷりの卵液に浸されている食パンみたいだなって思っていたんだよ」
「なかなか情緒的な思考だな」
「焼いて食べたら、もうお終いみたいな。君が飽きてしまったら、もう…」
「飽きない、食べても終わりにしない。私はお前がいないと困るからな」
腕の力が弱められ、顔を覗き込むように伺われる。シルバーアッシュが首を傾げると髪飾りが音をたてて鳴った。
「お前はどうなんだ。もう私から逃げたりしないんだろうな?」
無表情な顔が此方を覗いている。もうおろおろとしたシルバーアッシュはいない。
悲劇のヒロインを望む前に、相手がその役目を引き受けてしまった。
おまけに砂糖過多な卵液に浸しながら、フライパンにバターを敷いて食べようとしているという主導権も握られている。
(…逃げられない)
唇をなぞる指先が答えを急かす。
ドクターにはもう選択肢が、ひとつしか残っていなかった。
惨めを越えて馬鹿馬鹿しくなり、薄ら笑いを浮かべてシルバーアッシュを見上げる。
「うん、もう逃げない」
答えを聞いたシルバーアッシュは、普段通りの澄ました笑顔を寄越した。
「それは良かった。とても嬉しい」
騙され、弄ばれて、食べられる。きっとこれからも歯形が残るほどに噛まれるのだろう。
食パンの人生も、なかなか楽ではない。