エンシオディスから幼なじみを紹介すると聞いたのは、ほんの数時間前だった。
何事も突然告げるのは止して、時間をくれと何百回も言っている。それなのに守る気は当然のようになく、今回も直前の告知。
だがそれは、ドクターだけではないようだ。
急に慌ただしくなった屋敷を眺めて、これは大変だと思う。エンシオディス以外全員、知らずにいたようだ。
忙しない屋敷を目にしながら、新しいパーカーに着替えて準備完了。
と、様子を見に来てくれたヤーカに愚痴をこぼせば、慣れていると笑っていた。しかし、そろそろあの屈強な身体の下にある、胃が心配になってくる。
「そろそろ、お戻りになると思います。奥様は此方でお待ちください」
「奥様なんて止してよ。ドクターで良いから」
「いいえ、そうはいきません。我が主が婚姻をすすめると決めたんですから、奥様と呼ばせてもらいますよ」
ヤーカの言い分はもっともだ。エンシオディスは屋敷の主で、その妻となるなら間違ってはいない。
パーカーの紐を指先で弄りながら、ドクターは溜め息を吐いた。
「…なんか、大変な事になってきちゃった。私で務まるのか心配だよ」
「そんな事を仰らないでください。ノーシス様を此方へ、お呼びになったのも奥様にあわせたいからなんですから」
エンシオディスの幼なじみであるノーシス。名は何度か聞いたことがあったが、顔をあわせるのは初めてだ。
イェラグにあるラボに隠(こも)り、日々実験を繰り返している研究者だと聞く。
すっかり記憶がなくなっているがドクターなのだから、話があうのではという無責任極まりないことを夫が言っていた。
「では、此方でお待ちください」
ヤーカが恭(うやうや)しくお辞儀をして、部屋を去ると不安感が大きくなってきた。普段は被っているパーカーのフードをいま下ろしている。
初対面の、しかも夫となるエンシオディスの幼なじみと会うのに、フードで顔を隠しているのは失礼だと思ったからだ。
(…私もヤーカと一緒に待っていたほうが良いのかな)
落ち着かないし、屋敷の主を迎えるのも嫁の勤めかと考えて、フードを目深に被り部屋を出ようとドアを開けた刹那。
「あっ」
タイミング良くエンシオディスと鉢合わせてしまった。
「どうした―」と声を掛けられて、顔を上げると直ぐ目の前に見知らぬ男が立ちはだかる。「これが棺から出てきたのか」
そう言うや否や、ドクターのフードを勝手に下ろしてきた。
端正な顔をした男は、こちらを見下ろしながら眼鏡の奥にある怜悧な瞳を細める。
「特段と変わったところがない、平凡な作りにみえる」
「はい~???」
会った早々に失礼極まりない男に向かってドクターは「最悪」と叫ぶのを寸出で耐えた。
夫の友人でなければ、エンカウント直後だが乱闘騒ぎである。
「この平凡さが良いのだろうか、エンシオディス」
「そうか、お前には分からないとは残念だ。もの凄く愛らしいものを秘めているというのに」
「お前の趣味を押しつけるな、極めて普通に見えるという事実は変わらない」
図体がデカくて声の良い男達の温度差全開な会話についてゆけず、ドクターは部屋に戻りたくなってしまった。
「紹介する、ノーシスだ」
「…こんにちわ」と言いながらドクターは手を差し出したが、なかなか受け取らず此方を眺めるばかり。
「やはり、何もかもが平凡で普通の作りにしかみえない」
捨て台詞のように吐き捨て、差し出した手を取るノーシス。夫の幼なじみに違いないが、早くも嫌いになりそうだった。
◆
「早速だがロドス社の認証カードとコートを借り受けたい」
部屋に戻りソファに座るのも、そこそこに切り出される。エンシオディスとノーシスを交互に眺め、ドクターは怒りをかみ殺しながら答えた。
「持ってないです、夫に聞いてください」
「そうか。なら指紋だけ貰っていく事にする」
「指紋って、指でも切り落とす気?」
眼鏡を指先で持ち上げながら、ノーシスは自慢げに微笑んだ。
「そうするのが一番簡単だが、そこにいるエンシオディスの許可が降りない」
「私の嫁に傷をつけるなど、許可できる訳がない。当然の話だ」
ドクターはノーシスをグッと睨む。
「あのね、私の許可が必要なんじゃないの?勿論ダメだけど」
「何故だ。エンシオディスの嫁となったのだから、権限は向こうにあるのでは」
耐えきれずに起ち上がり、ノーシスに詰め寄った。
「確かに私はエンシオディスのもとに嫁ぐけど、全てこの身を捧げた訳じゃない!私の身体は私だけのものだよ!」
自信満々な笑みを抑え、不思議そうにノーシスは首を傾げた。黒髪のなかに交じる赤が、ふわりと揺れ動く。
「こういうところ、なのか。エンシオディス」
「こういうところも、だな」
先ほどとは変わり、妙に通じあっている会話に口を挟むのを止めた。何を考えているのかサッパリ分からない人間が増えると、もう収集がつかなくなる。
「あぁ…何なの、もう」
へなへなと力が抜け、元いた場所に戻ろうとしたらノーシスに腕を掴まれた。
「待ってくれ。まだ指紋を貰っていない」
「よくこの状況で言えるね、君。エンシオディスも恐ろしい度胸だけど、同じくらいに恐ろしいよ!」
テーブルを挟んだ向こう側でソファに座る夫は、尻尾を左右に揺らしていた。どうやら照れているらしい。
このギスギスした空気のなかで、喜びの動作をする度胸を見せられても困る。
「あのね~褒めてないよ私は。怒ってるの!」
「よくエンシオディスが喜んでいると分かったな。観察眼は平凡ではないらしい」
「…そうだろう、やっと気がついたか」
そう言いながら自慢げに腕を組んだエンシオディスに最大級のドヤ顔を披露され、ドクターは頭を抱えたくなった。
もう一刻も早く帰って頂き、この場を解散したい。
うすうす自分の夫となるエンシオディスは、変人の類いに入っていると思っていたが幼なじみまでとは。
同じ穴の狢(むじな)ということわざを古い辞書で見かけたが、まさにその通りなのだろう。「はい、早くして―」そう言いながらドクターは、ノーシスに手を差し出した。
黒い手袋に包まれた指先が、遠慮無く手の甲を掴んだ。
「いまの言い方は良くないな、我が妻よ」
テーブル越しに今度は不満げに夫が訴えてくるが無視。
「苦情があるようだ」
「いいの、早く済ませよう。指紋だけじゃなく、他もなんて言われると困る」
懐を漁りながら、嬉々としてノーシスは透明なフィルム状の紙を取り出した。
「今日は指紋だけにする。そのうち、他もサンプルとして貰いたい。例えば毛髪など」
「うわぁ、嫌だなぁ。髪の毛を引っこ抜く気じゃないでしょうね」
「抜かなくても良い、ほんの二本程度もらえば充分だ」
ノーシスはフィルムを剥がし、テーブルのうえへ丁寧に置いた。
「指先を置き、しばらく動かないでもらいたい」
「はいはい―」と言いつつ、透明なフィルムに両手を据える。
ふと目線をあげれば不機嫌そうだった夫が、柔らかく微笑んでいた。
「やはり話があったようだ。研究者とドクター、通じるものがあるのだろうと思っていた」
「何処が?いったい全体なにを見てたんだ、君は」
ドクターの隣でノーシスが頷いている。さすがにこれだけ拒否したら、嫌われていると感じたらしい。
「まだ、そうとは言い切れない。唾液のサンプルも要求していないのに」
「なに言ってんの、この人!?」
素っ頓狂な声で叫ぶと隣にいるノーシスが、じろりと冷静な顔でドクターを睨んだ。
「動くなと言ったんだが」
「~ッ!」と叫びたいのを堪えて、ドクターは指先をテーブルに押しつけたまま固まった。
「あまり力をこめると指紋が歪む。綺麗に採取できない」
「はいはい!分かりましたよッ!」
種類が違う、俺様二人を相手にするのも疲れてきた。もはや腹立たしいのを越えて、憂鬱になりつつある。
会って数時間もたってないが、早々に帰って頂きたい。
「ノーシス、後は頼んだ。私は棺の準備をしてくる」
そういいながら、優雅な仕草で起ち上がった夫を目の端で追う。
「棺―」と口に出すと、真横から手がヌッと伸びてきてドクターの腕を掴んだ。
「もう結構だ、指紋がしっかり取れただろう」
「棺って私が入っていた…」
「あぁ、そうだ。興味があるので、此方で引き取る事にした」
手をフィルムから離して、エンシオディスを仰ぎ見る。
「オークションで買ったきり、そのままだったからな。丁度良いのでノーシスに任せようかと思っている」
エンシオディスの話しぶりは、緊迫感のないものだった。
ノーシスは意に介さず、慣れた動作でフィルムを回収している。
「そうなんだね」と口にしながら、パーカーのフードを直した。
棺を詳しく調べるというのは建前で、この屋敷に置いておけない理由があるのではないか。
そう直感的に感じた。
「では、頼んだぞ」
「分かっている」
まるで同僚同士のような固い会話を終えて、エンシオディスは部屋を出て行った。
変わり者な幼なじみを置いていかれ困ったなと、ドクターが思う前にノーシスが抑揚なく話し出す。
「聞けば良かったのではないか。エンシオディスに」
バレている。
変人な癖に察しが良い。
「…確証があった訳じゃないし。それに何も覚えてないから」
「そうか。エンシオディスから聞いてはいたが、重度の記憶障害を煩っているのだな」
「うん…何も覚えてなくて。あの棺に入る前のことは何一つ思い出せないんだ」
手を組み、俯く。
ふと、いつの間にか隣に座っていたノーシスが、ずいと身を乗り出してきた。
「エンシオディスが手元に、あの棺を置きたがらない理由が分かった」
「え?」と声を出しながら、顔を上げるとノーシスは眼鏡の奥にある瞳を瞬いた。
「自分の伴侶が悩む品を置きたくないだけではないかと推察する」
「…私が困るからって?」
「あとは自分で訊ね、確認するべきだ」
突拍子のない変人な俺様かと思いきや、慰めてくれるとは案外良い人なのかもしれない。
「ありがとう。見かけによらず、優しいんだね」
「見かけによらず?」
クエスチョンマークを語尾につけるような、訝(いぶか)しんだ声音をあげノーシスは、またもや首を傾げた。
「君達みたいな恐ろしいほどの美形は、ちょっと性格が悪いのかと思ってた」
「顔は関係ないと思うが、エンシオディスに人付き合いは気をつけろと忠告はされている。常々ラボに隠りきりなのだから、と」
正直に話してくれるあたり、俺様系夫よりも性根は真っ直ぐな気がする。あのクラスになると自分の顔の良さを理解して、強気に出てくるからだ。
「そんなに気にしなくても、良いと思うけど」
「つい口調が強くなる場面が多々ある。初対面だと、大抵相手が怒って帰ることが多い」
ドクターは思わず「そうでしょうね」と言いかけた。しかし、それでは慰めてくれた相手に悪いなと、素早く首を横に振る。
「確かに、私の顔って平凡だし。あのときは大人げなくて、ゴメンね」
「いや、そういう意味ではない…何の変哲もない人間と表現したかった。エンシオディスに棺から出てきた者を伴侶にすると聞き、大層変わっているのではと考えたからだ」
「そうかぁ」と気の抜けた声で返答してしまった。
話だけ聞けば、棺から出てきた記憶喪失の男と結婚するはインパクトが強すぎる。どう考えても普通ではない。
「幼なじみが記憶喪失の男と結婚するなんて、言い出したら驚くよねぇ」
「驚きはしない。エンシオディスの事なので、何か理由があるのだろうかと思っていた」
ノーシスは真っ白いコートを泳がせて、再度ドクターを真っ直ぐに見つめた。
「その異質だが同質な普通さが良いのではないか」
よく理由は分からないが反対もされず、エンシオディスの伴侶として認めてもらえたらしい。
「エンシオディスをよろしく頼む」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
ノーシスから差し出された手を優しくドクターは取り、握り返した。
◆
ノーシスと色々な話をした。
子供の頃の話、現在のイェラグの状態、ノーシスの研究している成果。それとドクターが照れて、なかなかエンシオディスを写真へ収められてないこと。
少しでも好かれたいので、こっそり歌を練習してることも話した。肺活量と体力作りの為なのだが、特技でもあれば多少はプラスになるかなと思ったからだ。
「随分、話が弾んでいるようだが」
話し込んでいたら、いつの間にか夫が帰っていた。尾を左右に揺らし、澄ました顔でこちらを見下ろしているが不機嫌なのは直ぐに分かる。
「あぁ、お前の伴侶は興味深い」
「子供の頃のこととか、色々聞いたんだ」
エンシオディスは不満げに眉間に皺を寄せ「そうか」と呟いた。
堂々としているくせに、結構心が狭い。
「落ち着け、世間話だ」
「そうそう。気にしないで」
「エンシオディスに好かれたくて歌を練習していたり、写真を収めたいにも関わらず躊躇してしまうほど照れているという嫁の話を聞いていただけだ」
「うわああああああ!」
ドクターは叫びながら起ち上がった。
「ちょおおおおお!??話して直ぐにバラす奴が何処にいるんだ!?」
「此処に。いやなに、得た情報は共有すべきかと思ってだ」
「君って奴は、人の心がないのか!?それとも研究室に忘れてきたの!?なら取って来てっ、今すぐに!」
「ははは」と乾いた笑いを浮かべる、ノーシスの肩を掴んで力任せに揺する。
眼鏡を吹き飛ばす勢いでノーシスに掴みかかっているドクターを、ぐいとエンシオディスが後ろから抱き寄せた。
「落ち着け、そう動揺しなくても良い」
「離してくれっエンシオディス!内緒だって言っといて、この有様だよ…信じた私が悪かった!」
全身の力を振り絞ってエンシオディスの腕を振りほどこうとするが、ビクともしなくて悲しくなる。
「面白い伴侶を得て良かったな、エンシオディス」
優雅に足を組んであざ笑う新種の俺様研究者の眼鏡を、窓の外に投擲(とうてき)してやりたくなった。
「最悪っ…良い人だと思ったのに。髪の毛もサンプルとして絶対に出さないからなッ」
「それは困るな」
後ろから抱きしめられていたが、腕の力が突如弱まりエンシオディスに正面を向かされた。
「そんなに私を写真に収めたいと思っていたんだな。いいぞ、お前なら。いつでも歓迎しよう」
渾身の決め顔で、お知らせ頂いてる場合じゃない。この俺様夫、空気が読めないを悠々と越して、壊しにきている。
「ええい、今はそんな事言ってる場合じゃないんだ!君はあとで写真に撮るから待ってて!」
「遠慮しなくて良い。今すぐにでも構わない」
「話の分からない奴だな、それどころじゃないって言ってるの!」
決め顔から無表情になり、エンシオディスはムッとしている。本当にもう面倒くさい、この二人。
「エンシオディス、そう慌てるな。お前の嫁は、ちゃんと写真を収めている。スマートフォンの待ち受けを、お前の寝顔にしている」
「うわぁ~こんな目の前で、更に情報漏洩されることってあるんだね」
無表情な間々だが、エンシオディスの丸みがある耳が左右に動いている。嬉しいようだが、もうツッコむ元気はない。
「ノーシス。有益な情報提供、感謝する」
「お前の為になって何よりだ」
堂々と情報を売った張本人と夫が握手している謎空間でドクターは深い溜め息を吐く。
「本当に私で務まるかなぁ、お嫁さん」
ヤーカだけではなく、自分の胃まで穴が空きそうで不安になってきた。
つづきますぅ