曖昧な2色 商店街のメインストリートを横に逸れ、少し進んだ先にある雑居ビル。その端にぽっかりと開いた空間に見える階段を降りると、ひっそりとたたずむバーがある。そろそろ夕暮れ時とはいえ、まだまだ明るい時間。バーの開店時間にはまだ早く、いつもは入り口を照らす洒落た電球も、今はまだ暗いままだ。
『obscure』と書かれたドアプレートのかけられた、営業しているのかも怪しいその扉を躊躇なく開き、佳輔は静かに店に足を踏み入れた。
「あ、佳輔サン。いらっしゃい」
カラリと音を立てたドアベルに反応し、カウンターの奥にいた黒髪の店員が顔を上げる。あげた口角を崩さない中性的な顔立ちのその店員は、磨いていたグラスを棚に置き、「なにか飲んでいく?」と席を指差した。
***
「ミツさんたちは?」
席に腰掛けながら、佳輔は店主を探して店内をぐるりと見回した。シン、と静まり返った店内には、2人以外の人影は見当たらない。
「ママはお出かけ中でマスターはまだお休み中。 なにか用事だった?」
「いや、それなら別に大丈夫。 今日は猫ちゃんの忘れ物を届けに来ただけだから」
持ってきた紙袋を持ち上げて見せる。コーヒーの粉が3袋ほど入った紙袋はそのままグラスの横に置いた。それを見た葵は、数秒の間それを見つめた後、大きなため息をついた。
「……なるほど。アイツは珈琲を貰いに行ってお花を買って帰ってきたワケだ」
「ああ、あの青い花は琥珀君が買ってきたのか」
葵の視線の先を追って見つけた、カウンターの隅に飾られた小さなブーケを指さす。青・紫・白が小さくまとめられた花束は、暗めの落ち着いた店内にもよく溶け込んでいた。
「そう。ほんとに気まぐれで困るよ」
「ほんとに?」
表情こそ変わらないもののどこか苦笑の滲んだ声色に、揶揄いまじりに言葉を返す。顔を覗き込もうとすると、フイッと逸らされてしまった。
「……貴方も察しが良すぎて困るよ」
「はは、まあ多少長く生きてきてるからね」
小さく笑いながらグラスを手に取る。その冷たい飲料を口に含むと、甘酸っぱいりんごジュースが乾いた喉を潤した。アルコールは感じられないため、どうやら酒ではないらしい。
「ん、美味いね。これ」
「ママがお中元で貰ってからマスターのお気に入りなの。メニューにも載ってるよ。ま、佳輔さんはお酒しか飲まないから知らなかっただろうけど」
「まあいつもはお酒を飲みに来てるからねぇ」
所謂ミックスバーと呼ばれる類のこのバーは、ゲイである佳輔にとっては数少ない気を張ることなく過ごせるスポットの1つだ。ここに来るような知り合いは、気心の知れた数人以外に心当たりはないし、昔馴染みの店主たちも酔っぱらいのうっかり口を滑らせた話などは他言無用で胸にしまっておいてくれる。出会いの場として声をかけてくる人間がいないでもないが、優秀な雑用係がしっかり店内を見ていてくれるからか無茶な絡まれ方もしたことがない。そして何より、美味い酒が多く揃えられており、店主たちの趣味もあってか期間限定で珍しいものが並ぶことも少なくない。
1人の時も誰かと一緒の時も、美味しい酒を楽しみたくなった時に佳輔の足が向くのは大抵この店だった。
「おやまあ、楽しそうな声が聞こえると思ったら佳輔じゃないか」
「あ、マスター」
カウンター奥の扉から顔を出した『マスター』は、紫煙を燻らせながらペタペタとした足音で歩く。佳輔からは見えないが、おそらくスリッパか何かのまま出てきたのだろう。普段は葵とほとんど変わらない高さの頭が、今は頭半分ほど低い。
スレンダーな体型で中性的な雰囲気の彼女は、店では男装でカウンターに立つため皆からは『マスター』と呼ばれている。性別・年齢共に不詳な美魔女、春原環(すのはらたまき)はこの店の店主の妻でもあり、佳輔の学生時代の先輩でもあった。
「おはよう、環さん。もしかして起こした?」
「いんや、もうすぐ起きるつもりの時間だったからちょうどよかったよ。気にしなさんな」
「そりゃよかった」
微笑みを絶やさない葵とは違い、環は常に無表情に近い顔のまま淡々と話す。寝起きだからかいつもより低めの声ではあるが、特に不機嫌なようではなさそうだ。彼女が睡眠の邪魔をされるのを何よりも嫌がることを知っている葵と佳輔は、それぞれこっそりと胸を撫でおろした。
2人がほっと吐いた息を誤魔化すように、佳輔のグラスに残った氷が融けて軽やかな音をたてる。グラスをちらりと見た環は「それ、美味かったろ?」と、得意げに笑うと、葵が手渡した水を一気に飲み干した。そして煙草を銜えなおすと、そのまま再び奥の扉へと足を向ける。
どうやら身支度をする前に水を飲みに出てきただけだったらしい。葵にいくつか仕込みの指示を出し、そのまま先ほどくぐってきたばかりの扉に手をかける。
「相手してやれなくて悪いけど、まあゆっくりしていきな」
そう言い残すと、環はひらりと手を振って扉の向こうに消えた。
残された紫煙が閉まる扉で揺らされてかき消える。それと入れ替わるように、今度は入り口のドアベルが鳴った。
「たっだいまー! ってアレ? 佳輔サンじゃん」
元気よく入ってきた白髪の青年を、佳輔は振り向いて出迎える。葵の笑顔が引き攣るのを視界の端で捉え、愉快そうに笑みを深めて声をかけた。
「やあ。おかえり琥珀君」
「ただいまぁ。なんでこの時間に?」
「いやぁ、誰かさんの忘れ物をお届けに、ね」
「……あ」
どうやら今の今まで昨日のお使いのことはすっかり忘れていたらしい。ほらこれ、と、佳輔が指さした先の袋に目をやり、少し間を開けて気の抜けた声が上がる。
しまった、という顔をした琥珀が、叱られるのを察した猫のように眼だけを動かしてそろりと葵の様子を窺うのを見て、佳輔は堪えきれずに笑い声をあげた。
お説教をはじめようとしていた葵はそれに気を削がれたのか、カウンターに手をつき大きく息を吐く。そして、佳輔に向かって小さく口を尖らせた。
「はぁぁ……。もう、笑っちゃったら怒れなくなるでしょ」
「っふは、いや、あんまりにもかわいくてつい、ねぇ」
腹を抱えながら葵の方を向きなおると、そろりと背中にくっつく気配がする。琥珀は佳輔の肩口からちらりと情けなく眉の下がった顔を出して口を開いた。
「アオ~、怒ってる?」
「怒ってるっていうか呆れてるっていうか……」
「んぐ……、まことにタイヘンもうしわけないです……」
「ふふふ」
「「笑わないで」」
前後からの息の合った声に「ごめんごめん」と返すも、一度ツボに入った笑いはなかなかおさまらない。肩甲骨のあたりを琥珀にぐりぐりと頭突きされながら、佳輔はしばらく肩を震わせることになった。
8割方怒っているふりをしているだけの葵も、それをなんとなく察しながら、相手に効きそうな顔と仕草で機嫌をとる琥珀も、可愛くて愉快で仕方ない。
誰が見ても互いのことが好きだと言うであろうこの2人が、いまだに名前のつかない関係のままであるのが不思議なぐらいだ、と佳輔はずっと思っている。家族のような友達のような恋人のような、そんな近すぎてよく分からない距離感のまま育ってきたからこじれているのだろうけれど。
しかし、花の件や今の様子を見るに、どうやら琥珀の方はこの現状をどうにかしようと彼是試しているようだ。それを察しながらも葵の方はいまだのらりくらりと結論を先延ばしにしているように見える。
「そんな顔するぐらいならはやく認めちゃえばいいのにねぇ」
「あ、やっぱりそう思うー?」
思わずこぼれた声は後ろの白猫の耳にはしっかりと届いてしまったようで、背中から聞こえてきたのんきな声に苦笑が漏れる。
ポーカーフェイスを装ってはいるが、佳輔にくっついたままの琥珀を気にして葵が段々苛々してきている。それを理解した上でなお、この引っ付き虫は行為を続行しているわけだ。
肩越しに目が合った琥珀色の大きな瞳は、ぱちりと瞬きひとつしたあと、いたずらっぽく細められた。
「思う思う。でも、これ以上拗らせないようにほどほどにしなね」
「んはは、努力はするー」
「ほらそこ、ヒトの目の前でこそこそ話さない」
「「はい」」
そろそろ本当に不機嫌そうな様子を隠さなくなってきたのを察し、二人同時に姿勢を正す。それを見た葵は深く息を吐くと、琥珀に開店準備のいくつかの指示を出した。時計に目をやると、いつの間にか開店時間まで30分をきっている。
「すっかり長居しちゃったね。あ、ジュース代いくら?」
「琥珀のせいでお使いにきたワケだし払わなくていいよ。アイツの奢り」
「んえ? あ、うん、そうそう! オレのおごり!」
「そう? じゃあ今日はお言葉に甘えさせてもらおうかな。次来たときは注文させてもらうよ」
カウンターの上に置かれたグラスの氷はすっかり融け、うっすら黄色く濁った水が底に溜まっている。葵の取りやすい位置にそれを動かし、佳輔は席を立った。
***
夕暮れに包まれた商店街は主婦だけででなく、帰宅途中の学生やサラリーマンで賑やかだ。肉屋からは美味そうな揚げ物の匂いが漂い、魚屋からは道行く主婦を呼び止める声が聞こえる。
コツコツと響いていた機嫌のよさそうな革靴の足音も、それら商店街の雑踏に紛れていった。