電光掲示板「あっ――」
突然、腕から離れ走り出した恋人を掴むことが出来なかった。ふらふらした足取りで道端の植え込みに刺さっていた掲示板のガラスに手を付いた。中に嵌め込まれたライトがほんのりと温かく、冬の寒さにはちょうどいい。夜も更けた暗闇の中で、その掲示板は一際輝いているように見えた。
「はあぁ~、いい男ぴょ~ん」
「あー、もう深津さん。嬉しいけどさ、そういうのは素面のときに言ってくださいよ」
「バカのくせに証券会社の顔やってるの笑えるぴょ~ん」
「お、怒りますよ」
『Dunk in your Life』なんていうキャッチフレーズで沢北は少し前から大手証券会社の宣伝タレントとして起用された。当然、自分はそういう類のものはやらないと伝えたが、先方はそれでもいいと言うので沢北はスーツを着て片手にバスケットボールを持ち写真を撮った。今はその宣伝パネルは全国各地、公共交通機関からコマーシャル、道端でも見られる程に普及している。
「あったかい」
「いやいや、それパネルだから、離れてよ。汚いですよ」
「俺の彼氏は汚くないぴょん‼」
「えっ、かわっ」
思わず漏れ出た本音を飲み込んで沢北はニヤける顔をしまい込んで深津を剝がそうとした。電光パネルごと抱き込もうとする男は、それなりに力が強く沢北一人で引き剝がすのは難しかった。
「はあっ、顔と体とバスケだけの男なのに、性格は全然タイプじゃないのに、俺は、俺は、俺は、こんなに好きになっちゃったんだぴょん」
「性格、オレよくないんですか・・・?」
沢北の問いかけに返事はない。
「もっと落ち着いた頼りがいのある、河田か赤木みたいな大人の男が、ひっく、タイプなのに・・・」
深津はちらりと背後で戸惑う恋人を見た。マスクを着けて半分顔を隠していても知っている綺麗な顔を思い出し、ついにはそのまま地面に膝を付いてしまった。往来を行く人々は成人している男の泥酔した姿を憐れむような視線を向けてくる。
「深津さんは面倒見がいいから手の掛かるオレみたいなタイプがいいと思いますよ」
「お前が俺のなにを知ってるんだピョン」
「はいはい。もう立ってよ。恥ずかしいですよ」
腕を掴んで無理矢理立たせるが、深津の視線はやはり本人ではなく傍にある掲示板を見つめていた。
「深津さーん、本物はこっちですよー」
「顔だけ有名で何やってる人か分からないって誰かが言ってた気がするぴょん」
「へー、ま、スポーツ興味な人はそうかもしんないッスね」
「こいつはバスケが上手くてアメリカで頑張ってる奴なんだピョン」
深津はこの夜の中で一際輝くパネルに両手を付いた。多くの人が行き交うこの道端で不特定多数に向けて笑顔を浮かべる沢北。だが、この忙しない東京の街では誰も見向きもしない。電車や車の中から見つける度に思っていた。もったいないと。
「知りもしないくせに、あーだこーだとお前を評価するのは腹が立つピョン」
道行く人々に笑顔を向けたところで、誰も気にも留めず記憶にすら残らないのに。そればかりか名前が知られれば知られるほど聞きたくもない悪評が目立ってくる。
「これはオレにとってただの仕事だし、オレを通じてバスケに興味持ってくれたら嬉しいですよ。色んなこと言われてんのは分かってます。昔のオレなら気にしてたけど、今のオレは気にしないッス。深津さんとか家族とか、オレにとって大事な人は分かってくれるから」
「生意気ピョン」
「大人になったんですよ」
パネルに嵌め込まれた写真をじっと見つめている深津の顔はどこかぽわぽわとしていた。
「大人か、確かにお前は大人になったピョン」
異国で鍛えた体に技術、そしてスポーツへの姿勢。もう十七歳の子供じゃない。
ふと、そんなことを思うと自然と引き寄せられるように深津はキスをした。「あっ!!」という叫び声は夜の街によく響いた。キスをしたのは生身の人間の方ではなく、煌々と光るパネルに嵌め込まれた恋人の方だった。
「もーーっ、きったないなあぁ‼」
深津の唇をゴシゴシと服の袖で乱暴に拭った。
「お前以外の男とキスしちゃったピョン」
「おっ、」
沢北は深津と自身のパネルを何度か見比べた。それは自分自身であるが、実際のところ自分じゃない。そう言われると笑顔で証券会社の宣伝をする自分が腹立たしく思えてきた。これは浮気になるのか、そもそもパネルに嫉妬するなんて子供みたいだと叱責しつつも沢北は手が震えていた。
「お仕置きして欲しいピョン」
「おっ、」
酔っ払っているんだろう。目が座ってる。滅多にそんなことは言わない恋人の誘いに沢北は自ら心の中で「落ち着け、落ち着け」と戒めた。だがそんなことを知ってか、深津は沢北の手を取った。
「今日はお前の好きにしていい、だからお仕置きして欲しいピョン」
む、と照れ隠しのように唇を尖らせた恋人を見下ろして沢北は己の理性と葛藤したが、当然負けるのは理性だった。繋いだ手をより強く絡ませて引き寄せた。無言で歩き始めた恋人がどこへ向かうのは分からない程、もう子供じゃない。久しぶりの再会に期待していたのは沢北だけじゃない。
あんな電光パネルなんかよりも、もっと熱いキスをしてやるのだと心に決めて男たちはネオン街へと消えていく。