尾月真ん中バースデー 付き合って初めてのバレンタイン。
今まで浮かれたバカップルたちの狂騒で迷惑極まりない、ぞっとしないと内外に公言して憚らなかったわけだが、今年は別だ。
恋人が出来てのぼせ上がっているわけじゃない、決して。
ただ、恋人になった月島さんは律儀な人だ。きっと何かしようとするはず。それを邪険にするつもりはない。なんたって俺は彼の恋人だ。
そんなことを思っていた二月十四日当日。
朝から忙しない仕事と、同僚たちの義理配布を受け取りながら月島さんから貰えるのを今か今かと待っていた。
まあ、顔には出さない。
いつも通り大して好きでもないチョコを受け取り、中身を覗いて値段を推測する。
お返しの相場というものがある、というのは社会人になってから初めて知った。
三倍返しなんて馬鹿なことは一体誰が言い出したのか。
積み上がる義理の山を他の同僚を巻き込み最低限の支出で済ませる。
はあ、だからバレンタインは嫌いだ。
月島さんが恋人にならなければ一切気にも止めていなかったし、何なら外回りで直帰の営業や出張、なんなら有休を申請し不在にするのが常だった。
だが、何度も言う。今年は別だ。
そうこうしている内に、昼休みが過ぎ、気付けば終業間際になっていた。
おかしい。
月島さんから何の接触もない。
色とりどりの箱の山を一瞥する。
欲しいのは月島さんからのであって、こんなもんじゃねえ。
イライラしてくるその押し込めながら、残りの仕事していると同僚の宇佐美がこちらに歩み寄ってきた。
「荒れてんね、百之助」
うるせえ黙れ。
それを思わず顔に出したのだろう、睨みつけた俺に宇佐美は肩を竦める。
「自業自得だろ?」
何やら訳知り顔で俺のデスクの端に置いている廃棄物の山から一つ手に取り、軽く振る。からからと軽い音がした。
「欲しいならやる。どうせ捨てる」
「要らないよ、呪われそう。大体お前自分で言ってたろ、月島係長もモテるやつは大変だなって言ってたし」
「は? 何のことだよ」
「バレンタイン嫌いなんだってずっと言ってたじゃん。だから気を利かせてるんじゃないの、ばーか。墓穴って言うんだよ、それ」
煽ってくる言葉も今は俺の鼓膜をすり抜ける。
自分の過去を顧みた。確かに毎年言っている。言っておかないとこの倍、いや三倍くらい要らないものが積まれるからだ。ただ、それは恋人じゃないどうでもいいその他大勢に対しての話で、バレンタインそのものとかそう言う意味じゃない。
「お前に何がわかる」
「わかるよ、朝からそわそわそわそわしちゃってみっともない」
「あぁ? 喧嘩売ってんのか」
「ふーん? 別にぃ? まあ買うって言うんなら受けてた……いでっ?!」
「ゔぇっ?!」
ごん、ごん。
鈍い音が二つ続く。
その一つは俺の頭からした。目の前に火花が散るかと思った。衝撃と痛みに思わず頭頂部に両手で触れる。
俺は反射的に視線を上げ、その先の主に気付くと顔を顰めた。
それは朝から探し求めていた人の姿だった。
仮にも社会人二人に対して鉄拳制裁はどうかと思うが、この人のキャラクター的に許されてる節がある。下手したらパワハラ暴力で訴えられかねんが。
「お前ら二人とも暇ならさっさと仕事終えて帰るんだな」
「はぁーい、あーあ。百之助のせいで余計なことになった」
肩を竦めてさっさとその場を後にする宇佐美の声を聞きながら、俺はじっと月島さんを見つめる。もしかしたら終業後に人目につかないようにチョコを持ってきてくれたのではないかという期待に胸が膨らむ。
その目線に気付いたであろう月島さんは、けれど何も持っておらず軽く首を捻り、頭を抑える俺の手を上から軽く叩いて何かを言いかけたが、向こうで月島さんを呼ぶ声にあっさり行ってしまった。
その日は、それで終わった。
本当に何もなく終わった。
「俺は、月島さんと付き合ってたんじゃないのかもしれん」
ざわめく居酒屋の一角で、俺はジョッキを煽る。
半分くらい胃に流し込むとテーブルに叩きつけるように置いた。
声が泣きそうなのはバレてないといい。
「お前さあ、いやぁ……そんな死にそうな顔、初めて見たんだけど」
対面に座る杉元は頬杖をついて微妙な目線を向けてくる。うるせえ、黙れ。
悪態も口から出す気力がない。
翌日も、その翌日も。
月島さんからのアクションはなかった。
それを月島さんに問いただすなんてダサいことが出来るわけもなく、捨てるはずのチョコの山と、居酒屋の奢りを餌に杉元を引っ張り込んでこうして内心を吐露しているところだ。宇佐美と杉元、この二人が俺と月島さんが付き合っているのを成り行き上知っている二人なのだが、宇佐美なんぞにこんな相談はしたくない。それならまだ杉元の方がいい。
こいつも本命のチョコを沢山もらうタチだが、そのチョコは知り合いの子供たちに本命義理関わらず全て渡すらしい。俺の分も増えるときっと喜ぶと言うのでちょうど良かった。どうせゴミ箱に行く予定なら適材適所に配布された方が世のためだろう。どうでもいいが。
「なんていうか、重症だなあ」
遠い目をしている杉元はしみじみ呟いている。
「普通、恋人ならそういうイベントには何かあるもんだよな」
「まあ……お前ってお付き合い初めてだっけ。でも相手は月島さんだし」
「てめえに月島さんの何がわかる」
「あー、はいはい。っていうか、間違いなく付き合ってるからお前ら」
思わず顔を上げて杉元を見る。仕方ないな、と言う困ったような笑い顔をしているのが腹立たしいが続く言葉を大人しく待った。
「月島さんからも、尾形が可愛いんだが俺の目がおかしいんだろうかとか言われたことがあるし」
恋というのは殊更単純な思考回路を形成していくんだろう。
その第三者からの月島さんの言葉だけで、泥の中に沈んだ気持ちが僅かなりとも浮上する。
ただ。
「なんでてめえの前で、月島さんが言ってんだよ」
思わず八つ当たりをする。そう思ってるなら俺に向かって直接言ってほしい。たまに抱きしめて頭を緩く撫でてくるのはそういう意味なのだろうか。
「俺に言われても困るって。それにチョコ欲しかったんなら、お前から渡せばいいじゃん。別にどっちから渡したってダメな理由があるわけじゃないだろ」
「……なるほど?」
すっかり貰う気でいたが、どっちが女であるわけじゃない。もしかしたら恥ずかしくて行動に移せなかった可能性だってある。それに、俺の考えが凝り固まっている可能性があったか。月島さんだって俺から貰えると思って待っていた可能性だってないわけじゃない。もしかしたら誰かにこうやって愚痴っているかもしれない。
それはそれで腹が立つな。
うん、きっとそうだ。なら俺から渡せば万事解決だ。
杉元との酒を早々に切り上げチョコを買おうとしたが、バレンタインはとうに過ぎ、世間はホワイトデーの様相を示している。別にチョコである必要はないのか。それなら何がいいのか。
迷っているうちに俺に出張の会社命令が下りた。
二月の終わりまでの十日程。帰ってくるのは二十六日。暖かい地方なのが唯一の救いか。
出張自体は恙なく過ぎていった。
出先機関の視察なんだから特別大きなトラブルがあるわけじゃない。そもそも十日も必要なのかと愚痴りそうになりながら俺は最終日をホテルで迎えていた。
特に何か予定があるわけじゃない最終日。そのまま帰っても、観光をするも好きにしろという予備日だ。
そんな折、スマートフォンが明滅しているのに気付く。
そう言えば寝る前に消音にしていたなと思いながら手を伸ばす。
通知画面には月島さんの名前。
半分眠っていた意識が無理やり引っ張り出された。
スマホを落としそうになりつつ、大きく深呼吸をしてからそれを開く。
『出張お疲れさん。急なんだが、今日帰りだよな? もし良ければうちに来ないか?』
簡単にそうとだけ記載されたメッセージだった。
珍しい誘いだ。そして俺に断る理由は皆無だった。
即了承を返信し、画面を伏せる。
大きく息をし直して上がりかけた心拍数を落ち着ける。
出張中ずっと頭の隅に残っていたバレンタインのリベンジにちょうどいい。
チョコなんて今更だが、家デートとなると持参の土産があってもおかしくない、そうだ。
恋人と言えば、指輪か。
そう考えた俺はさっさとチェックアウトをして出張先の宝石店に向かう。
並んだ指輪たちと、その値段、そして何より指のサイズがわからないことに購入を思い留まる。
流石に、指輪は急すぎるか……?
もしかしたらガラスケースの前で百面相でもしていたのかもしれない。店員の訝しげな視線に緩く首を振って一度店を後にする。
サプライズにプレゼントするにも、サイズが合ってないとなると意味がない。これは次回か。
店の外に出ると小さく唸る。
そうと決まれば別のものを考える必要があるな。
初めて月島さんの家に行くのだから、あまりぶっ飛んだものは駄目かもしれない。
店の並ぶ通りを一瞥する。
その中で目についた店へ足を向けることにした。
結局無難に、米が好きなあの人へご飯のお供セットを購入することに落ち着く。これだけ見ると御中元やら御歳暮の贈り物に見えなくもない。店員にのし紙は必要かと聞かれた。
一応、プレゼント用ということでリボンを巻いてもらった。緑のリボンは月島さんのたまに見える目の色にした。日中はあまり見えない。夜、たまに光の加減でそう見えるんだが、本人は知っているのかわからない。
出張中の報告書などは上司にすでに出先から送っている。家に帰ってもすることも特にないため、俺は最寄駅を降りてそのまま月島さんの家に向かう。
気もそぞろで落ち着かない。到着予定時間は伝えていたが公共交通機関の努力により少し早めについた。
部屋の前に立ち、インターホンを鳴らす。
スピーカーから雑音混じりの月島さんの声がした。
『少し待ってろ』
すぐに開かれると思っていた扉は、けれどそうはならなかった。
別に外で待つのは苦ではないが、なんだろう。
予定時間より早かったからまだ部屋の片付けでも出来ていないのか。別に気にしないが。
時間にして五分ほど経っただろうか。
がちゃりと鍵の開く音がした。
置き場のなかった視線を扉に向ける。
けれど何もそこから変化がない。鍵の開く音じゃなかったのか?
訝る俺に、扉のすぐ向こうから月島さんの声がした。
「開けて入ってこい」
……どういうことだ? 中から扉が開きにくいなんてそんなこともないだろうに。
疑問符を頭に浮かべながら、スーツケースを後ろに避けて扉を開ける。
途端。
ぱぁん、という乾いた音と目の前に飛び散る色とりどりの紙片。
発砲音にも聞こえ身構えるが、一瞬遅れてそれがクラッカーであることを理解する。音源は何やら嬉しそうな様子だった。数本頭や肩に引っ掛かる紙テープを摘み、月島さんに視線を向ける。
出た声は内心の困惑をそのまま音にしていた。
「え、っと……これって?」
月島さんはサンダルを履いて土間に下り、俺が避けたスーツケースを中に引き入れながら答える。
「今日は俺とお前の真ん中バースデーってやつらしい。ってことで、おめでとさん」
「は? 真ん中、何?」
困惑から抜け出せない俺を尻目に、月島さんは遠慮なく俺の背中を両手を当て力を込め室内に押し込む。
その力の強さに逆らえず、なし崩しに靴を土間に転がしリビングへ向かうと、端に設置されたテーブルの上には何やら大小様々な皿が並び、その上には色とりどりの料理が乗せられていた。
チキンレッグやらサラダ、何故かちらし寿司らしきものに、大鍋にあれはシチューだろうか。エビチリらしきものもある。和洋折衷だな、と思いながら見ているとテーブルの壁際、俺から一番遠いところに控えめな大きさのケーキもあった
白いホイップが塗られ、表面と上面にイチゴが散らばり、その上にチョコレートの板が乗っている。
「ほら、そっち座れ。上着はここにかけておけばいい」
「あ、えっと……はい。あの、これって」
戸惑いを残しつつ、言われるままに椅子に腰掛けるとプレートに書かれた文字が見えた。
『ひゃく&はじめ ハッピーバースデー』
可愛らしいフォントでそう書かれていた。
ひゃくは多分俺で、はじめは月島さんだろう。
いや、だが誕生日は既に過ぎているし、月島さんのも確か先だったはず。
そこでようやく『真ん中』の意味に思い至る。正確な日付は知らないが、俺と月島さんの間なら多分この時期だ。聞いたことのない言葉だが、多分そうなんだろう。
「ろうそくの数ってこういう時どうするんだろうな。俺とお前の年齢差くらいの本数なら立つか」
冷蔵庫から何かのボトルと、缶ビールを手に戻ってきた月島さんは、それらをテーブルの上に置いてケーキを眺める。
「あの……これって」
もう一度同じ言葉を口にする。月島さんはケーキから俺の方に視線を向けて、照れた様子で口を開く。その様子が可愛いと思った。
「この歳でお互いの誕生日を祝うのも今更だろう。照れくさい。それにお前はバレンタイン嫌いだって言ってたから、こういう風にまとめて一回くらいなら、いいかなってな」
「ずっと考えてたんですか?」
「ああ……まあ、そうだ。俺もお前と付き合えて浮かれてるんだよ。恋人っぽいことがしたくなった。だから妥協してくれ、そのついでにこの席に付き合ってくれると助かる」
椅子に腰掛けてワインボトルの栓を開ける月島さんに、椅子を倒さん勢いで立ち上がり歩み寄ると衝動のまま抱き締めた。慌てた声と、ボトルをなんとかテーブルに戻す所作を視界の端に留めながら、これまた衝動に任せた言葉を俺の口は吐き出していた。
「大好きです。結婚してください」
月島さんが腕の中でフリーズしたのがわかった。
腕の中から覗く頭や耳、頸が赤く染まっている。多分嫌がられてはいない、と思う。恐らく。
「……お、おう?」
勢いに任せてしまった自覚はあるが二の句を継げないままだった俺の耳に届いたのは、承諾なのかなんなのか判断に困る返答だった。
月島さんが俺に用意したプレゼントは、部屋の合鍵だった。
それに応えるために翌日、腰の痛みを訴える月島さんを連れ指輪を買いに行ったのは、二人の秘密にしておく。しばらくは。