「ボス、随分お悩みのご様子で。私で良ければお話お聞きしますよ」
「チェズレイ。……うん。しょうもない話だけど付き合ってくれるか?」
「ええ、いくらでも。」
「……ありがとう」
憔悴した様子のボスに湯を沸かすためと前置きして、キッチンに向かう。沈んだ空気を入れ換えるため、窓も開けた。
少しだけ風が冷たいが、暫く開けたままでも問題はないだろう。
何度か溜息を聞きながら完成したカモミールティーをカップに注ぐ。
蜂蜜の小瓶とミルクを添えて渡せば、ボスの手で澄んだ黄色はたちまち白く変わった。
隣に座り、自分のカップに口をつける。
横目で見ればカチャカチャと音を立ててスプーンでかき混ぜた後、軽く口づけて、ソーサーに戻す姿。
こちらを見て、小さく口を開いて閉じて、また少しだけカップに口を付けて。
せわしなくそれを何度か繰り返し、カモミールティーが随分温くなった頃、漸く言葉が発された。
「あー……、あのさ。これは僕の勘違いかもしれないんだけど。
…僕がキスしようとすると、避けられてる気がするんだよな」
「……へェ…。それは穏やかではありませんねェ」
ボスがモクマさんと付き合っているのは周知の事実となっている。上辺は優しいあの男はこの光を手に入れたと言うのに、そんなぞんざいな扱いをしていると言うのか。
「だから、僕のことなんか飽きちゃったのかなって思ったりして」
冗談の一環にしたかったのだろう。軽口を言うような口調が空笑いで力なく終わる。
「他のスキンシップも減ったりしているのですか」
「いや、モクマさんからしてくれることはあるよ。キスも……、その、……夜のも、変わらずしてくれるし」
取っ手を持つ手に力が入った。
つまり自分のヤリたいときだけ手を出して、相手の望む時は応えないと。
下衆を通り越して下劣なのではないだろうか。この健気でまっすぐなボスに対してのこの行い。余程の理由がなければ許せるものではないだろう。いや、理由なんてなんでも許せるものでもないが。
私とモクマさんの約束を考えれば、歌っても構わない事象なのではないか、とは片方の言い分だけで決めつけるのはまだ早計だろうか。
「あ、でも前よりキスしてくれることも減った、かも……」
つう、と目尻から雫が垂れた。慌てて服の袖で目をこする手を制してハンカチを手渡す。
やはり、許せるものではないな。
「……ボス、こちらを」
「ありがとう、チェズレイ」
「この程度どうということもありませんよ」
感情が落ち着くまで寄り添って、刺激しないようゆっくりと声をかけた。
「ボス、モクマさんの気持ちが離れたのなら、あなたはどうしたいですか」
「…そんなの、まだ考えたくないよ」
心はまだ離れていない。なんといたましいことか。
「では、そうですねェ。 私で手を打ちません?」
「はは、君でもそんな冗談言うんだな」
「こんなに真摯な男は他にいないと言うのに」
「いや、世界的な詐欺師に言われてもな」
「フフ、少しは元気が出たようで」
時計の針は随分進んでいて、深夜と言うのに相応しい時間だ。冷たいカップの中身を飲み干した。
「ボス、このカモミールティーは緊張を和らげ、リラックスを助けます。安眠によく効くかと。ゆっくり休んでくださいね」
暗示のよく効くボスへ、あえて効能を伝えておく。
「うん。おやすみ」
「おやすみなさい。どうぞ良い夢を」
洗い物と戸締まりを済ませて、リビングを後にする。
ボスの部屋の明かりは消えているようだ。
自室には戻らず、屋上へ靴音を響かせる。
「……怪盗殿」
「なんの用だよ」
「お分かりでしょうに。聞こえていたでしょう?」
舌打ちが聞こえたが去る気配はない。続けて良いのだと判断した。
「とある人物の捕縛を手伝っていただきたい」
「報酬は」
「対象と手合わせを存分に」
──────
「さて、モクマさん。いい加減観念していただきましょうか」
「えっと、なして?」
「あなたならお分かりでしょうに。」
「いや、本当にわかんないんだけど?」
「おっさんが大人しくなったら教えてやるよ」
オフィス・ナデシコの地下、ダンスの練習用のガラス張りの部屋で怪盗殿とモクマさんの追いかけっこが行われている。
唯一のドアを私が塞げば密室。音楽をかけることも想定しているこの部屋は防音の面でも優れている。今ボスはナデシコ嬢と出掛けているが、万一戻ってきたとしても中の声は聞こえない。
力では怪盗殿に分があるかもしれないが、素早さではモクマさんが上だ。どうにも捕まりそうにないまま早半刻。
仕方ない。
怪盗殿の方が私に近い位置に来たタイミングで声を張る。
「ド」
「……は?! そこまでやる?」
「レ」
モクマさんは催眠が成る前にこちらを狙いに来ざるを得ない。こちらに踏み込む足音が大きく響いた。
「ミ」
モクマさんが乱暴に私の口を手で覆う。
それを羽交い締めにする怪盗殿。
ここまでする程のことなのかと感じて逃げるのを諦めたたけかもしれないが、勝負は決着した。
「で、なんでおじさん2人から熱いモーション受けてる訳?」
「……モクマさん、ボスの事はもう飽きたんですか?」
「え? なんで?」
意味が分からない、と首を傾げるモクマさん。
フリではなく本当に分かっていないようだ。
怪盗殿は抵抗をなくしたモクマさんを更にキリキリと締め上げている。
「ボスを泣かせておいて何を言う」
「え?ルークが……って、なんで? 昨日だって昼一緒だったしその時は元気そうだったけど」
「都合の良いときだけ弄んで、ボスからのお気持ちも受け入れないその下衆な所を嘆いているのでしょうよ」
「んん? お恥ずかしながらまだ話が見えないっちゅうか」
これ見よがしに溜息を落とした。
「ボスのスキンシップを拒むのは事実でしょう?」
「…………。 ……ああ…、そういう…。 そっか、心配かけちまってるのか」
「ようやくお心当たりに行き当たったようで」
モクマさんが怪盗殿の腕から抜けて、そのまま床へと胡座をかいた。
「いやね、俺さ。 最近胃もたれ気味でさ」
しょうもねえな、と怪盗殿が呟いた。
私もそうは思うし、話の続きは読めたが本人の口から弁明を聞いてみたい。
「それがなにか?」
「最近ルーク、シュークリームにハマってるじゃない。
それで、さ。 …………ルークとキスするだけで胃もたれするんだよ」
思わず怪盗殿と目を見合わせた。凄く疲れた顔をしている。おそらく私もそうなのだろう。表情を取り繕う気すら起きない。
アマアマ☆ルールーの新作シュークリームは、店主好みの甘さのホイップクリームとカスタードクリームが存分に詰められた暴力的な美味しさの逸品だ。熱烈にその魅力を語るボスの姿はよく覚えている。
「はずれ饅頭まではまだなんとかなった。 でもあのシュークリームはさ、ちょっとツラいっていうか……。この歳になるとああいうのあんま食べれなくて」
「それでボスのキスを避けて悲しませたと」
キス以外には問題ないからセックスはする。
自分からキスすることはあると言うのは甘くないものを食べた時や歯磨きの後と言うところだろうか。
なんて馬鹿らしい話だろうか。
一言言えば解決するのだ。ボスは優しいからその程度受け入れる。
それなのにその手間を惜しんだのはこの男。
「んなもんのためにこんな茶番をさせられたのか?」
「……その程度の覚悟で、ボスを独り占めしようと?」
私なら自己催眠をかけて付き合うことだって出来るのに。
キスは歯磨きをしてからと、とルールを設けるかもしれないが、理由も知らせず不安にさせるような真似はしない。
「怪盗殿、ボスにこんな助言をしようと思うのですが」
「あ?」
「どうやらモクマさんは恥ずかしがり屋なようですから、キスがしたいなら予告すればいい。 モクマさんもボスのことを思っていますから、心の準備が出来ていれば拒むことなんて有り得ないでしょう、と。……どう思います?」
「ま、いいんじゃないか? おっさんなら恋人のキスくらいいつだって受け入れてやるくらいの度量、あるだろ」
「え、そういう方向?」
どこに自分が配慮される方になると思う要素があっただろうか。
「当然の結論では」
「オレもたまにはドギーに餌をやるかな」
「あー……、もしかしなくてもシュークリームを?」
不敵に笑う怪盗殿は、当然シュークリームを用意するのだろう。
「この助言でボスの涙が止まらないなら、次はありませんよ」
部屋の鍵を怪盗殿へと投げ、後はご自由にと報酬を渡して部屋を立ち去った。
──────
二人ともあのクリーム舐めたことがないから好き勝手言えるんだよな。まあ、こんなことでケチが付くのも勿体ない。
シュークリーム食べてるときの幸せそうな顔見ると、つい苦手って言い出せなくなる俺も悪い。
そう、甘かろうとこってりだろうとキスを受け入れると決意で数日。
「あの、ですね。 …キスしたいです」
夕飯の後、しっかりとデザートのシュークリームを食べて落ち着いたタイミング。
初々しい恋人は緊張した面持ちで言う。
とんでもなく可愛い。
「なんかこっちまで緊張しちゃうね」
多分、これを断ったら本気でルークを奪いに来るんだろうな、あの2人は。最終猶予のようなものなんだろう。別に離すつもりはないんだけど。だってルークは俺のこと選んでくれたんだもの。
死ぬほど甘いキスは、毒みたいだ。
けれど飲み干すのが愛だと言うなら、胃薬飲んででも付き合おうじゃないか。
舌を絡めて漏れる甘い声に熱い吐息。そっちならいくらでも食べられそうだ。
そのまま毒を美味しい皿までいただく事が増えて、ルークの心配も解消できたらしい。
なんで決まってルークがキスしたくなるのが甘いものを食べた後だったのかと思えば、要は夜のお誘いだったと察したのが暫く後。流石にクリームの甘さにも慣れた頃だ。
夜、その他のやることを終えて落ち着いた時間となれば当然夕食もデザートも食い終わった後になる。
まだ羞恥が残っているのに誘って、何回もかわされたら悲しくもなるか。
そんな訳で甘い甘いキスの後、毎回のように体を重ねていたものだから、気がついたら甘い香りがするだけで条件反射でルークとの夜を思い出すようになっちまった。
もうミカグラを経つ日も近い。これからはそう会える訳じゃないと言うのに、店の前を通るだけで欲情してたら生活がままならないだろうが。
焼き立てワッフルを扱う店舗の前で立ち止まった俺に、チェズレイがからかい混じりに言う。
「おや。 ……犬の役はボスの専売特許かと思っていたのですが」
犬に鐘の音聞かせてから餌あげてたら、鐘の音聞くだけで涎を垂らすようになったって話だっけ。
立派に躾られたようだよ、おかげさまで。
「可愛い恋人へお土産買っていこうと思っただけなんだけど?」
「そういうことにしておきましょうか」
甘ったるくて、そのくせずっと腹に残る。
これだから、クリームなんて嫌いなんだ。