彼岸花と黒猫の夢 1
私は黒猫だ。名前はない。時折私をみかける子供が、「あ、クロだー」というなんの捻りもない名前で呼ぶが名前はない。
ないと言うより、捨てたというのが正しいが。もう呼ばれることの無い名前を、いつまでも持っておく必要は無いだろう。
猫生(びょうせい)がくるったのは、私の飼われていた商家のある地域で流行った外国の読み物が原因だった。
「黒猫は不幸の象徴である」ーーそんな迷信が広まったせいで、それを信じた奥方によって私は捨てられた。
とんでもない話である。元々は黒猫(わたし)を縁起物、魔よけ物として大喜びで迎えたくせに。とんだ掌返しじゃないか。
そんな風に前の住処への恨み言を吐いている私ではあるが、最近ある日課ができた。それは流れ着いた町の、ある武家屋敷の庭を散歩することだ。なんだかんだと言って人間の生活圏から抜けられないのは、優しくしてくれた人間たちへの期待と未練が残っているからなのかもしれない。
さて、この屋敷には少し前から一人の男が養生していた。屋敷の住民の話を聞く限り、この家の次男坊である彼は肺結核で余命幾ばくもないという。
たしかに、男の顔色は悪く、世話をする老婆に頼らなければ立てもしない。傍らには、赤い刀が一振だけ飾られていた。
病に冒された男と、振るう者を失った刀。そんな寂しいふたりぼっちが、まるで互いに寄り添うようにひとつの部屋で過ごしている。そのすがたは、なんとも言えない寂寥感をかきたてた。
私はよく、男が襖を開け放しているこの離れに面した庭にいた。季節は秋、彼岸花が鮮烈に咲き乱れるこの庭は、まるで絵のように美しかったからだ。
決して、男が心配だからという訳では無い。そう思いながらしっぽを振りつつ休んでいると、伏せっていた彼が目を覚ましたのか体を起こす。
しばらくぼうっとしていた彼は、ふと私に気づいて不思議そうな顔をした。夢の中にいるかのように、ぼんやりとした口調で呟く。
「.......あ」
虚ろな目が、同じように彼を見すえる私を捉える。それに嫌悪は感じられないが、逆に友好的な感情も見られなかった。
「.......猫だ」
そういった彼はしばらく私を見ていたが、やがておもむろに体を動かす。ゆっくり、ゆっくり。誰の手も借りず自力で起き上がった彼は、息を乱しながら刀の前まで這っていく。
意外な姿に驚いていると、彼は刀を掴んでこちらに戻ってくる。襖につかまってやっと立ち上がった彼は、こちらを睨みながら刀の柄に手をかけた。
「俺はーー.......」
そう言って、彼は刀を引き抜こうとした。しかし、力が入らないのかそれは未遂に終わってしまう。呆然と見守る私の前で、彼は自嘲の笑みを零す。
「……やっぱり、斬れない」
男は呟いた。情けないような、悔しいような、そんな感情を湛えた表情が大きく歪む。呆然とそれを見送る私に目もくれず、男は泣きそうな顔をした。
「――あれ……ソウタロウさん!?」
その時、老婆の声がした。顔を上げた私の目に、こちらに駆け寄ってくる老婆の姿が映る。
「……コウメさん……」
男が老婆を振り返った。まるで迷子の子供のように、泣き出しそうな顔をしている。コウメと呼ばれた老婆は困ったように笑い、ついで私を見た。
あれ、とコウメは声を上げた。どうして猫がここにいるのかと言いたげな顔だった。その声に応えたつもりはないのだろうが、ソウタロウと呼ばれた男は小さな声でコウメに言う。
「……ご存知ですか。黒猫は、肺結核を避けてくれるそうなんですよ」
それを聞き、私は驚いた顔で男を見た。よもや、そんなことを聞くとは思いもよらなかったからだ。
「そうなのですか? なら、どうしてソウタロウさんは、今……」
老婆は戸惑った顔をした。遠慮がちに男を見る。それに顔を上げて、ソウタロウと呼ばれた男はやつれた顔で微笑んだ。
「ーーそんな迷信、信じていないに決まっているじゃないですか。それに、こいつが、毎日私のことを見つめているのも煩わしいし……だから斬ろうとしたんですけど」
ダメでした、とソウタロウはなんでもないふうに言う。
その口調は軽かった。暇だから散歩に行こうと思った、とでも言うような。呆気に取られた私の前で、彼はフラフラと立ち上がる。慌てて支えるコウメを気遣いながら、母屋に向けて歩き出した。途中で私を振り返る。
「ーーなあ、おまえ。また来てくれないか」
その言葉に、私は思考が固まるのを感じた。なんだって? 私が、明日も? 私を斬ろうとした、こいつの元に?
冗談だろう、と私は思った。だってそうじゃないか、出来なかったとはいえ彼は私を殺そうとしたのだ。
そんな私の心の声を察したのか、頼むよ、と彼は情けない笑顔で笑う。行き場のない子供のようなそれを見つめながら、私は遠ざかって行く背中を見つめていた。
※
「あ、今日も来てくれた」
翌日のことだった。私はやはり屋敷にいた。昨日の場所より少しだけ遠くに腰を落ち着けた私のことを、ソウタロウは少しだけ不満そうに見ている。
「あまり大声を出せないんだ。もっと、近くに来てくれないか」
困ったような声音でソウタロウは言う。わたしはお断りだという抗議を込めてそっぽを向き、と大きい欠伸までしてやった。
本当は行かないつもりだった。さっきも言ったとおり、こんな奴の言うとおりに来てやるなど冗談ではないからだ。けれど、眠ろうとするとあの男の顔がよぎって、無気力なその目が忘れられなくて気づいたらここに来ていたのである。
今日のソウタロウに、敵意は見られない。弱った体では私を斬れないと気づいたのか、それともほかに理由があるのかは知らないが、困ったような笑顔で私をよんでいる。
正直気持ちが悪い、と思った。目の前で顔を綻ばせている彼の意図が見えない。どうして、昨日とは別人みたいに振る舞うのだろうか。
「なあお前。名前はなんて言うんだい?」
気軽な口調でソウタロウは訊いた。そんなもん、ないに決まってんだろ。そんな意を込めてしっぽを地面に叩きつければ、やつは困ったように笑った。
「そうだよなぁ。お前は話せないもんな。どうしよう」
名前がなければ呼べないし、とソウタロウは独りごちた。適当に猫でもいいじゃないか、と思っていると、彼はぽん、と手を打った。
「ーーそうだ、キヨミツ。お前の名前はキヨミツだ」
そう言って、ソウタロウは少し急くように踵を返して部屋に戻る。刀台に飾ってあった赤い刀を手に取ると、目を輝かせて戻ってきた。
「ほら、これ。兄上の刀なんだけど、これがカシュウキヨミツだよ。この鍔の模様は猪目と言って、これには魔除の力があると言われているんだ」
まるでお前のようじゃないか。無邪気な顔でそういわれて、私は意味のわからなさに顔を歪めた。
こいつは何を言っているんだ。よりにもよって、私を斬ろうとした道具と同じ名前をつけるだなんて。
そんな私の様子などわからないようで、ソウタロウはどこか恍惚とした目で鞘を眺める。「これは兄上の1番気に入りの刀で.......」などと言いながら鯉口を切ろうとするが、移動で体力を使い切ったらしい体はそれを遂行できなかった。
「.......兄上は、どうしてこれを置かれて行ってしまったのだろう」
急に空気が変わり、寂しそうに呟いてソウタロウは座り込んだ。刀を膝に置き、ため息をついて呟く。
私は首を傾げた。兄のことが好きなのはわかったが、ならその兄はどこにいるのだろう。病身の弟と、一番の愛刀を置いて留守にするなどよっぽどの事だ。
「.......兄上は、今大事なお役目で京の都にいるのだ」
ソウタロウは呟いた。私の思考を読んだようだった。
「せっかく幕臣になれたのに、今の世の中は開国へと傾いている。.......私も、肺結核などに罹らなければ、兄上とともにこの国のために働けたものを.......」
悔しげな声音で吐露されたそれを、私は何となく聞いていた。
猫である私には、人の世がどうなろうと構わない。その気持ちゆえの態度だった。しかし猫が相手だからか、ソウタロウは気にすることなく話し続けた。
「私はね、キヨミツ。この病が治ったら、兄上の元に馳せ参じる。このカシュウキヨミツも一緒にだ。.......君、暇なら私の夢が叶うのを見守っていてくれないかい?」
柔らかな目で語るソウタロウを、私はじっと見つめていた。
約束はできないし、何かしらの答えを鳴き声で示すのも嫌だった。私にはそんな義理もない。
しかし、何故だろう。彼に言われると、その通りにしてやりたいと思う自分がいる。自分を殺そうとした相手なのに、そんなことすら気にならなくなってしまうのだ。
昨日のソウタロウの、虚ろな瞳を思い出した。感情をなくして、遠い景色を――いや、まるで長い夢を見ているようなあの瞳を。もしかしたら、ソウタロウは幻想を見ているのかもしれない。そしてそれが覚めた時、自らの体と運命を呪っているのではないかと思ってしまう。
しかしそうなると、この男の誘いが理解できない。私は不幸を呼ぶらしいし、やつも黒猫の「肺結核を避ける」という迷信を信じてはいないようだった。だというのに、ソウタロウはどうして私を傍に置こうとするのだろう。
「頼むよ、キヨミツ。コウメさんも屋敷の者も、兄上の情報は何もくれないんだ。自分で確かめるしかないんだよ」
そう言って、ソウタロウは床にうつ伏せになるようにして私の目と視線を合わせる。迷子の子供のような表情に、私は驚いて彼を見つめ返す。
「昨日も言ったけど、私は黒猫が病を治すとは思っていない。けれど、縁起物、魔よけと言う迷信(はなし)だけは信じて居たいんだ」
3
その日は滝のような雨が降っていた。
ソウタロウの病状は酷くなるばかりであるし、一昨日からはついに起きるどころか目を開けることさえままならない。ぐったりと布団に沈んだまま、なあ、と私に声をかけるのが精いっぱいの様子だった。
「あにうえは、おかえりになったかい」
この雨音ではその言葉すら聞きとりにくい。猫でなければ確実に聞こえなかっただろう。私が首を振れば、ふ、とソウタロウは口角を上げる。
「そうかあ……。一体、兄上はいつになったら……戻られるのだろうな」
悲しそうに笑んだソウタロウは、そう言って目を閉じた。心細い寝息が聞こえてきたので、私は立ち上がる。いい加減、私も兄のことを知りたくなってきたからだ。
辛気臭いソウタロウの顔を、これ以上見たくなかったというのも大きい。またあのお人好しそうな笑顔を見て見たくもないが、とにかく私が落ちつかない。そういうわけで、私は屋敷内を歩いてみることにした。
ソウタロウが私を追い払わないでほしいと家人に強く頼んでいたので、みんな私を見ても追い払うことはしない。コウメばあさんは私のことが気に入ったようで、たびたび餌付けをしようとしているが。
――キヨミツが来てから、宗太郎さんの目に光が戻ってきたの。きっと、あなたのおかげよね。
(宗太郎の兄の太門は、実は幕臣でも京都にいるわけでもなかった。討幕派の連中に引き込まれて人斬り堕ち、その咎で役所にとらえられており処刑まで秒読みの状態で牢獄に囚われていた。
それを知ったキヨミツはどうにかして兄の様子を伝えられないかと牢獄まで行き、忍び込んで兄のいる牢獄まで行く。そして兄の独り言(お家や弟への思いなど)を聞いて帰ってくるが、すでに宗太郎は死んでいた。)
(キヨミツの回想。キヨミツは商家に飼われ、マンジュシャゲから取ってマンジュと言う名前で暮らしていた。
やがてマンジュは捨てられ、自ら名前を捨ててあの商家の人間たちへの恨みを忘れようとした。ソウタロウの屋敷へ来たのは、どうしてもあの商家に似た門構えの家が懐かしくて忘れられなかったから。
「兄のことを尊敬していたじゃないか」「彼が愛用していた刀を飾って」「その名前を私につけて置いて」など悔しさを宗太郎にぶつけながら、清光は町へと飛び出していく)
(太門の処刑の日。早朝目を覚ました太門は、牢獄の外で正座している弟の姿を見る。
それはそうたろうに化けたキヨミツだったが彼は気づかない。そしてかれは弟と「和解」し、晴れ晴れとした表情で処刑場に足を運ぶ)
※
小梅が宗太郎・紫門兄弟の墓参りに訪れた時、墓石の前には一匹の猫が座り込んでいた。
「キヨミツ? キヨミツじゃないかい」
懐かしい姿に顔をほころばせた小梅は、そう言ってキヨミツを手元に呼び寄せようとした。
しかしキヨミツはちらりとこちらを見た後、墓の主に挨拶するようにひときわ高く鳴いてその場を飛び出した。
その姿はやがて雨霧の中に消え、そして2度と見ることはなかった。
終