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    Manatee_1123

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    Manatee_1123

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    霊司郎、カップを割る「…………」
     ――どうしよう。どうしよう。……どうしよう……。
     コップを割ってしまった。
     柾さんが淹れてくれたミルクたっぷりのコーヒーを、ダイニングにいる允さんのところまで運んでほしいと頼まれた。銀色のトレーを片腕に乗せて物を運ぶのにも慣れてきたので、頼ってもらえるのが嬉しくて、できないスキップをしそうになったけどガマンして、調理場から廊下に出た。
     調理場とダイニングは隣同士。食事を運ぶこともあるから慣れた道のはずだった。
     最初は、砂糖のポットがトレーの上を滑った。その時ぼくは進行方向に目をやっていたから、トレーの上を何かが滑る音で異変に気づいた。慌てて砂糖のポットを手で掴んだら、砂糖がトレーの端っこに乗っていたので、腕の重さが加わってトレーが傾いた。
     倒れる、危ない、支えなきゃ、でも砂糖から手は離せない、どうしよう、落ちちゃう、でも両手とも塞がっていて支えられない……。
     ほんの一、二秒の間に、たくさん考えた。でもどうすればいいのかはわからなくて、結局体は動かなくて、落下していくトレーとコップとコップのお皿とスプーンを見ることしかできなかった。落ちていく様は、とてもゆっくりに見えた。
     パリンというより、バン、ゴン、カリーン、なんて音がした。スプーンは無事だったけど、コップとお皿とカフェオレは無残な姿になってしまった。
     心臓がドキドキいって、胸が苦しくなって、動けなくなった。
     謝らなくちゃいけないのに――誰に? 允さん? 柾さん? 影光様?
     その前に割っちゃったことを報告しなくちゃ――何と言えばいい? 割っちゃったって? 落としちゃったって? 砂糖が滑ったって? それとももっと巧妙な嘘を考えようか? つまづいたとか、窓の外に鳥が通ってびっくりしたとか……?
     報告したら怒られる。でも報告しなかったらもっと怒られる。溢しちゃったと知られたらもっともっと怒られるし、コップを割ったとバレたらもっともっともっと怒られる……。
     怖くて手も足も震えて、砂糖まで落としそうだったので、廊下にしゃがんで、ひっくり返ったトレーを震える手で裏返した。廊下はカーペットが敷いてあるから、溢れたカフェオレでシミができてしまう。ポケットからハンカチを取り出してゴシゴシしてみたけど、とても吸水し切れる量ではなかったし、変色したカーペットはどうやっても隠せそうにない。
     立ち上がることもできなくなって、何をしたらいいのかもわからなくて、怖くて、涙が出てきてしまった。ここに来てからこんな事で泣くなんて思わなかったけど、でも今回は一〇〇%ぼくが悪い。いつも「君は悪くないよ」と言ってくれる皆も、今回ばかりはそうもいかない。だってぼくが悪いんだから。ぼくの不注意が悪い。
    「っう……」
     涙がたくさん出てきてしまって、袖で拭っても拭っても止まらない。こんなところで座ってても何にもならないのに。
     片付けなきゃ。コップ、片付けなきゃ。破片が飛んでるから、掃除機使わなきゃ。こっそり片付けるのは無理だな。怒られに行かないと……。
     カーペットはどうしよう。弁償で許してもらえるかな。ぼくのお給料で足りるかな……あ、でも、ぼくのお給料って影光様から頂いてるから、結局それって影光様のお金で弁償するってことになるから、影光様のものを影光様のお金で弁償するのは、弁償にならないのかな……。
    「うぅ……ッ、ひ、っく……」
    「――霊司郎? どうかした?」
    「ッ……!」
     ――ああ、バレちゃった。怒られる。
     允さんの声だ。柾さんなら優しいからそんなに怒らないかなと思ったけど、允さんだとダメだ。怒られる。允さんが樹理さんを怒っている姿、何度も見た。影光様にすら怒れるのは允さんだけだから。
     振り返ることもできないぼくに允さんが近づいてくる。なるべくシミに被せたハンカチを手と体で隠すように真上に乗って、もっと溢れてくる涙を拭えないまま垂らしてしまった。
     允さんは、すぐに気づいた。コップが割れてるって。ひっくり返ったトレーと、それに乗った砂糖のポットも見つけて、何が起こったのかそれで全部理解したみたい。
    「カップ落としちゃったの?!」
    「…………」
     そうです、ごめんなさい。
     そんなたった一言が、喉で詰まって出てこなかった。
     何やってるんだ、バカだな、鈍臭い、やったお前が片付けろ、もうお前には配膳を頼まない。
     そんな声が頭の中に聞こえてきて、怖くて、でも悪いのはぼくなので何も言えなくて、もっと涙が出てきてしまう。体を小さくして、逃げ出して、今すぐ屋敷から出ていきたかった。
    「大丈夫!? 怪我は? 指切ったりしてない?」
    「…………」
    「火傷とかしてたらすぐ冷やさないと。それ淹れ立てだろ? 熱いとか痛いとかない? 大丈夫?」
    「…………」
     首を横に振るのが精一杯で、声は出せなかった。
    「ほんと? 嘘ついてない? カップとか中身とかはどうでもいいから、霊司郎が無事ならそれでいいんだ。だからちゃんと教えて。怪我は?」
    「……ヒッ、ぅ……」
     もう一度、首を振る。
    「ホントに大丈夫?」
     今度は首を縦に振った。体に熱湯を浴びたり指を切ったり、怪我は本当にしていないから。――でもきっと、怪我していても同じように答えただろうな。少しでも怒られる理由を減らす為に。
     允さんは、大きく息を吐いていた。溜め息ではなくて、安心の息だった。
    「良かった……俺の為に運んでくれようとしてたんだね? ありがとう。陶器は破片が危ないから、一緒に片付けよう」
    「っ、う……」
    「怖かった……? 大丈夫、怪我してないなら大丈夫だよ! 俺も割ることあるし、気にしないで。割っちゃうことより、片付けちゃんとしない方が危ないから、片付ける手順教えてあげる。一緒にやろう?」
    「っ、め、なさ……かっ……か、べっ……汚っ……」
    「あぁ、大丈夫大丈夫! 業者が洗浄してくれるし。それに模様付きだから、意外と目立たないと思うよ」
    「ヒグッ……ぅ……」
    「……落ち着いてからにしようか。大丈夫だよ〜」
     ――なんで?
     允さんは、あぐらをかいてぼくの隣に座り込んで、ぼくの背中を優しく撫でてくれた。怒ってる気配は全くない。……それが怖い。
     割っちゃったのに。どうして怒らないんだろう。汚しちゃったのに。なんで責められないんだろう。
     片付けが終わった後で、まとめて怒られるのかな……。
    「……霊司郎、ここに来てからいろんなこと挑戦するようになったよね。すごい成長だねって、この前影光様たちと話してたんだよ」
    「…………」
    「でも俺はちょっと懸念してた。いつかこうやって失敗もするよなーって。影光様は立場上、失敗って『してはいけないもの』って思ってるとこあるからさ……霊司郎もそういう感じじゃないかなーって、心配してた。……俺とか影光様とかに怒られるって思ったんじゃない?」
    「…………」
     そこまでバレてるなんて、もう言い訳もできそうにない。
     恐る恐る頷くと、背中を撫でてくれていた手が頭に移動して、また撫でてくれた。それから、允さんの洗いたてのハンカチを頬に当てられて、涙を拭かれた。
    「人間って失敗するんだよ。絶対。ぜーんぶ完璧な人なんていない。悪いのは失敗を許さない側の方だよ。影光様がどうかは知らないけど、俺は失敗していいと思ってる。だから大丈夫。カップが一セットくらいなくなったって、柾くらいしか気づかないよ」
    「…………」
    「怖がらなくていいからね。俺が怒るのは誰かが不快になる行いをした時だけ。失敗したって誰も不快にはならないから大丈夫。落ち着くまで待っててあげるから、そしたら一緒に片付けようね」
    「…………」
     ――そんなわけない。失敗したらそれだけで迷惑になるときもたくさんある。
     今だって、カーペットを汚して洗わなくてはならなくしてしまったのは、人によっては不快になる。影光様が良くても宿泊に来た人が許すとは限らない。樹理さんや伊村さんが怒るかもしれない。
     失敗は、しない方がいいに決まってる。しないように工夫して、しっかりして生きていかなきゃいけないに決まってる。――でも。
    「大丈夫大丈夫〜」
    「…………」
     大丈夫、と何度も言ってくれる允さんの手は、とても優しい。安心している自分がいる。
     軽い過呼吸はすぐには治らなかったけど、涙はすぐに止まっていた。
     失敗してもいいんだよ、なんて、初めて言われた。この場限りの励ましかもしれないけど、それでも、完璧な人間がいないことも、失敗を許されなければ挑戦できないことも、何となくわかる。
     ここの人たちなら、許してくれる気がする。そう思えたからぼくは、ここで一つずつ新しい挑戦をしてきたんじゃないのか。
     允さんは嘘をついてない。全部が許されるとは思わないけど、今回のことは、怒られずに終わる、のかな。
     そう思うと、余計に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
    「落ち着いてきたね。よかった! 陶器はね、ガラスよりは飛び散らないから、古新聞でぐるぐる巻にして捨てればオッケー。というか、シュガーポットは守ってくれたの? ありがとね、水分吸った砂糖を掃除するの大変なんだよ〜! よかった、砂糖は無事で!」
    「……ごめん、なさい……」
    「うん、謝罪できてえらいね。でもね霊司郎、これは謝らなくてもいいんだよ。誰でもやる失敗だから、何も悪くないよ。この場合の欲しい言葉は、割れちゃったってことだけ。片付けが必要なんだなって、俺が理解できるように伝えてくれたら、それでいいんだ」
    「…………お……おと、して……わ……割れちゃ……い、まし…………た……」
    「もう一回聞くけど、怪我はない?」
    「だ……い、じょう……ぶです……」
    「うん、よし。よくできました! じゃ、片付けよ。このトレー、滑りやすいの俺も気になってたんだよね。これを機に滑り止め買おう。カフェオレも淹れ直すから、霊司郎も一緒に飲もうか。甘くて温かい飲み物は落ち着くよ〜」
    「…………」
     允さんは、なぜか上機嫌になってきていた。変な人だ。でも、影光様にすら文句言うくらい厳しくて優しくて……いい人だ。
     允さんと一緒に手袋の上にゴム手袋をして、割れた破片を片付けて、シミができたカーペットを見て「良い模様が増えたね〜!」とケラケラ笑う允さんはやっぱり変な人だと思った。掃除機で周りもキレイにして、元通り……とはいかないけど、これでよし、とスッキリしてる允さんが怒る気配は最後までなかった。
     だけど、何にも気づいていなかった柾さんの方が怒られていた。申し訳ない気持ちがまた増えた。
    「霊司郎が火傷してたらどうするんだ! すぐに戻ってこないなら様子見に行けよ!」
    「申し訳ありません」
    「な? みんなこうやって判断ミスもするんだよ。でもこれで柾はみんなに気を配ろうって気持ちになる。そうやってお互い助け合って励まし合っていくのがウチの方針。霊司郎も俺らが困ってたら手を貸してあげてね」
     頷いてみせたら、笑顔になった允さんはぼくの背中を激し目に撫でた。
     失敗する、って難しい。怖いし、今回みたいに許されることばかりではないと思う。
     だけど、挑戦してもいいんだという気持ちにはなれた。
    「ロイヤルミルクティにして」
    「え、豆挽いてしまいましたが」
    「え〜、じゃ柾がコーヒー。霊司郎何飲む? 俺と一緒のでもいい?」
    「…………は、い」
    「ロイヤルミルクティ二個ね。あと霊司郎、淹れてる間にトレーをひっくり返しにくくなるやり方教えてあげる。おいで」
     気づけば、呼吸も落ち着いていた。
     ロイヤルミルクティの甘い香りに包まれて終わったぼくの大きな失敗は、次は失敗しないという決心と、允さんとの新しいコミュニケーションで終わった。
     失敗してよかった――なんて、それだけの気持ちではないけれど、ほんのちょっとだけそう思った。生まれて初めて怒られなかった失敗は、ぼくに自信と安心をくれた。
     失敗しないために、たくさん失敗する。怖がらない。ぼくがやらかしても怒られないこの場所が、ここの人たちが、大好きだから。この人たちを助けられるように、いろんな挑戦と失敗をしていきたい。
     そしていつか、ぼくも言えるようになるくらい自信をつけたい。
     失敗しても、大丈夫だよ――と。
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