うたかたうらら 眠る、食べる、温まる、冷やす、ほぐす、安らぐ、治す、楽しむ……。これらはすべて、プラス。
睡眠不足、空腹、怪我、凝り、緊張、恐怖、熱い、寒い……。これらはすべて、マイナス。
呼吸をしているだけの俺たちは、プラスでもマイナスでもない真ん中にいる。どちらかの身にプラスかマイナスに傾く事が起こると、総合的に見て強い影響力のある方に片割れも引っ張られる。真が適温の部屋で常温の水を飲んでいても、実が凍えそうな状況下にあれば、真も同じく寒さを感じる。
プラスとマイナスはある程度相殺される為、実が眠り食い休んでいれば、真は不眠不休でも動けるという利点はある。しかし現実問題、数値が見えるわけでもない。相殺のバランスはそう上手くいかない。
逆に言えば、揃って恐怖や緊張に狂う日があれば、その被害は通常の人の二倍の強さになってこの身に降り注ぐことになる。
――それは、酷く疲弊し切った最悪の夜だった。
始めから不利ではあったのだ。生真面目な『真』の為にフラフラ生きてる『実』ですら、真の感情を相殺し切れなかった所から始まったのだから、始まりの段階でマイナスに傾いていた。
何があったかといえば、何があったわけでもない。ただ多くの人を相手にしただけであった。
俺たちは、影光様や侑臣さんほど社交的ではない。友達や家族といるのはそう苦にはならないが、大人数過ぎるのは苦手だ。混雑した場所、立食パーティー、満員電車、三連休真っ只中の観光スポット……。そういう所へ行くと精神が擦り切れてしまう。ストレスを受け続ける真のマイナスを相殺するのも実の仕事。俺は今日も実をやり遂げていたはずだった。
マイナスは数値として出ない。怪我や空腹はわかりやすいが、精神的なストレスは相殺が難しい。
嗚呼、もうすぐ真が帰ってくる。永遠と話しかけてくるタクシーの運転手へにこやかに相槌を打ちながら、疲弊し切った俺の肉体の一部が帰ってくる。
タクシーが屋敷に着く少し前から、俺は影光様の許可も取らず、黙って湯船に湯を貯め始めた。
「ありがとうございました!」
「はい、はい、ありがとうございます〜」
気さくで面白い運転手だった。何も悪い人ではない。
だけど、こういう日にそういうのはダメだ。些細な刺激すら過大なストレスになる。
「あ、允さん! おかえりなさ――え、なんすか?」
樹理に無言で荷物を預けた真が、真っ直ぐ俺の方に来る。歩きながら衣類のボタンを外し、あとは脱ぐだけの状態になりながら。
するりとバスルームに入った真を通し、俺はなるべく静かにドアの鍵を閉めた。
「…………」
「…………」
精神的なマイナスが増えすぎた時、肉体が一つしかない人はどうやってストレスを発散するのだろう。趣味に興じたりするのだろうか。そんなんで簡単に気分が切り替わるものなのだろうか。自分の肉体と掛け離れた所で処理ができる体質のせいで、自分自身ですべての問題を解決しなくてはならない生活について、想像ができない部分が多い。
まあ、いいや。そんなことは今はどうでもいい。
俺たちは纏っていたものを脱ぎ捨て、裸で相手の皮膚に触れる。肩口から腕を伝い、指先同士を絡ませて、風呂場へ入っていく。
素肌に当たる温かいシャワー。じんわり胸から足へ安心が広がっていく。クイッと手首を捻り導く真と並んで、シャワーヘッドを風呂桶に突っ込んで湯船に浸かる。
水が風呂桶から溢れる音を聞き、身を寄せ合う俺たちはこめかみを合わせて、どこにも合っていない焦点で風呂場を眺める。
昔は手を繋いで目を閉じて、現実逃避をしたものだ。大人になるとそんなものではプラスが足りず、こうして体を温め身を寄せ合うことで精神的な無を作り出し、プラスとはいかずともプラマイゼロくらいになるよう、ただひたすらに、待つ。
手、頭、心を寄せ合い、どういうわけだか分裂してしまった自分の体を感じながら、マイナスが鎮まるのをいつまでも待つ。逆上せないよう湯船の縁に腰掛けたり、俺が持ち込んだ水を口に含み、口移しで分け合いながら飲み干し喉を潤したりする。
「…………はあ……」
「…………」
汗で濡れてくる真の髪が額に張り付き擽ったい。並んで湯船に頭まで潜り、汗も湯も境がわからなくなってしまえと祈りながらずぶ濡れの身を水面に上げる。
「……つかれた」
「ベッドまでいくのもしんどい……」
「髪……実が洗って」
「俺の髪は真が洗うから」
「体はもう、今日は手だけで」
「自分の指以外は触らないでほしい……無欲だ……」
「タオルも不快。指で……」
「……あぁ……だめだ、ねむい……寝るのはまずいよ、まこと……みのる……?」
嗚呼、境がわからなくなる――心地良い。
「……どうでもいいや」
「待つだけ。それだけで……いいんだ、おれは……」
一つの肉体を持つ人は、どうやってプラスを生み出しているのだろうか。
俺たちはこうして、小さなプラスの泡沫を掻き集める時を過ごし、逆上せかけてどろどろに溶けかけてしまうまで、二つに分かれた肌をくっつける。
母親の胎盤にいた頃――一人きりに戻ったような瞬間が、俺の本能の安心という、大きなプラスの泡を生み出してくれる。