盗み見た幸福「あ、あの、これ書類です……」
「どうも、そこへ置いておきなさい」
「は、はい!」
こちらをチラリと見た萌葱色は、そのまま書類へと戻っていく。
妙な緊張感に責められているような気がしてしまう。そそくさとデスクに戻り、ふぅ、と息を吐いた。
「怖ぁ……」
「そう? 寡黙なイケメン、眼福じゃない」
「寡黙すぎますよ……にこりともしないじゃないですか」
同僚は軽く言ってくれる。
苦手な上司に聞こえないよう、小声でやり取りをしているが……聞こえているのではと不安になった。
「でも、怒鳴ったりしないでしょ?」
「それはそうですけど、あの冷ややかな目で見られると……心臓がギュッてなります」
柔らかな緑色なのに、冷たい視線。
何を話しても簡潔な返事で、私語はおろか、プライベートの話は一切しない。
他人に興味がないのだろう。笑っている姿など、想像もつかない……。
「あの人が笑ってるとこ、見たことあるのよね」
「ええ⁉ 笑うことあるんですか、あの人」
「ふふっ、見てみたい?」
つい大きめの声を出してしまい、慌てて口元を押さえた。
ちらりと伺うも、話題の当人は特に気にした様子はない。
こちらに興味など微塵もないのだろう。
……見てみたい。そんな心情を察した彼女が、クスクスと笑った。
「じゃあ業務終了後、あそこに行ってみなさい」
細い指がトントンと窓ガラスを叩く。
この下は、建物に併設された駐車場だったか。
場所をきちんと記憶しつつ、感情を見透かされたことが恥ずかしくて、気が向いたらと返した。
*******
ついつい言われるがまま、駐車場の隅に来てしまった。
そんな自分に少々呆れつつも、キョロキョロと辺りを見回している。
帰宅時刻ゆえ、目当ての人はすぐに現れた。
(もう、帰っちゃうけど……)
スタスタと脇目も振らずに歩き、高そうな車へ近づいて行く。
何かが起こる隙などない。やはり揶揄われただけか。
そう思って踵を返しかけた、その時だった。
「お疲れ様! ダーリンっ」
呑気な声が静寂に割り込む。
思わずその声の主を探して視線を泳がせた。
(……えっ⁉︎)
そして見つけた夕陽色の髪の少女は、今しがた車に乗り込もうとしていた男性の方へ歩いて行く。
腹がぽこりと膨れていることから、妊娠しているのだとわかった。
「はぁ……家で安静にしていろと、あれほど」
「お散歩のついでだもん」
ため息を吐きながらも、ケイローンはどこか嬉しそうだ。
涼しげな花柄のワンピースを纏った少女を、愛おしげに見つめている。
(ダーリン……⁉︎)
衝撃のまま立ち尽くす。
指輪をしていたから結婚しているのかとは思っていたが、想像とは……だいぶかけ離れた奥方だ。
「車に撥ねられたらどうするのです? 私が守れないところで、危ない目に遭ったら……」
「ふふ、ダーリンがこうやって、たくさん心配してくれるのが嬉しいの」
「はぁ……」
深いため息に、関係ないこちらが身を竦める。
叱られるのではないか。ハラハラしながら事の顛末を見つめている。
しかし想像したような展開は、一向に訪れない。
「仕方のない子ですね」
フッと緩んだ、見た事のない上司の表情に息を飲んだ。
えへへと笑った蜂蜜色の瞳の子が、甘えるように彼に擦り寄った。
嫌がる素振りもなく、助手席のドアを開けて彼女を座らせる。
「ねぇねぇ、ハニーって呼んでみて?」
「……それ、どこで覚えたのです?」
「映画で見たの! 素敵でしょ?」
映画のワンシーンにいるような少女が、そう言って片目を閉じる。
ケイローンは扉を閉めて帰りたそうにしているけれど、彼女が足をブラブラさせているからできないのだろう。
「ね、呼んでみて?」
「気が向くことを祈っていてください」
「もー!」
じゃれあいつつ、彼はそっと妻の細い足を車内に押し込む。
繰り広げられる二人だけの世界に、私の頭は働くことをやめていた。
言って言ってと駄々を捏ね続ける少女を宥めた上司は、扉を閉める直前、優しく微笑んだ。
「ほら、おとなしくしなさい。買い物をしてから帰るでしょう? ハニー」
「うん……ん?」
微かな違和感を彼女が感じとる。
それと同時に、我知らずあんぐりと口を開けていた。
あれが自分の知る上司なのか、それとも途中で別人にすり替わったのか……だなんて、真剣に考えている。
「えへへっ、ダーリンっ」
「二度はありません。期待しても無駄ですよ」
「一度でもいーの!」
呆然とするこちらをよそに、二人はいちゃつき続けた。
やがて運転席に彼が乗り込めば、会話は聞き取れなくなる。
しかし楽しげな彼らの表情から、和やかなやり取りが続いているのだという事がわかった。
そしてそのまま、シルバーの車が走り去る。
放心したままその場に立ち尽くす私を、三階の窓から顔を出した同僚が笑っていた。