ひたすらに愛おしいから。 深夜。そっと抜け出したマイルームの扉が閉まる。
普段気にならないようなプシュ、という音が、静寂の中でやたら大きく響いた気がした。
ひた、ひた、と自分の足音を聞いて、スリッパを履き忘れたのだと気付かされる。
戻ろうと一瞬立ち止まり、億劫さに負けてそのまま歩き始めた。
頭から被った毛布をぎゅっと握る。薄い寝巻きをごと私を覆い隠すそれに、守られている感覚。
「ぁ……」
ふと目をやった、大きな大きなガラス窓。
その外側、遥か上空で煌めく星々に見惚れた。
極寒の地には雲一つなく、濃い藍色の空に散りばめられた星がはっきりと見える。
吸い寄せられるように近寄り、ぺたりとガラスに手をついた。
(綺麗……)
上手な例えも浮かばないほど。ううん、きっと美しいものをこの星空に喩えるんだ。
胸がきゅうぅ、と締め付けられるほどに綺麗な夜空。
憧れと、羨望。それらを抑え付ける愛おしさ。
あぁ、この空までもを愛し始めている。
「マスター?」
「っ、あ、ケイローン……」
彼のせいで。
この星空が、単なる綺麗で終われない。
素敵ねと笑って、どこかへ目を逸らせない。
「どうしたのです、こんな時間に……靴も履かないで」
心配そうに眉根を寄せた彼が、寝巻きに毛布を被っただけの私を見咎める。
身体が冷えると忠告されても、ガラスに映った彼を見つめることしかできなかった。
「ちょっと散歩……眠れなくて」
ガラスの中のケイローンがこちらを見る。目が合うだけで、息が止まりそうだった。
苦しい。なのに、ずっとこのままでいたい。
耐え切れず星空を見上げ、煌めきにうっとりと酔った。
「ね、あれって先生?」
「え……あぁ、その通りです。よく勉強していますね」
「えへへ」
だって、あの星座だけを見ていたから。
褒められるほど勉強なんてしていない。すぐ隣の星座の名前だって、朧げなのだ。
そっと隣に立った彼の肩が、ほんの少しだけ私の肩に触れた。
たったそれだけで体温がギュンッと上がって、寒さなどどこかへいってしまう。
毛布を隔てた触れ合いですら、私には刺激が強いみたい。
「……まだここにいていい?」
「本当は、お身体が心配なのですが」
たまにはこういうのもいい経験だと、そう言って萌葱色が柔らかく細められた。
うっかりして、彼の方を向いてしまったものだからたまらない。
「す……」
「ん?」
好きです。と喉まで出かけた。実際少し零してしまった。
危ない。あと一文字で、取り返しのつかないことになっていたところだ。
ごくりと飲み込んだ言葉と気持ちを、懸命に押し隠して生きている。
「素敵、です……キラキラしてて」
「あぁ、星が好きなのですか?」
「……大好き」
こっそりと、意図をすり替えた。
星を通して、目の前の人に愛おしさを捧げた。
彼が少しだけ息を止めたものだから、バレてしまったのかと心臓が痛くなる。
「……そうですか。ならば、今日などは絶好の観測日和ですね」
「うん」
気付かれてはいないようだと、胸を撫で下ろした。
となればもっと、言ってみたい。バレないように、この星空に託けて……普段言えないようなことを、何度も何度も告げてみたい。
なんて愚かで、魅力的なんだろう。
「……ずっと、大好きなの。初めて見た時から……かも」
「……」
まだ、バレていない?
彼はただ黙って耳を傾けてくれる。
「見てると、ドキドキしちゃって……変だよね、でも、止まんなくて……」
様子を伺うこともできない。そのくせ止められない。
口が勝手に、奥深くに隠した恋心を語り始める。
いつしか星空を見上げることも忘れ、ガラスに触れる自分の手を見つめていた。
「あんまり綺麗だから、触れてみたいって思っちゃう……どうなっても構わないから、なんて……あっ」
「マスター」
見つめていた手の甲に、大きな手が重なった。
温かい。私よりずっと。
驚きのあまり、思わず視線をケイローンに向けた。
私だけを見つめる萌葱色とかち合って、時間が止まるみたいに錯覚する。
見つめていれば、薄い唇が開かれた。
「マスター、それは……何に向けた言葉です?」
「っ……」
もちろん、この美しい星々にだと答えればいいだけ。
それなのに、唇を震わせて黙り込むことしかできない。とっくに全てを見透かされているからだ。
そして沈黙は、彼にとって何よりの答えだろう。
「なるほど、承知しました」
「え……きゃあっ!」
にこりと完璧な笑みを浮かべたケイローンは、いつの間にやら肩の辺りまでずり落ちていた毛布で私を包んだ。
横抱きにして、軽々とマイルームまで運んでいく。
「あ、せ、せんせ? どうしたの……?」
「そろそろ身体が冷えたでしょう? うんと温まることを、と思いまして」
「え、え?」
言いながら、彼はどんどん早足になっていく。
マイルームの扉が開くまでの時間ですら焦ったいようで、珍しく急いた様子を眺めていた。
彼は毛布の蓑虫にした私を、恭しくベッドに横たえる。
「嫌ですか? 後戻りができなくなるのは……」
ギシ、と軋む音。
二人分の体重に、ベッドが驚いたのだろう。
ケイローンは私の顔の隣に手をつき、彼自身で閉じ込めるみたいに私を覆った。
だめ、正直になっちゃう。
身体に巻き付けられた毛布のせいで、彼という檻のせいで、逃げ出せないまま素直にさせられる。
「嫌じゃ、ないの……温かくなること、したい」
「……はは、殺し文句ですね」
お腹の辺りがきゅぅ、と切なくなった。
彼が触れれば、拘束にも思えた毛布はあっけなく解けて、薄くて無防備な寝巻きが姿を表す。
萌葱色の視線に晒されただけで、無意識のうちに内腿を擦り合わせていた。
「……もう、止めてあげられないかもしれません」
「ぁっ」
かさついた指先が鎖骨に触れる。
それだけで痺れるような心地がお腹の奥をくすぐった。
もう戻れない。戻りたくもない。
そっと手を伸ばし、彼を……恋人を引き寄せてみる。
目を閉じれば、唇同士が触れ合った。
「先生、すき……」
「……私も、愛しています」
ぶわりと胸に広がる幸福と、ほんの少しの不安。
思わず涙ぐみ、私にとっての星空を見上げる。
覗き込んだその瞳の奥には、私とおんなじかそれ以上の想いが揺らめいていた。