鍋鵠 時間にすればそれはほんの数秒のことだった。
空桑近郊で暴れ回っていた食魘の討伐の最中のことである。やや大型と分類できる体躯の相手ではあったが、鵠羹、鍋包肉、佛跳牆を中心とした古参の面々から連なる一行の攻勢は危なげないものであったはずだった。
だが冷静かつ無比な一撃で顳顬を射抜いた鍋包肉の矢を、断末魔の悲鳴を上げて抜き取った食魘が、最後の足掻きとばかりに投擲して来たのだ。
瀕死とは思えぬ鋭さで放たれた矢は射手である鍋包肉から大きく逸れ、暴投とも呼べるそれが後方で支援に回っていた鵠羹へ運悪く掠めた。
結論から言えば、敵の暴投とは言え反射的に体を引いた彼に直接的な怪我は無かった。だが咄嗟の身躱しであったが故に、彼の特徴的とも言える片側だけ長く伸びた髪の一房が、ブツリと切れてしまったのだ。
「あっ……」
思わず上がってしまった鵠羹の声を聞いた鍋包肉が瞬時に振り向く。食魘は既に事切れかけていたが、佛跳牆が追撃でとどめを刺すに至った。
「鵠羹! 怪我はありませんか⁉︎」
食魘が塵となって消えて行く様を見届けるのも待たず、佛跳牆は彼らしくもない声を張った。
「は、はい、大丈夫です――髪が切れただけです」
「髪が……?」
走り寄った佛跳牆がそっと触れた鵠羹の毛先は、頬に掛かる程度の長さで断たれ、ほつれて長短もバラバラになっていた。
「これは――何といたわしい……」
「いえ、そんな……大丈夫ですよ。髪なら一日経てば元に戻りますから……」
「それはそうですが、貴方の撫子色に薄く染まる白色の髪は空桑における珠玉の美の一つでしょう。それが損なわれるなど……」
眉を下げて切れた髪を惜しむ佛跳牆の後ろで、目を見開いたままにこちらを向いて固まっている鍋包肉の姿を見つけ、鵠羹は首を傾げた。
「……鍋包肉?」
声をかけられても彼はそれに返事をすることなく、乾ききった風に襟足と衣の裾を棚引かせ、金色の瞳で真っ直ぐに鵠羹を見ていた。否――見つめられているようでいてどこか視線が合わないのは鵠羹の目ではなく、ばらばらにほつれた髪の揺らめく様を見ているためか。
困惑する鵠羹とは裏腹に、何かを察したらしい佛跳牆は「おや……」と一言だけ漏らして口許を袖で覆った。
弓を持ったまま真っ直ぐに鵠羹の元まで歩いて来る鍋包肉に、それこそ射抜かれでもしたように鵠羹は立ち竦む。空桑の執事として不覚をとったことに怒っていらっしゃるのだろうか――と表情の読み取れない顔を見つめながらも体を少し縮こめた。
伸びた指で千切れた髪の毛を掬い取られ、未だ大きく見開かれたままの金色が毛先を凝視している。
黙ったままで動けずにいる鵠羹と、一心不乱に髪の毛に触れている鍋包肉を交互に見て、佛跳牆はその場からすっと一歩引いた。
「私は美人に報告を済ませて来ます。鍋包肉――あとは頼みましたよ」
無言のままの鍋包肉の返事も聞かず、また明らかに狼狽えている鵠羹を場に残して、佛跳牆はにべもなく餐庁の方角へ去っていった。
「……あの……、鍋包肉……?」
恐る恐る声を掛けると、金色はようやく呪縛から解けたように一度震え、元の知的な眼差しを取り戻した。
「……少々お待ちを」
理性的な低音が口から発されるのを聞き、鵠羹はほんの少しだけ安堵する。
鍋包肉はやや離れた位置に落ちていた一房の髪の束を拾うと、ゆっくりと金色の髪飾りを抜き取る。
「これを」
「あ、ありがとうございます……」
手渡された鵠羹は恐縮しつつも頭を下げて礼を返した。
「そのままでは流石にいけませんね。私の室で切り揃えましょう。良いですか?」
「は、はい……」
わざわざ髪を切り揃えてくれる好意に感謝をしつつも、空桑をあずかる者としての心構えを説かれるのであれば、恐らくそこでだろう――と鵠羹は力無く俯いた。
もっと彼のように前線に立って、戦闘経験を積めば先程のような不覚を取らずに済むのかもしれないが、後方支援を得意とする能力を持った鵠羹は反射神経や勘と言った才能でどうしても劣る面がある。
空桑の白黒執事、と餐庁の常連の中には二人をそう称して讃えてくれる人もいると聞く。それはとても誇らしいことで、文武両道で常に最善の結果を出す鍋包肉と肩を並べるためには、自分などはもっと修練を積まなければならないのだ――と鵠羹は自らへ言い聞かせながら先を行くしゃんと伸びた背中を追った。
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無言のまま案内されて、清潔に片付けられた西洋風の趣がある私室へ鵠羹は足を踏み入れる。公私共に相方や朋友のような存在である彼の部屋には何度も入ったことはあるものの、やはり緊張してしまう。
ペイズリーの絨毯の端の方で翼を畳んで待っていると、鍋包肉は扉へ鍵をかけた。
そのままクロゼットと思しき棚を開いて中から薄い絹の上衣を取り出し、一脚の椅子を引く。
「此方へ」
主の着席を傍らで待つ忠実なバトラーのような佇まいを見て、鵠羹は思わず感嘆の溜息を漏らしそうになってしまった。
魂力を制御して翼を小さく仕舞った後で、鵠羹はその求めに応じて遠慮がちに引かれた椅子へ腰掛ける。さらさらとした上品な風合いの絹が体の上に掛けられ、軽く袖を通した。
鍋包肉はと言えば、今度は引き出しの中からやや年季の入った大振りな鋏の箱を取り出し、ローテーブルの上へ置く。
「動かないでくださいね」
念押しをしながら丁寧な手付きで箱から鋏を取り出し、普段から身につけているらしいコームを使って鵠羹の髪の毛を梳く。緊張しながらも触れる指先や櫛が心地良く、ぼんやりと鍋包肉の指を髪越しに感じる。
しゃき、と音がして、髪の繊維が断たれる感触に思わず「あ……」と声を上げて肩を竦ませてしまう。
「動かないで」
短くなった髪では隠れない、耳のすぐ近くで鍋包肉が囁く。思わず袖で口許を押さえて、鵠羹は真っ赤になった。
「す……すみません……」
しゃき、しゃき――と、慎重かつ丁寧に切り揃えては櫛や指で撫ぜられ、鵠羹の熱は何故か耳から顔にまで放散していた。時間にしては数分ほどの間ではあったが、何十分も経ったような心地だった。
「終わりましたよ」
鍋包肉の声で息をつき、そっと指で切り揃えられた毛先に触れる。まだ刃の感触が残るそこについ先程まで鍋包肉が触れていたのだと思うと、頬の火照りがぶり返してくるようだった。
「あ……ありがとうございます……あの、すみません……鍋包肉のお手を煩わせてしまって……」
静かに鋏を仕舞い込む鍋包肉は、鵠羹の言葉を聞いて一瞬動きを止めたように見えたが、何も言わずに直ぐにまた手を動かした。鵠羹の肩から絹を脱がせて、床を箒で掃き、黙々と後片付けをこなす背中を見るのは居た堪れないような気持ちになり、視線を落とした。