①1.22 Wed 尾誕 ――おはようございます。1月22日水曜日です。なんと今日は〇〇さんのお誕生日ということで、〇〇さんお誕生日おめでとうございますー!
いつもの朝の情報番組を流しているはずのテレビから、いつもと違う賑やかな音が聞こえて顔を上げた。どうやらこの番組のコメンテーターが誕生日らしい。能天気なハッピーバースデーの曲と共に、白いクリームと赤いイチゴで飾られたでかいケーキがフレームインしてきた。そういうのはいいからニュースを見せてくれよ。
淹れたばかりのコーヒーを飲みながらゲンナリした気持ちでテレビのリモコンを手にしたら、コメンテーターがケーキの蝋燭を吹き消すところで、はたと気がついた。
俺も今日、誕生日だ。
登録した覚えのない、どっかのネットショップから届くバースデークーポンのメールで気がつくのが常だったが、それも煩わしくて退会した。だから俺に誕生日を告げるものはなくなったはずだった。
コメンテーターの女はオーバーリアクションで花束を受け取り、もう喜ぶ歳じゃないですぅとニコニコ笑っている。
そうさ。俺だって大台前のもう喜ぶような歳じゃない。
やっとの思いで去年、自分の歯科医院を開院した。今じゃほとんど毎日予約で埋まり、患者の層もよくスタッフもみんな優秀だ。順風満帆とはこのことかと、帳簿をみながら口元が緩んだのは先月末のこと。何もかも上手く行っている。
なのに何だ、このえも言われぬ空虚感は。俺は満たされているはずなのに。何が足りないというんだ。この女と何が違うっていうんだ。
――今日は誰にお祝いしてもらうんですか?
――今日は結婚記念日でもあるので、夫にホテルのレストランを予約してもらってます!
コメンテーターの女は花束に顔を埋めてはにかんでいる。誕生日に夫とホテルのレストラン?とてつもなくどうでもいい情報だが、また、はたと気がついた。
そうか。俺に足りないのはセックスか。
以前いた恋人とは、開院準備で奔走している間に自然消滅した。その後はすっかりご無沙汰だった。
別に恋人が欲しいわけじゃない。日常に連絡やらデートやらタスクが増えるのはいただけない。サクッと欲が満たされればそれでいい。
テレビはやっとニュースを流し始めたかと思ったら、どっかの動物園でアライグマが立ったとアナウンサーが紹介している。
俺は意識をやっと指先に戻して、テレビを消した。
「尾形先生、お先に失礼します」
「ああ、お疲れ様」
残った最後のスタッフが帰宅の挨拶を告げてきた。彼女は以前勤めていた歯科医院の院長の紹介で来てくれた衛生士だが、優秀で助かっている。
退勤するコートの背中を十分に確認して、スマホに目を落とした。
昼休みにマッチングアプリもダウンロードしてみたが、どうにも馴染みがない上に向こうの写真も怪しいもんだと早々にアプリは消した。
俺は今、ゲイバーなるものを検索している。これまではジムで声をかけてくる男から選んでいたから出会いのためのツールや場は利用したことがなかったが、今から好みの男に出会える可能性を高めるには、同じ目的の人間が集まるところへ行くのが効率的ってもんだからな。
万が一にも患者に会ったらバツが悪い。ここから少し離れた繁華街を検索して、店内写真の雰囲気から適当に店を決めた。
駅を出て、アプリが示すラブホ街方面へ足を向ける。
平日の夜とは思えない人通りに、院を開いたオフィス街とは街の性質が違うのだと肌で感じる。これだけ人がいれば収穫の期待値も上がるというものだ。
大通りから一本入ると途端に静かになった。キャバクラや居酒屋の入った雑居ビルの地下がお目当ての店だ。気持ちを落ち着けながら、ダークブラウンの重厚な扉を引いた。
「いらっしゃいませ。おひとりですか?」
「ああ」
中はオーセンティックバーと変わりのないごく普通の内装。薄暗い照明と落ち着いたBGMが客の表情や声を隠してくれる。駆け引きにうってつけの舞台ということか。声をかけてきたバーテンもごく普通で、初めてのゲイバーに抱いていた緊張が解れていく。
「カウンターでも?」
「うん。響の21年をロックで」
「かしこまりました」
さて、どうしたものか。無事着席してひと心地着いたが、これからが勝負だ。店へ入った時にチラッと見た感じでは一人の客もまぁまぁいるように感じたが……背中に値踏みの視線を感じなくもない。どう出るか……。
平静を装って注文したウイスキーを口にしていると、背後に気配を感じた。
「お兄さん待ち合わせ?俺とどう?」
早速来た。心の中でほくそ笑みながら何ともない顔で振り向くと、そこには信じられないような美丈夫がいた。
意志の強さを表すような切れ上がった目尻と眉、ウイスキーの芳醇な香りを想像させる琥珀色の瞳。通った鼻筋に横断する大きな傷は欠点でなく、その美しさを引き立てる効果を担っている。首から下も相当鍛えているのか、美しい頭が乗るに相応しい美しい体。いい。いきなり好みだ。俺に全身舐め回すように見られても顔色ひとつ変えないのは、自分の外見に自信があるのだろう。自信はプレイの余裕につながる。悪くない。
しかし、いきなり食いつくわけにはいかない。まず一番大事なことを確認する必要がある。俺はネコだ。
「あんたどっちだ?」
「……どっちもいける」
どっちも?バイってことか。この界隈では別に珍しいことじゃない。
男は俺を射抜くように見つめてくる。応えるように顔をまじまじ見ていると、気が付いたことがある。張りと潤いのある肌、少し丸みを残した頬。どう見ても20代……いやこんなところに出入りしていても、下手したらサバを読んだ10代じゃないか?犯罪だけはごめんだ。
君子危うきに近寄らず……だが、さっさと切り捨てるには、やはり惜しい……。
「……随分若く見えるが、いくつだ?」
「……そう?今年21になる。免許証見る?」
野暮かとも思ったが、これも込みでセーフセックスだ。出された免許証を逆算すると、言ってることに間違いはなさそうだと確認できた。それでも21。誕生日前だから20。ということは19差だ。
「俺を抱けるのか?」
「……あぁ」
さっきっから何の間だ。もしかして年上に抱かれたくて声をかけてきたか?だがどっちもいけると言っていた。本当だろうな?
訝しみつつも、この顔の傷に触ってみたくて席を立つと、存在感を消していたバーテンが口を開いた。
「お客様、当店ではお一人一杯ご注文いただくことなっております」
傷の男に対してだ。酒も頼まず引っかけるなよということか。だが、今からしっぽり飲むつもりも無い。財布から1万円札を取り出し、バーテンに差し出した。
「これであんたに同じものを一杯」
「ありがとうございます」
傷の男に目線で店を出るよう合図した。
さすが立地が立地。男同士が入れるホテルは目と鼻の先だった。これもあの店を選んだ理由の1つだ。
適当に部屋を見繕ってエレベーターを待つ。男は店を出てから黙ったままだ。俺に感じさせていた余裕はどこにいった。ヤる気あんのか?
「あんた、本当に俺に勃つのか?」
「……いける」
「はは、ほんとかなぁ」
いけるって何だよ。これは期待薄かもな、と半ば投げやりな気持ちで降りてきたエレベーターに乗り込むと、男は扉が閉まる前にキスをしてきた。なんだ、受け身かと思ったがやればできるじゃねぇか。
応えるように舌を絡めてやると、下腹部に硬いものが当たるのを感じた。嘘じゃないようだな。腹の奥に熱が灯ったのがわかった。
「今日は誕生日だったんだ。精々善くしてくれよ」
そうニンマリ笑って今度は俺からキスをしようとすると、いきなり体を引き剥がされた。
「えっっ!!!」
男は大きな声を上げて固まった。なんだ?そんな驚くようなことを言ったか?おっさんが誕生日祝いなんて軽口、気持ち悪かったか?
お互い驚いた顔で見やっていると、エレベーターは目当ての階についた。変な空気になった狭い箱から抜け出すように目的階へ足を踏み出したら、今度は腕を引っ張られた。
「出よう」
「あ?」
男は1階のボタンと『閉まる』のボタンを素早く押した。
「おい、今更何だよ!怖気づいたのか?」
男の腕を振り払うが、また力強く手首を掴まれ、真正面から目をのぞき込まれた。
「セックスはいつでもできるけど、誕生日祝いはあと2時間しかできないじゃん!!」
「……は?」
は?たんじょうびいわい?何だそれ。今からヤります!という空気をぶっ壊してまで言うことじゃねぇだろう。そもそも初対面の人間に祝われる謂れはない。何だ?やっぱり俺とのセックスから逃げたいのか?
「どうする?カラオケ?ダーツ?ビリヤード?何がいい?」
男は俺からぶん捕ったルームキーを受付に返しながら、弾んだ声で捲し立てる。本気で言ってんのか?頭おかしいのか?
「どれも行くわけないだろう。離せ。ヤらねぇなら別のやつを探す」
「飲みたいならもっといいバー行く?あ、この近く映画館もあるよ!レイトショーとか行く?」
まるでガキのデートコースだ。
「あ!」
精一杯抵抗してもまるで効果はなく、何かを見つけた男に、深まる夜に嘘みたいな明るさで煌々と光る空間へ引きずり込まれた。おい、ここ……
「ゲーセンじゃねぇか……」
「クレーンゲームは?あ、プリ撮る?カーレースもあるよ!あ!シューティングゲーム!俺これ好きなんだよね!!」
力で勝てない。話も通じない。周りはけたたましく鳴り響くアップテンポのBGMとゲーム機の音。未知との遭遇だ……。
「ね、ね、やろ?俺が奢るから!」
早く解放されたい。その一心が言葉になった。
「1回だけなら……」
男は満面の笑みで両替機に向かい、この隙に帰るか?と思いついた時には戻って来ていた。
四角い躯体。両サイドの乗り込む入り口意外に壁があり、中に入ってベンチシートに座ると正面にデカいモニターがあった。
モニターの手前には赤と青の銃と、金を入れる投入口がある。その他にはそこかしこに狂暴そうに吠える恐竜の絵が描いてある。シューティングと言ったか?何なんだ。どうすりゃいいってんだ。
途方に暮れていると男が両替してきた百円玉を、俺の席側のコイン投入口の近くに積んだ。20枚以上はありそうだ。5千円崩したのか?こいつ。バカだろう。
「お兄さんこれやったことある?」
抗議の目線と小さく顔を横に振ることで不服さをアピールしてみたが、男には通じず説明が続いた。
「ジープで森を走りながら襲ってくる恐竜を打つんだ。銃持って。玉切れになったら画面の外打ってね。何度も死んでライフゲージ0になったらすぐに100円入れてコンテニューして。始まるよ!OKのとこ撃って!」
言われるまま画面に銃を向けると、銃の動きに合わせてモニターに映った照準が動く。これが俺の銃が向いている場所ってことか。画面が森に移ったところでケツが突き上げられた。おい!ベンチが動くなんて聞いてねぇぞ!!
「お兄さん!来てる来てる!撃って!」
「ちっ!」
小刻みに上下してオフロードを再現してやがる。手元が安定しない。足を踏ん張って照準を目の前の獰猛な顔をした爬虫類に合わせて引き金を引く。あ、鳥類だったか?
「うまいうまい!」
意外と当たるもんだ。数体倒した。だが次のは照準が合っているのに倒れねぇぞ?何でだ?
「お兄さん!弾切れてる!画面の外打って玉補充して!」
何だその面倒くさいシステムは。大人しく画面の外で引き金を引くと銃弾の残数の表示が回復した。なるほど。
「あとね、たまに出てくる赤い十字が書かれてるやつとかアイテムだから!撃って!」
「撃つのか?アイテムが壊れねぇのか?」
「壊れない!ライフ回復してくれる!」
雑な設定だな。言われたとおりにアイテムを撃つとライフの残数が1つ回復した。なるほどなるほど。
男は隣でぎゃーぎゃー叫びながら引き金を引き続けている。おい、今の当てられたろう。何くらってんだ。
「おい、俺の方の回復アイテム撃て!」
「え、いいの?」
「初めての俺よりお前の方がダメージ多いぞ」
「あはは!ありがとう!」
何度か鋭い爪をくらったが、無事クリアだ。なんだ、意外とあっけないもんだな。意外と上手かったんじゃないか?少しの達成感を感じながら銃を躯体に戻そうとしたら「お兄さん!次のステージ始まる!」と男に叫ばれた。何!まだあるのか?!
次のステージは散々だった。小さい恐竜が群がって襲ってきたらめちゃくちゃに撃ったって無理だ。何度か100円玉にお世話になって次のステージだ。
「おい、これ何ステージまであるんだ」
「えーっと、7だね」
7!?第2ステージでこれなのに7!?クリアは無理だろう。……いや、なんでクリアしようとしてんだ俺は。さっさと死ねば早く終われるのに、俺の手が勝手に襲い来る恐竜を迎え撃ってしまう。才能が怖い。
「ぎゃー!俺100円終わっちゃった!お兄さんあと頑張って!」
何!?早すぎねぇか!?この後を俺1人で!?無茶を言うな!
「俺の100円使ってコンテニューしろ!」
「え、いいの?」
「早く!」
こいつの100円だから俺の100円ではないんだがな。半分を男に渡してコンテニューさせた。下手くそでもいないよりマシだ。
それでも俺たちの躍進は第4ステージ止まりだった。
まさか空からも襲われるとは……予測していなかった。
「いやぁ、楽しかったね!次何する?」
俺が歯噛みしていると隣から能天気な声が聞こえてきた。この程度で満足だってか?冗談じゃない。
「おい、両替機はどこだ……」
男はキョトンという効果音がつきそうなほど間抜けな顔をした後、爆笑しながら俺の出した1万円札を持って両替に向かった。
単純に考えて軍資金は倍だ。第4ステージの途中まではネタは割れている。あと、画面の右半分、左半分をそれぞれが担当するよう俺が出した指示が効いた。最終的に、金を3分の1程残してクリアだ!
「やったー!俺これガキの頃からやってるけどクリアしたの初めて!」
「ふふん。そうかい」
男が10数年越しにクリアしたゲームを、俺は今日初めてなのにクリアしてやったぜ。新たな才能が開花してしまったな。
「ねぇ!次何やる?クレーンゲームは!?」
また男に手を取られて今度は入り口付近のぬいぐるみが並ぶ四角い箱に連れてこられた。
大昔、俺がガキの頃にどれほど駄々を捏ねてもやらせてはもらえなかったUFOキャッチャーは小さいぬいぐるみが詰まっていた記憶だが、大きなぬいぐるみが一体だけ鎮座している。
「こんなデカいの取れるのか?」
「俺、これも結構好きなんだけど取れた試しないわ。他の人が取ってるのは見たことあるよ」
また男はあっけらかんと笑って財布を取り出した。
「これ使え」
両替して残った小銭を男に押し付けた。
「えっ!ダメだよ!お兄さんのお祝いなんだから!」
男は急にしおらしくなって小銭を持つ俺の手を押し返してきた。強引なんだか謙虚なんだからどっちかにしてくれ。
「こんなに小銭があっても邪魔なだけだ。その代わり、絶対取れよ」
またあのキョトンのあどけない顔で受け取ると「了解!」と笑った。
男はこれも下手くそだった。奥行き感がわからないのか、横移動はピタッと寄せられても手前から奥への移動がてんで駄目だ。いつの間にか俺も興奮して「もっと奥だ!」とかなんとか指示を出す羽目になった。しかしそのお陰か、男が狙っている黒猫のぬいぐるみはもう出口に近い。
「おい、次で取れるぞ」
「えっ、どうしたらいい?アームは?脇に入れる?」
「いや待て、縦に行こう。頭と股にアームを差し込むんだ。頭のアームが外れても肩で止まって掴める確率が高い」
「オッケー、やってみる」
男は10数回目の操作を始めた。因みに、1回300円のこの躯体は俺の残金をあっという間に食い尽くし、俺の援助を頑なに断った男が追加で崩した3千円を飲み込むところだ。
「奥はちょっとでいい。そう、そこだ!」
俺の指示にピッタリ合わせたアームが、黒猫をがっちり掴んで帰還して来た。
「やったー!初めて取れた!!」
男は眩しい笑顔で黒猫を抱きしめている。
「ったく。高級な猫になっちまったな」
「はは、まぁクレーンゲームは過程を楽しむものだからね」
費用対効果のバランスは怪しいが。まぁ、確かに、悪くなかった。さっきのシューティングゲームといい、こんなに高揚したのはいつぶりだろう。
「はい!誕生日おめでとう!」
男はあんなに嬉しそうに撫でていた黒猫を、満面の笑みで俺に押し付けてきた。そうか、そう言う話だったな。忘れていた。いや、いらんが。喉元まで出かけたが野暮か?
突き返せないでいると、後ろを通る他の客から終電が……と聞こえて思わず腕時計を見た。
「セックスする?」
さっきまで子どものようにはしゃいでいたのに、急に男の目で見つめて来るな。心臓に悪い。そう思ってるのに胸が疼いた。……名残惜しいと思ってるのか俺は。
「いや、明日も仕事だから帰る」
「そっかー、歯医者さんはいきなり休めないもんね」
はいしゃ?信じられない単語が耳を掠めた。どういうことだ?
「おい、なんで俺が歯医者だって知っている」
「!?やべ!!」
男は慌てて口元を押さえてオロオロし出した。
「うちの患者じゃねぇよな。顔に覚えがねぇ。なんで俺を知ってる。どう言うつもりで俺に近づいた」
「ちが!ごめん、そういうつもりじゃないんだ」
そういうつもりじゃなけりゃ、どういう了見だっていうんだ。
ぬいぐるみを男に思い切り押し付けて睨み続けていると、観念したのかはぁと息を吐いて口を開いた。
「俺、実は10年くらい前に尾形先生に診てもらってたんだ……」
は?嘘だろ……。サァッと背中から血の気が引くのがわかった。
「今日駅前で見かけて……顎のところの縫合痕、マスクから出て見えてたの覚えてて、絶対尾形先生だと思って……」
最悪だ。最悪すぎる。昔の患者、しかもガキにキスしちまった。帰ろう。すぐに。この記憶を抹消しよう。
「ヤらなくて正解だった。じゃあな。元気に歯磨けよ」
駅に踵を返すと、また馬鹿力で腕を掴まれた。
「待って!あの店、ワンナイ目当てのゲイが集まる場所だって知ってたから、先生が入ってくの見て、誰にも渡したくないって思ったんだ!初恋だって気がついたんだよ!」
くそ。センシティブな内容を大声で喋るな。店先で俺を引き留めるな。目立つだろう馬鹿野郎。
「離せ!初恋は実らんもんだ。諦めろ!」
「待って!お願い!」
押し問答していると男の手の力が弱まった。いまがチャンスか?振り切ろうと腕に力を入れたら今度はぬいぐるみを顔に押し付けられた。
「ヴェッ!」
「せめてこれもらって!尾形先生を祝いたかったのは本当なんだ。昔、治療が痛くて暴れて……家の近くの歯医者出禁になってかーちゃんが途方に暮れて……。だけど先生の治療本当に痛くなくて!先生のお陰であんなに怖かった歯医者を好きになれた。今じゃ虫歯1本ないんだぜ!尾形先生は俺のヒーローなんだよ」
顔からぬいぐるみを外すと男はデカい背を縮こませ、目に涙を溜めて上目遣いに俺を見ていた。なんだよそれ、ヒーローなんて、そんなの……。
「あんたとセックスしたいと思ったのも本当。初めて男に勃った。もっと触れたいって本当に思った」
哀れな子犬の顔から今度は男の顔に、コロコロ変わる顔だ。見ていて飽きない。
「どっちもいけるって何で嘘ついた」
いけるどころかどっちも経験ないくせに。冷やかしじゃないのか。
「あんたを逃してくなくて嘘ついた。男は経験ない。でも、あんたが入れたいなら受け入れる。あんたがしたいこと全部受け入れる。だから俺にチャンスちょうだい」
男はぬいぐるみに付いたタグへ何かを書いて、ぬいぐるみごと俺に優しく押し付けた。
「絶対満足させるから、連絡くれ」
やっと解放されるのかと思ったら、次の瞬間は男の腕の中にいた。
「誕生日おめでとう。会えて嬉しい。生まれてきてくれてありがとう」
それから、どうやって帰ったのか記憶にない。
手にはデカイ黒猫のぬいぐるみ。俺、これ抱えて電車乗ったのか?途端に少し羞恥が湧いたが、まぁ過ぎたことか。
あんなふうに祝われたことなんてなかった。
連絡するつもりはない。この猫にだってなんの思い入れもない。でも、この猫に罪はないか。
猫をソファに転がし、切ったタグをキッチンのゴミ箱に捨てようとしてあの体温が思い出された。
――生まれてきてくれてありがとう
胸が、身体中が温かい。
いつの間にか、手にした紙片をマグネットで冷蔵庫に縫い留めていた。
連絡をするつもりはない。本当に。だけどあの満たされた時間が夢じゃない証拠を、少しの間置いておいてもいいだろう。