③1.31 FRI -① 今日は金曜だ。
今朝のテレビ、スマホのスケジュールアプリ、職場のカレンダー、朝礼、ネットニュース、何度も確認した。今日は金曜だ。
つまり、杉元がやってくる日だ。だから何だってことはないが。ただ今日の予定として、杉元が来院することを反芻しているだけだ。
「あ、尾形先生、最終の○○さんキャンセルですって」
昼の休憩を終えて受付を横切ろうとしたら、電話を切った歯科助手が告げてきた。
「そうですか、了解です。でも珍しいですね、いつも残業抜けてでもいらっしゃるのに」
これからまた会社戻らなくちゃいけなくて……と笑う真面目そうな患者の顔が思い浮かんだ。
「今夜は雪予報だからですかね。確かお家は遠方だって聞いたことがあります。電車止まったら帰れなくなっちゃいますもんね」
雪?今日?そんな予報だったか??
覚えのない単語に記憶を辿ったが……しまった、今朝の天気予報の記憶がないな。見逃したか?
「すみません、確認不足でした。電車止まる程の雪が降るんですか?」
スマホを取り出して天気予報のアプリをタップする。毎朝確認するのに今日はこれも忘れていた。俺らしくもない。
「あら、そうなんですよ。遅い時間に積もるみたいで、明日の朝は運転見合わせするんじゃないかって言われてますよ」
歯科助手の彼女の言う通り、アプリでも夜から降り出した雪が遅くに強くなると書いてある。
あぁ、スタッフの安全管理も院長の務めだというのに……。
「本当だ。しまったな……うちのスタッフはみんな帰れるかな」
「念の為、今日の遅番は地下鉄ユーザーのスタッフにシフト変更したので大丈夫ですよ」
にこやかに言う彼女に、焦る気持ちが霧散していった。
スタッフのシフトはまとめ役の彼女に任せているが、指示を仰がれることなくこれだ。大変優秀で頭が上がらない。
「……すいません。いつもありがとうございます。助かります」
「ふふ、大袈裟ですよ。これが私の仕事ですから。でも先生、珍しいですね。なんだか今日は上の空みたい。調子悪かったりしますか?」
上の空?俺が?仕事中に??
「そんなことは、ないです……」
ないだろ?
杉元は19時の予約通り来院した。ぐるぐる巻いたマフラーからちょんと出た鼻先を赤くして「雪ちょっと降ってきましたね」なんて受付と話をしている。
「杉元、こっちだ」
いつもなら診療室に案内するのは歯科助手の仕事だが、たまたま受付近くを通ったから。たまたま。
「あ、尾形センセお疲れさん」
「あぁ。雪降ってきたか。電車大丈夫なのか?」
「大丈夫でしょ。それにお……歯の方が大事だし」
1週間の労働を終えた金曜の夜だと言うのに、杉元は疲れも見せず爽やかに笑う。これが若さか?俺だったら表情筋も労働を終えるところだ。
一昨日検診したばかりだから口腔内検査はそこそこで終え、マウスピースの為の型取りは最新式の口腔内スキャナーに任せれば5分とかからない。検査で撮ったレントゲンと今撮った口腔内の画像を併せて治療プランを提案した。滞りなく診療終了だ。
うちの最新機器を前にすげー!すげー!といちいち驚す杉元はうるさかった。レントゲン写真の揃った歯と歪みのない顎はため息が出そうなほど美しかったのに。
「じゃあ次は1週間後以降に来てくれ」
「えっ!もう終わり?」
「終わりだ」
時間としては30分弱か。昔は型取りと言ったらもっと時間がかかったが、口腔内スキャナーを導入したおかげで効率よく回っている。
「なぁ、ここ20時までだよな?終わったら飯行かない?外で待ってるから」
ユニットから乗り出した杉元に顔を覗き込まれた。美しい骨を内包した美しい造形に目を奪われそうになり、顔を逸らした。
「アホか。本当に電車止まるぞ。さっさと帰れ」
「ちぇー。じゃあ次回。最終の枠で予約するからさ、帰り行こ。な?」
「行かん」
「行こーよー!メシの後にまたゲーセン行ってもいいし!」
げーせん……。シューティングゲームにUFOキャッチャー。年甲斐もなくはしゃいでしまったあの日を思い出して少し羞恥が湧いた。
「……いや、行かん。帰れ帰れ」
「ちぇー」
診療室のドアを開けて杉元を追い出すと、上目遣いのあの迷子の子犬のような顔で見つめられた。やめろその顔。
診療室で電子カルテへの入力を終え、受付に戻ると杉元と受付の歯科助手がまた話をしていた。
まだ居たのか。さっさと帰れ。うちのスタッフに手ェ出すんじゃねぇぞ。そう言おうと近づくと会話が聞こえてきた。
「えっ、マジっすか?全線??」
「ええ。少し前に急に吹雪いて来たらしくて、神奈川方面は全線本数を減らした徐行運転で、駅は人で溢れてパニックになってるみたいです」
何だ?予報より雪が強まるのが早かったのか?
「それ本当ですか?」
受付の入り口で声をかけると歯科助手が振り返った。
「あっ先生、さっき帰ったスタッフから連絡があって……」
「帰れないスタッフはいる?」
「いえ、神奈川方面のスタッフはいません」
「よかった。予約は?」
「少し前に最終の患者さんからキャンセルのお電話がありました」
後ろ2件がキャンセルということは、杉元が最終の患者になったってことか。
「よし、じゃあ少し早いが今日はもう終わりにして帰ろう。他の線もいつそうなるかわらない」
「はい」
「あのぉ……」
歯科助手と俺の会話を大人しく聞いていた杉元が、おずおずと声をかけてきた。
「なんだ杉元。まだいたのか。金払ったら帰っていいぞ」
「いや、そのぉ……」
「まさか帰れないとか言うんじゃないよな?徐行だから電車は動いてるもんな?」
「スタッフには優しいのに!なんで!」
うちの大事なスタッフと並べると思ってるのか、図々しい奴だな。
「電車がダメならタクシーか歩いて帰れ」
杉元が途端にしゅんとした。
「うち……ここから電車で2時間だから歩けないし、タクシーもそんな余裕ない……」
「はぁ?2時間!?どっから通勤してんだよ?」
「会社は……その、家の近所……。神奈川の……温泉街の方……」
職場は家の近所?それなら半径数キロ内で暮らせるだろうが。
「お前、2時間かけてマウスピースだけ作りに来たのか?アホだろう!」
「仕方ないじゃん!!どうしても尾形先生に診て欲しかったんだもん!!」
そんな理由だけで平日夜に2時間かけて来るこいつもバカだが、それに少し、ほんの少し、喜びが湧いてしまった俺もバカだ……。
杉元はまた、でかい背を縮こませあの子犬の顔で俺を見上げる。だからやめろってその顔……。
「……はぁ。いいか、今回だけ、一泊だけだ」
「えっ!?尾形センセの家に泊めてくれんの!?」
この辺のホテルはバカ高い。それだけの理由だ。
俺に触れるなよ、と言いかけて留めた。歯科助手の前だ。
「目に余る行為を確認したら速やかに追い出すからな」
「目に……?ははっ了解!」
杉元さん良かったですねーと歯科助手が笑うのを横目に、誰に対してか分からないため息が出た。
「家近いの?」
「歩いて15分」
「わぁ……大都会に……。さすが歯医者……」
業務後の清掃や残務処理をそこそこで終え、スタッフを帰して施錠した。
杉元が待合スペースにモップをかけていたのは笑ったな。いい心がけだ。
「そういやぁ、お前は温泉街って言っていたが……神奈川だと箱根か?」
「うん、まぁ。そっち」
「子どもの頃に会ったと言っていたが、俺が神奈川で勤めていたのは茅ヶ崎だぞ。箱根から通ってたのか?」
「うん。痛くない歯医者って口コミをかあちゃんが見つけたらしくて。1時間くらいかけて通ってたかなぁ」
確かにあそこは小児歯科に力を入れている所だったな。
「しかし箱根ねぇ……」
思ったより積もった雪を慎重に踏み締めていると、とたんに体を芯からほぐす温泉の温かさが恋しくなった。
温泉なんていつ以来行ってない?昔は好きでよく行っていた。長い休みの時はちょっと足を伸ばすのが好きだった。
「……いつでも温泉三昧だな」
思わず羨望の声が出た。
「行かねぇよ。温泉好きだけど、地元だと大体同級生かその親兄弟が働いてるから居心地悪いんだ」
「ああ、なるほど」
羨望が一気に現実に裏返った。それは、俺も嫌だな。
ポツポツと話をしていると、息が白く立ち上がるのも2人分だ。誰かとの帰宅なんていつ振りだろうか。