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    zenshingaitai

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    zenshingaitai

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    千至書き途中のやつ

    香水の話幽香に寄す -an die moschus 心ここにあらず、という慣用句があるが、俺の心は眼前の日本橋を出発して中央通りを北上し、万世橋を渡って秋葉原のメロブで冬コミのウマの新刊を漁っている筈である。
     なぜなら今日はそのつもりで仕事を定時で終わらせたからで、なぜだか俺本体は今現在、広い個室のお座敷でお酌をしているからである。
     ああ無常。哀れなサラリーマン、俺。
     つまり、終業するぞとモニターの電源に手をかけたところで、お前も顔出しとくか?とあまり絡みのない上司の上司と仲のいい上司、に声をかけられてしまい、入社3年目では拒否権などありようもなく、あれよあれよという間にゴルフ焼けのおじさまに囲まれた酒注ぎマシーンと化してしまったのだった。

     とはいえ金曜の夜は無惨に散った、と虚しく瓶ビールをだばだば注いでいたら、なんとなんと、まさかの21時半には解放されたので、まだ残業してるかな、と先輩に連絡し、店の前でぼんやりと返信を待つ。
     都心の曇り空は、地上の光を反射して薄明るい。
     銀座で飲んでると返信が来て、それじゃあ、とスタンプを選んで送って、あっ、と思い出す。
     秋葉原のメロブは平日は23時までなのである。
     時すでに遅し。
     了解ですのスタンプは先輩の携帯へとどいてしまった。
     一考。
     まあいいか、通販もあるし、と思い直し、日本橋から金春通りへ歩く。
     ふわりとした微かな酔いを感じていると、チラチラと雪が降りはじめる。
     1月の終わり。
     きん、とした水っぽい空気が頬を冷やす。
     電車に乗ろうか、迷ってやめた。






    幽香に寄す -an die moschus






    「愛人に会うためのアリバイなんだよ」
    「は──ほ──へ──」
     とアホの返答をしつつコートを脱ぎつつ、腿の上でログボを回収していたら、眼鏡越しにマイナス1000度の視線を向けられる。
     空調の効いた暖かい店内でよかった。
     奥まったカウンターの壁側の端、にいる俺のひとつ手前のスツールがくるりと回転し、長身がそっとこちらに傾く。
     小声で、先ほどまで参加させられていた謎の飲み会の解説をされる。
    「一応話しておくけど、某財閥の一人娘と恋愛結婚して、入婿の身分で女癖が悪くて、お前のとこの役員とゼミが同じだったからって厚遇されてるが、そろそろ離婚するから次は断った方がいいぞ」
     と、本当に理解しているのか?と片眉を上げた先輩と壁に阻まれた俺は逃げ場もなく、スマホをカウンターに置いて両手をあげる。
    「了解で──す」
     長い足を右にまとめたまま姿勢を正した先輩がロックグラスを煽るのを見ながら、俺は何にしようかな、と今度はきちんとスツールに座った。

     先輩は今日もジントニックだろうか。
     以前気まぐれに、俺も同じものを、と頼んだら、タンブラーで作りますか、と訊かれたので、どうもわざわざロックグラスで作って貰っているらしい。
     お酒に弱くて、と嘘をついて可能な限りの飲み会をウーロン茶で凌いできたため、俺の酒の知識は同世代よりかなり乏しいが、それでもなかなかの拘りがあることはわかる。
     ここのバーマンが、嗅覚受容体がどうとか体性感覚がどうとかこうとか、なんとかかんとかうんぬんかんぬん、と言っていたが、その時は酔っていたので全く頭に入らなかった。
     先輩自身はそうした蘊蓄を語ることはない。









     
     ドアベルの音がして、冷たい空気が入ってくる。
    「あら、卯木さん久しぶり~~」
     低めの女性の声が聞こえて、流れるように店内を進んで水割りを頼んでいる。
    「お久しぶりです」
     と先輩は言って、俺は会釈で済ませた。
     たしかこの女性は、近くのラウンジのママだったはず。
    「も〜〜相変わらずいい男ね~~〜〜触っていい?」
    「はは、やめときましょうか。それにしても京子さんがこんな早い時間に、珍しいですね?」
    「そうなのよ、ケンちゃんがもうすぐ来るって言うからさ、お店行く前に助走で一杯飲んどこうと思って」
     このケンちゃんというのは、どこぞの高級官僚で『おれの酒に付き合えるのはママだけだよ~~』という京子ママのモノマネが面白かったので辛うじて覚えていた。
     2人でめちゃくちゃ飲むらしい。
    「あそうだわ、卯木さんもくる?挨拶しといた方がいいでしょ」
    「お邪魔じゃないですか?」
    「だいじょぶだいじょぶ、ケンちゃん卯木さんのこと気に入ってるもん」
     と、手をパタパタさせながら、京子ママはバーマンから受け取った水割りを、一瞬で空にする。
     すごい。
     案外雑な音を立ててカウンターにグラスが置かれる。
    「そうなら嬉しいですが。じゃあ茅ヶ崎ごめん、行ってくる」
    「はいはいいってらっしゃーい」
     俺もママの真似をして、パタパタと手を振る。
    「あんまり酔わされるなよ」
     と、言って、先輩がすっと立ち上がると、京子ママと頭ふたつ違うのでちょっと面白かった。
     そして振り向き様にジャケットを羽織り、俺に手を振りかえしてくれた京子ママのために、扉を開ける。そして彼女の背に軽く手を添えて、つかつかと狭いバーを出ていく。
     ドアベルの音がまた鳴って、外の冷気だけを残してドアが閉まった。

     またも、あれよあれよという間に、だ。
     冷気はすぐさま空調に温められ、先輩がいた気配も消える。

     ひとりになってしまった。
     今日は客が少ないな、と思った。



    「へえ......。」
     なので、思わず漏れたような小さな呟きも聞こえてしまうのだった。
     なんだろう?と目の前にいるバーマンを見る。
     彼は若くて小型犬のような印象で、陰キャの俺でも比較的話がしやすい。
    「あっいえ、はは、すみません」
    「先輩がどうかしましたか?」
    「いやあの、わたしは香水が趣味なんですが、すてきな香りをつけてらっしゃるな、と思いまして」
     そういえば、仕事である程度調べたことがあるけれども、先輩が何をつけているかは訊いたことがなかった。
    「ああ、不思議な匂いのやつつけてますよね、先輩」
     俺の鼻は匂いの峻別に適性がない様で、具体的には思い出せないのだけど、なにかこう、引っかかるような、それでいて透明な香り。
    「不思議ですか?結構人気のものですが、まあ、そうですね、とても似合ってらっしゃるので、特別な印象があるのかもしれません」
    「すごいな、どこの香水だかわかるんですか?」
    「......趣味なので」
     そう言ってはにかんだ顔は、割と可愛かった。
     ふふふ、と2人で笑い合う。















     営業事務の女性が産休に入っているため未整理の稟議書が山になっているのを、班の全員が視界に入れないようにしているので、仕方なく手をつけることにした。
     黙々と書類を捌いてファイルに綴じて背表紙にシールを貼る。1冊、2冊、3冊。
     向かいの席の女性の先輩が、ごめんね、と言いながら高そうな焼き菓子を分けてくれたので、ありがたく頂戴する。
     隣席の男性の先輩が、ちらりとこちらを見て、何も言わずに視線をモニターに戻す。
     戻しきるより前に「倉庫行ってきます」と声をかけて、ファイルを倉庫にしまうついでに休憩を入れよう、と、立ち上がり、腕を伸ばすと、ぺきぺき、と肩が鳴る。
     やれやれ。
     通路側に座る社員に合わせ、やたらと暖められたフロアから18階の倉庫へ向かう。
     ジャケットなしでは廊下は少し寒かった。
     じわりと湧いていた汗が冷えるのを感じる。
     失敗したな、と思った。









     業者用のエレベーターから降りると倉庫のフロアはさらに冷えている。
     早く戻ろう、とひとの気配のない廊下を曲がると、段ボールを抱えた"先輩"が倉庫の扉を足で閉めていた。
    「茅ヶ崎か」
    「お疲れさまです」
     先輩の他は誰もいなさそうなので、思ったことをそのまま口から出す。
    「足癖わる」
    「誰もいないしな」
     と言いながら、先輩は重そうな段ボール箱を床に下ろし、おもむろにジャケットを脱いだ。
    「ちょっと持ってて」
     脱ぎたてのジャケットを渡される。
    「はあ」
     ひと肌というには温かいな、と思いつつ大人しく持ってると、先輩は一旦倉庫に戻り、もう2つ、段ボール箱を抱えて出てきた。どすん、と音を立てて廊下に置かれる。
     そして、いけるかな......、と呟くと、パリッとしたシャツの腕を躊躇なく捲って、デカめの段ボール箱を田の字に積み、両手でひょい、と持ち上げた。
     なお、倉庫の段ボール箱は基本、限界まで書類が詰まっている。
    「ゴリラ」
    「もやし」
     先輩は口も悪い。
     なにも言い返せないので、ジャケットは席に置いといたらいいですか、と訊いたら、まあ適当にして、と適当に返された。
     そして非常階段に向かってスタスタと歩いていく。
     エレベーター使わんのかい。
     ちなみに先輩は昨日おそらく、京子ママと酒豪の集いに付き合って始発で帰り、一睡もせずに俺より早く出社している。
     若い男なら珍しくはない体力量なのかもしれないが、丞とか、臣とか、十座とか?いや、俺は無理だけど。
     それにしてもな、と呆れながら、真っ直ぐ伸びて安定しきったベストの背中を見つめてしまった。
     まだ温かいジャケットから、いつもより濃い香水の匂いがする。









    「あっ茅ヶ崎くんだ」
     ファイルをしまって自席に戻ると、隣席の男性の先輩が見知らぬ女性社員と話しており、また、ちらり、と目だけでこちらを見る。
     それに、お疲れ様です、と会釈をして、なるべくそちらを見ないように、机の上のタンブラーとさっき貰った焼き菓子を回収する。
     なんでもない顔で休憩室に、そういえば、先輩のジャケットを抱えたままだったので、海外事業部の休憩室に行こう、と思った。
     女性社員の視線を感じながら、早足にエレベーターに向かう。
     胸元のジャケットからは、まだ香水の匂いがする。
     昨日聞いた話では、この香水は、着けるひとによって香り方が違うのだ、ということだった。
     エレベーターホールにつくと、また無人だったので、好奇心のままそっと襟元に鼻を寄せる。

     少しばかり花の香りがある。
     けれどひどく人工的なムスクの香りがする。

     つよく。

     くらり、として、直ぐに顔を上げると、ちょうどエレベーターが来て、中にひとがいて、なんでもない顔で、エレベーターの箱の隅に収まる。
     そしてなんでもない顔の裏で、さっきの目眩を、もう一度、思い出してみる。


     この匂いはエレベーターの浮遊感に似ているな、と思った。

     自分も何かこんな、目眩のするような香りを探してもいいかもしれない、と思った。















     駅ビルがくっついていない駅に降りる時の休日感。
     移動の多い仕事なので、平日でも様々な駅を使うのだが、改札を出た時に太陽を遮るものがない町、の明るさは、ひとの家に遊びに行く時の高揚感の様な妙な落ち着かなさを、いつでも思い出してしまう。
     今日は本当に仕事ではないので、休日だな、と思いながら、代官山に着いた。
     人生初。
     落ち着かなさは単にこの街の持つ、ネイティブなおしゃれ感というか、こう、とにかくオタクには縁遠いような、いや思ってたより普通の街だったけど、そんな感じのせいかもしれない。
     どんなだ。
     ふーん?といかにもおのぼりさんです、というように、キョロキョロしながら駅からすぐの店を目指す、はずだった。

    「あれ?茅ヶ崎くんじゃない?」
    「あっ本当だ!」
    「うそ〜!」

     という女性の声が聴こえて、マンパニのファンか職場のひとかの2択なのだが、残念ながら後者だったのである。
    「お疲れさまです」
     動揺を隠し、なるべくフラットに対応したい、と思う。
    「お疲れさま〜やだ偶然だね、どうしたの?」
    「休日に茅ヶ崎くんに会えるなんてすーごいラッキー」
    「ねー!」
    「いや、ちょっとこの辺に用があって」
    「そうなんだ〜、わたし達この辺にパフェ食べに来ててさ」
    「あそうだ、茅ヶ崎くんの同期の、みゆちーが教えてくれたんだよ」
    「すっごい美味しいお店なんだって」
     誰だよみゆちー、と思いつつ、低い位置にある3つの顔の2cmくらい手前に焦点を合わせてニコニコしておく。
     どうにか穏便に逃げたいが、勢いが強い、声が大きい。
     店が近すぎて、このままではテンションに押されて一緒に行く羽目になりそうだった。
     そこそこのピンチ。
    「茅ヶ崎くんさ、甘いもの平気?4人席で予約取ってるから良かったら一緒にいこ!」
    「ちょっとなに、すごいグイグイいくじゃん!」
    「だって〜せっかく休日にうちの会社いちのイケメンに会えたのに〜」
    「あはは、めちゃくちゃ正直」
     とりあえず一緒に笑っておく。
     完全に珍獣扱いなので、このまま珍獣としてパフェに付き合うのもアリか?
    「イケメンといえば、パフェのあと千葉さん達と飲み会なんだ!千葉さんって茅ヶ崎くんの隣の席だよね?」
     げっ。
    「あはい、いつもお世話になってます」
     げげげ。
    「パフェは冗談だけどさ、夕飯予定なかったら一緒にどう?うちの課の子が多いけど、同世代で集まってみんなで飲も〜って集まりなのよ」
    「えっあたしパフェ別に冗談じゃなかったけど」
    「あんたは黙ってなさい」
     千葉さんというのは俺の"隣席の男性の先輩"のことである。
     そちらの飲み会は絶対に回避したい。
     が、それを断るならパフェには付き合った方がいいのだろうか、いやそれはそれで何を言われるか、いや、いや。
    「あはは......」
     どうしたものか。
     と思わず視線を下に向けると、臣と目があった。

     別に臣が道路で寝ていた訳でもアスファルトに埋まっていた訳でもない。

    「至さん!」
     と、道路沿いのおしゃれな建造物の半地下の窓に臣がいて、声をかけてくれたのだった。

     神か。









     半地下の窓の中には、臣の務める撮影事務所のオフィスがあった。
     そういえば職場はこの辺だと聞いたことがあった。
     すっかり忘れていたが。
     サンルームのようなスペースがあり、仕事で行ったことのある撮影事務所とは違って、こぢんまりとしていて妙に落ち着く。
     ドーナツ屋のポイントで貰えるマグカップで、完璧な温度の紅茶を淹れてくれた。
    「俺が色々片付けたせいかな......、誉さんから頂いたカップとか、万里がくれたコーヒーとかも置いてて」
    「あの辺の目隠しとかも臣くんが作ったの?」
     そう、実は監督もいて、次の撮影の打ち合わせをしていたそうである。
     なんとも運がいい。
     カメラマンの方は既に別の仕事に向かってしまったとのことで、今はアシスタントの臣と監督だけがオフィスにいる。
    「ああ、使ってない機材が置いてあるんですが、埃つくと面倒なんで、適当に」
    「てきとうかあ」
    「なるほどねえ」
     と、思わず監督さんと2人で頷きあってしまった。
     チェックのかわいいカーテンが臣らしい。
    「臣、ここでもオカンって呼ばれてない?」
    「その話を今川さんにしたら、俺も呼びそうになるから聞かなかったことにする、って言われましたね」
     いかにも困った、という顔で言うので、わはは、と監督さんと笑いあう。
     すかさずカメラを構えた臣に、写真を撮られた。
    「そのままの感じで目線お願いします」
     臣の隣で監督さんが説明してくれる。
     彼女のいつもの表情につられて、俺は作らなくても笑ったままでいられる。
    「宣材写真を新しくしようかと思って。うちは臣くんが撮ってくれるでしょ、だからスタジオ撮影じゃない、明るいラフなムードの方がいい写真撮れるかも、って」
     へー、と聞きながらなんとなくポーズっぽいものを取る。
     西陽が暖かく、左目から左手の指先を照らしている。
     雑然としているが、観葉植物がそこかしこにあって、いい職場だな、と思った。
     臣がカメラから顔を上げる。
    「今そんな話になっただけなんですけどね。とりあえず試し撮りでした。突然すみません」
    「それでここにみんなの宣材が積んであったんだ」
    「そうそう。これもいいんだけどね」
     テーブルの上に乱雑に置かれたポートレートは、窓からの光を反射している。
     ウェブ上やチラシで何度も使われているはずの、みんなの顔なのに、なんだか見慣れない気がした。
    「カントク、こんな感じでどうかな」
    「いいね!至さんこういうの珍しいかも」
     なんとなく、散らばった写真を組別に並べ替えておく。
     春、夏、秋、冬。
    「俺の適当なスナップはともかく、撮影ではピシッと決めた感じが多いな、そういえば」
    「そうだよね、至さんって。でもどう撮っても華があるんだなあ」
    「かもな、正直撮るのが楽で」
    「やっぱりそういうの、あるんだ」
    「ある、といえばある」

     間。

    「..................なんか褒められてる?」
    「わっはっは〜、褒めてます!」
     めちゃくちゃ肯定されてしまった。
    「どうもありがとう、では、あるんだけど、なんかちょっと」
     面はゆい、というやつだろうか。
     監督さんは笑ってるし、臣は意外そうな顔をしているし、落ち着かなくなってしまった。
    「さっきも褒められてたじゃないですか、会社いちのイケメン〜って」
    「聞こえてたの?あれは面白がってるだけだから」
    「でも、俺が撮影してる時もファンの方に褒められる時も、いつも平然としてますよね?なんか違うんですか?」
    「雑談中に身内に直球で褒められると照れるでしょ、やっぱ」
     抗議を入れつつ、手持ち無沙汰に写真の整理を続ける。
    「あと、褒めるにしても色々あるじゃん、お世辞とか嫌味とか冗談にしてもさ、顔をどうこう言われるのはいいんだけど」
     咲也、真澄、綴、俺、シトロン。
    「雰囲気みたいな、のは、あんまり言われることないし」
     先輩。
    「あれ、そうですか?スマートだとか、さわやかとか、よく言われてませんか?」
    「まあそうなんだけど」

     自分の纏う、イメージというものを考えたことがなかった。

    「わたしはなんとなく言いたいことわかるかな〜、イケメンとかさわやかって、うちの団員はみんな当てはまっちゃうもん」
    「ん?ああ、なるほど、固有のオーラ、みたいなものか」
    「オーラ、って」
     そんな仰々しい話をしているつもりはなかったので、冗談にしてしまいたくなる。
    「......かっこいいな、ハンターの念能力みたいで。」
     いつもの順番に揃ったみんなの写真の四隅を揃える。
     それぞれ違う顔、違うニュアンスの雰囲気が重なって、ひとつの束になる。
    「臣、これ袋入れとけばいい?」
    「あ、すみません、ありがとうございます」 
     角2の袋をテーブルの中央に置いて、空のマグカップを持って立ち上がり、そろそろ行くね、と声をかけた。
     シンクに置いといてください、という臣に、ありがとう、と返事をする。
     水切りカゴに置かれたさまざまな色、形のマグカップに、ここもさまざまなひとが働いているんだな、と感じる。

    「さっきのやつ、そのまま宣材には使えないけど、今まで臣くんが撮ってくれた写真と違って、大人っぽくていいね」
    「そうか?」
    「なんて言うのかな、すごく甘い」
     カメラの外部モニターを見つめる監督が何かを生み出そうとしている。
    「エッジの綺麗な、お酒が入ってるいちごのケーキみたいな特別感があって。次の宣材はこういうのがいいかも」
    「こういうの?」
     撮られた本人も全くわからない。
    「うーん、なんだろ、秘めた魅力、秘めてる訳じゃないか。それこそオーラっていうか、違うな、甘い、そう、味?や、香り、みたいな」
    「香りか。もちろん食品や花と写す、とかではなく?」
    「そう、急ぎじゃないし、時間かけて抽象的なコンセプトにチャレンジするのも面白いかも、と思って」
    「ハードル上げるなあ、千景さんとか、真っ赤な壁があるところ探さないと」
    「そういう?あーそういうのでもいいのかなあ。ちょくすぎない?」
     モニターに写る俺は、正直眠そうにしか見えない。
     クリエイティブ職の言語感覚はしみじみと謎だ。
    「............いつもそんな感じで打ち合わせしてんの?」
     と、声をかけたら、同じ表情で、そうだけど?と不思議そうに返された。

     やっぱり俺は、ゲームも演劇もやる方だけでいいや、と思う。















    「これ全部使っちゃって大丈夫ですか?」
     と言いながら、持ってきてもらった2本目のタバスコを振る。
    「えっ」
     と絶句する店員さんと目を合わせ、本気だが?という顔をする。
     どややっ。
    「あっ、いや、大丈夫、ですけど、大丈夫ですか?」
     大事なことなので2回、などと余計な事を思いつつ、大丈夫です、と言っていたら、先輩がトイレから戻ってきた。
     ピザ屋にいる。
    「ああ、ありがとう」
     席について、俺からタバスコを受け取った先輩は、そのまま、ぱっ、ぱっ、ぱっ、ぱっ、ぱっ、ぱっ、ぱっ、ぱ(以下略)、と瓶を振り、オーソドックスなマルゲリータを真っ赤にして、満足そうに蓋を閉めた。
     そこでようやく、立ったまま唖然としている店員さんを見る。
     先輩は、なにか?という顔をして、何も言わない。
    「あっ、大、丈夫、ですっ!」
     かわいそうな店員さんは、ビビりながらカウンターに戻っていった。

     深夜12時、アルコールも頼まずにピザを食う社畜が2名。他に客はいない。
     残業後の夜食である。
     寮への帰り道、仕事のストレスで気が触れて、多摩川を越えて直ぐにある、遅くまで営業している窯焼きピザの店の駐車場に車を停めた俺に、先輩はなにも言わなかった。
     ラストオーダーにすべり込み、黙々とピザを食う。
     賄いでも作るのか、火を入れた釜の熱気で、冬だというのにやたらと暑かった。
     上へ上へと向かう熱が、顔を温める。
     疲労と暑さと満腹で、たちまちに、ねむい。
    「寝るなよ」
    「先輩運転してください」
    「いやだ」
    「けち」
     氷の溶けたコーラをずずず、と啜る。


    「お前さ」
     と、先輩が言った。
     雑談ではないな、と思った。


    「千葉、ってひとになんか言われたの?」

     BGMは既に止められていたので、しん、とした店内に、俺たち2人の食事の音だけが聞こえていた。
     先輩は、指についたタバスコを舐めている。

    「先週、急に声かけられたんだよね。今まで絡んだこと無かったから驚いたんだけど」

     それから、不織布で指を拭いて、アイスコーヒーを飲む。
     グラスを置いて、腹の上に手を置いて、椅子の背に凭れている。
     リラックスした姿勢。
     興味の無さそうな顔で俺を見る。
     そのくせ、俺の返答を待ちながら、こう言った。

    「お前に避けられてる気がする、ってさ」



     まさか、先輩に突撃するとは。
    「特別なことは言われてないですよ」
    「ふうん」
     意外にもその一言で、先輩は俺の足元に目線を落とす。
    「ならいいけど」
     もっと追及してくるかと思った。
     足を組んで、揺れるつま先が、先輩の感情の何を表しているのかわからない。
     メガネのフレームに隠れてしまうまつ毛。
     鎖骨が見えない程度に緩められた襟元。
    「なんかあったら、言ってくれればどうにかするから」
     顔をあげて、やはり興味がなさそうに、そんなことを言う。
    「こわ」
     と俺が茶化しても、口元で笑うだけだった。

     食べ終わってピザ屋から出る。









     車に乗る前に、夜空に向かって全身を伸ばした。
     〜っと鳴くのが下手な猫のような声を出して、座り仕事で凝り固まった筋肉をほぐす。
     可動フィギュアみたいに肩甲骨が外せればいいのに。
     食後の火照った身体に、冷たい風が心地よかった。シャツが撓んで、外気が腹を冷やす。
    「運転変わるよ」
     砂利を踏む音がして、支払いを終えた先輩が、後ろから近付いてくる。
     手を下ろし振り向くと、駐車場の強いライトが、先輩を後ろから照らして、夜の濃くて黒い影を白い小石の上に伸ばしている。
    「や、大丈夫です。ちょっと回復しました」
     と言って断ると、先輩は、殊勝だな、と言って、思ってたより近い位置で歩みを止めた。
     俺はドアを開けて、ハンドルの前に座る。
     ドアを閉めたい。が、さらにこちらに近付いた先輩が、また、黙って俺を見ている。
     逆光の顔。
     どうしたんだろう、という風に、見上げる。
     感情を読ませない顔で、先輩は口を開いた。
    「やっぱり訊くけどさ」
    「はい」
    「日曜に代官山にいただろ」
     メガネの奥の切れ上がった目尻、青暗い虹彩は影を吸って黒い。
    「ああ、はい。監督さんから聞いたんですか?」
    「そっちの1課の女の子。飲み会誘っても来なかったって。ああいう時、お前なら行くと思ってた」
    「休日の飲み会なんて全力回避に決まってるじゃないですか」
     やだなあ、と話を終わらせようと、シートベルトに手をかける。
     じゃ、と石を踏み込む音と、伸びてきた腕が、ぐい、と腰ごと身体の向きを変えてくるのは同時だった。
    「ちょ」
     真冬の真夜中でも熱い手が、俺の腰骨を握っている。
     じわりと熱が伝わる。
    「香水、変えたのか?」
     身体を傾けたせいで開いた先輩のジャケットの内側から、あの、濡れた金属のような、人工的なムスクが。
     香る。
     つよく。
    「お前の趣味じゃない匂いだ」
     酩酊を感じて、思わず下を向いてしまう。
     好きとか、嫌いとかではない、ただ、嗅ぎ慣れないムスクの香りが、身体の芯を震わせるようだった。
     顔を上げると先輩の胸元が近くて、偏頭痛のような熱が後頭部を襲う。
     眉間のあたりが熱い。
    「────────似合いませんか」
    「似合うよ」
     耐えられず、もう一度、深く嗅いでしまう。ため息のように大きく。
    「すごく似合ってる」
     鼻を首に押しつけてしまいたかった。
     出来やしないので俯いてもまだ香る。
     ムスク。
    「よかった」
     そう言って、すぐには動けず、一拍置いて強い衝動をいなす。
     理性を奮い立たせて身体を離す。
     それでもまだ、鼻先に籠ったような刺激があるのは、先輩の香水の賦香率の高さのせいなのか、俺がこの香りに酔ってるせいなのか。
     鼻から息を吸って、浅ましく残り香を探す。
     疲れているので、欲求に抗うのが難しかった。
    「本当になにもないんだな?」
     先輩の目を見れない。
    「ないです。先輩が心配するようなことじゃないし、避けられてると思ってるのも、あの人だけですから」
    「..................そう」
     
     仕事が終わってフロアから出る前に、香水を付け直していてよかった、と思った。















     さりげなく先行し広告のない柱で止まって、酔っ払いの集団を邪魔にならないスポットに誘導する。
     金曜の夜9時、まだ早いと言っていい時間の新橋駅の銀座口、地下鉄に向かう階段の前に溜まってるのは自分達しかいなくて、足早に行き来するひとの流れに、早く混じってしまいたい、と思った。
    「茅ヶ崎は二次会はパスだよな」
     と離れたところから戸川さんが言うのに、はいすみません、と返す。
     二次会は銀座のカラオケらしく、このままひとり分かれてもいいのだが、幹事の、隣席の男性の先輩、こと千葉さんが合流して全員を見送ってから、というのが社会人茅ヶ崎至の選択だった。
    「えぇー‼︎」
     と一課の派手目の女性社員が言う。
    「茅ヶ崎くんちょっと付き合い悪いんじゃない⁉︎」
     と一課の同期が潰れた裏声で継いで、笑いが沸くが、まあ面白くはない。
     それでもそこで終わればよかったが、一課の年次の高い女性が、話を続けてしまった。
    「ちょっとだけでも来れない?」
    「すみません、仕事溜まってて......」
     と眉尻を下げるようにする。
     先日代官山で誘われたものを合わせると、社内の飲み会の不参加が続いているので、少々居心地が悪い。
     今回は遅くなった内輪の新年会で、接待とこういった節目の宴席には参加するようにしているが、それだけではすまないのが弊社の社風だった。
     とりあえずこの場はやり過ごして、と思っていたら、うちの課の主任が、助け船を出してくれる。
    「えっと、茅ヶ崎くん明日半休で、劇団の用事があるんだっけ」
    「あ、そうなんです。次の公演の打ち合わせがあるんですけど、午後一送付しないといけない資料が全然終わってなくて、社に戻って終わらせないと」
     と言うとそのまま、じゃあ大変だねーと返され、会話のトーンを落として別の話題に向かおうとしてくれた。
     が。
    「でもすごいよな、お前のとこの劇団、この前ドラマ見たぞ、何だっけ、飛行機のやつ」
     主任のややのんびりした口調の隙を突き、一課が劇団の方に話を持って行ってしまう。今までも散々弄ってきておいてまだつつくのか、と思う。
     フロアが違うのもあって、一課とは微妙に、いや、それなりにノリが合わないのだった。
    「あたしも見たー!機長の服着てる天馬くんほんとかっこよかった‼︎」
    「お前ほんと皇天馬好きだよな」
    「大好き!」
     一同小笑い。
    「もういっそ茅ヶ崎に紹介して貰えばいいんじゃないか?」
    「いや無理無理無理無理‼︎」
     と、今度は大笑いとなる。
     紹介云々と踏み込んだ事を言ったのは、一課の課長だった。
     この人は割と本気で天馬と顔を繋げたがっていて気が抜けない。学閥に首まで浸かったウェットな人脈で出世したタイプで、あまり親しくしたい人物ではなかった。
     さらに元ラガーマンのいかにも体育会系な風態で、俺のような文系にはあたりが強い。マジで無理。
    「そうだぞー、うちの娘が泣くから皇天馬には一生独身でいてもらわなきゃ、困る!」
     げんなりしていたら、酔った戸川さんがいいタイミングで主張してくれたが、助けてくれたのか本気で空気を読んでないのかわからないのが、うちの課長の残念なところである。
     失笑に混じり、一課から二の矢三の矢が放たれる。
    「実際皇天馬ってどうなの?裏では遊んでるとか無いの?」
     出た。しみじみと下品だし、これまで、職場の人間から何度も訊かれている質問だった。
    「いや、天馬はすごい真面目で、遊んでる暇ないみたいです」
     この辺は後で尾鰭がつくと厄介なので、きっぱり否定しておく。
     が、やっぱり一課の彼らはお気に召さないようだった。
    「"あそんでるひま、ないみたい"」
     目を大きく開いてぱちぱちと瞬きし、オウムのように俺の真似をする。よくもまあ役者に向かってやるよな、と呆れる以外の感情はない。
    「ちょっとあんたじゃ役者不足だから‼︎」
     女子からのタイミングの良いツッコミ、にどっと笑いが起きた。
     ああ、とにかくめんどくさい。
    「でもさ、最近の茅ヶ崎、さらに王子様度が増した気がするよな」
     これは一課の二年次上の男性社員だった。左京さんを5で割って顔の中央を綿棒で伸ばしたような、切れ物......になりたがっているひとである。
    「わかる──‼︎、なんかこうさ、キラキラ?みたいなの、増量したよね!」
     ところでさっきからテンションの高い天馬推しの彼女が、先日代官山で遭遇した女性グループの1人である。一課の課長に気に入られており、計算のない天然の振る舞いを許されていて、管理部門の女性社員から敬遠されている。悪いひとじゃないんだけどね、というやつだ。
    「いやいや、キラキラって」
     迂闊に否定すると、もっと親しくしていいんだよな、という方向に持っていかれるので、ありがたく彼女の形容に乗っかることにした。
    「してるじゃん!前からすーごいかっこよかったけど、もう高嶺の花!っていう感じじゃん⁇」
    「確かに、ちょっと近寄り難くなったかも」
     そうですか?と疑問だけに留めておく。
     なるべく当たり障りのない、プラマイゼロの虚無の返答をしていると、一課課長の取り巻きによる俺アゲはさらに続いていく。
     褒めの語彙が多いなあと感心はするが、わざとらしいのであまり参考にはならない。ざっくりした褒めを具体的に言い換えて、別の課員に向けた褒めへとひたすらパスを回しながら、全員に話題が向くようにする。
     そのうち一通り褒め倒したのか、徐々に調子に乗り始めたのか、言葉に微妙な棘が出てきて、さらに銀座線に向かう人々がこちらをチラチラと見るのが居た堪れなくなったところで、この辺かな、と俺の最強さいつよの必殺技を使うことにする。


    「でも、俺なんかより卯木先輩の方がよっぽどすごいですから」


     必殺、スーパーサラリーマン卯木つよつよ顔面千景先輩(の話題)召〜喚〜〜てててて〜ん。ドゥンドゥンドゥン。
     これを言うと一課の彼らは、具体例ひとつなくとも、コンマ1秒停止して、あー、あー、あー、というだけの状態異常にかかる。
     そして、『あのひとはほんとに、ほんとちょっと次元が違うよね。わかる、迂闊に話しかけたら売り上げ全部持ってかれそう。あっはっは』と言った具合に、穏便に話が変わるのだった。
     よかったよかった。
     正直そこまで怯えなくてもいいと思うのだが、マウント行為が魂まで刻まれているような人種は、どうやっても勝てない相手のことは、見なかったことにするのだろうか。ありがとうチート先輩。
     本当に有能な人間とは、その場に居なくとも、他者を圧倒させるのだなあ、と思う。

     それからは内容の無い雑談で過剰に盛り上がる男女をみながら、鍛えられた体幹が支える、隙のない後ろ姿を思い出していた。
     あの特異で洗練されたムスクに相応しい人物。



    「おーい、千葉が先に行っててくれだとさ」
     戸川さんの間伸びした声が、ついにこの無為な時間を終わらせた。
     やれやれ。
     はーい、と口々に言って、改札に向かって階段を降りるのを見送りつつ、課長2名に挨拶をする。
     ようやく解放されるぞ、と思ったが、最後に残った一課の主任が、こちらを見て、とりなすように余計なことを言った。
    「なんかごめんな茅ヶ崎」
     全くだ。
     と思うが、何がですか?という顔をする。
    「うちの連中、うるさいだろ」
     そう言われると、そんな事ないです、と言うよりない。
     うんざりしつつ、背の低く、濃くて甘めの顔の、部下と上司のフォローをしてやる優越感で開いた鼻の穴を観察する。
     自己陶酔に浸るのは結構だが、この人も、もう少し演技力を磨いた方がいい。
    「忙しいと思うけどさ、あんまり無理すんなよ」
     そう言って、馴れ馴れしく俺の肩に手を置いた。うげー。
     触れられたところから男性ホルモンが染みるのを想像しながら、ありがとうございます気を使っていただいてすみません、と言いつつ、さりげなく一歩下がる。
     俺の生理的嫌悪にはまるで気付かないまま、満足そうに手を振って、その顔が後ろ頭になり、階段の向こう側へ下がって行く。

     
     そして、電灯に照らされた東京メトロ新橋駅の看板と、俺がだけが残る。
     北風も遮られてしまって、ただ、ひとも車も電車も、何事もなく動いている、夜の東京の音がした。
     ふう、とひと息つく。


     早く戻るか、と、新橋駅を出る。







     
     それから、いつもよりゆっくりと線路沿いに歩いた。
     新橋から有楽町に向かう高架下、ナンパの聖地と呼ばれるコリドー街の、その反対側を北上する。
     喧騒から溢れてきた男女はいるが、レンガとコンクリートの壁が、夜の裏通りの落ち着きを辛うじて維持している。
     丸の内に向かいながら、足音を待っていた。
     俺を追いかける足音。
     

    「茅ヶ崎!」
     ようやく、パタパタという革靴の音が聞こえたかと思うと、すぐに俺を呼ぶ声も聞こえて、随分手前で声をかけるな、と思った。
     振り向いて、"隣席の男性の先輩"が大きく手を振るのを見る。
     動かずに待つつもりだったが、こちらに向かう彼の方へ、元来た道を数歩ほど戻ってしまった。
     彼は俺の2m手前で止まって、どれだけ走ったのか、要件を言えるようになるまで、息が整うのを待たなければならなかった。
     山手線がガタガタと通り過ぎて行く。
     オレンジ色の街灯が、コートと鞄を脇に抱えたスーツの男を、くっきりと照らしている。
    「大丈夫ですか?」
     もっとずっと、ゆっくり歩けばよかった、と思う。
    「大丈夫、ごめん、忘れ物、あって」
     折り畳み傘は、コートと鞄の間から出てきた。
    「今日、これから、雨だから」
     肩で息をしながら渡される。
     彼なら、持ってきてくれると思っていた。
    「すみません、ありがとうございます」
     社会生活は、どんな言葉と感情を向けられても、こうした教科書的なリアクションだけで意外とどうにかなるな、と思う。

     
    「それで、あの」

     来たな、と思う。


     余裕のなさそうな彼の代わりに、近くに人がいない事を確認した。
     通りに点在する人々には、なるべく、聞かれたくなかった。
     閉店した居酒屋のシャッター前は、ぽっかりと暗く、俺だけを暗がりに留めてくれている。
     もう少し近付いてくれれば、二人とも影の中にいられたのに、と思うが、そういう余計な計算をするひとではなかったな、と思う。

    「卯木から、聞いてるよな」
    「............はい」
    「いや、ごめん、ほんと、考えたけど、やっぱり気付いてるからだろうな、と思って」
     もちろん、気付いていた。
     伊達にこの顔で生きてきていない。
    「悪い、困るよな、ほんと」
     彼は、両足を開いて両手を膝に置いて、荒い息を整える姿勢のまま、顔を伏せ続けている。

    「あの」
     そして、地面を見たまま一息に、自分の感情を切り捨てた。
    「気付かなかったことにしてほしい」




     入社した頃から付き合いのある先輩で、ずっと同じ課で、ずっとお世話になっていて、たぶん、強いて言うなら、1番親しかったのではないか、と思う。去年までなら、だけど。
     いいひとだったのだ、ふつうに。
     その彼が、今は下を向いたまま、俺に謝罪している。
    「俺なんかじゃだめだよな、わかってる、だから、なかったことにして、これからも、先輩と後輩でやっていけたら嬉しい」
     両膝で強く握られたスラックスが、皺になってしまう、と思った。
     思ったけれども、指摘することはできない。
     見下ろしている状態が落ち着かないが、そもそも、俺の方が背が高いのだった。
     元から、かわいい後輩そのものではなかった。


    「────千葉さん」
     久々に名前を呼んだ気がする。
     彼はまだ、顔を上げない。
    「傘、ありがとうございました」
     上げられないだろうな、と思う。
     無駄に明るい街灯のせいで、丸まった背中が震えているのがわかってしまう。
    「謝ってもらうようなことは、何もなかったですよ」
     影の中にある顔に向かって言う。

     今俺は、どんな顔をしているだろう。


     そして彼の言葉を待った。
     待つしかない。
     その間に、線路の反対側から出てきた何組かのひとが通りかかり、何だろう、とこちらを見ては、それぞれの目的地に向かい、賑やかに去って行く。
     その横で、裏通りに止まり続ける彼の、一夜限りの恋ではないものが終わろうとしていた。





    「............ありがとう」
     10分ほど経って、ようやく彼は答えてくれた。
    「顔、ちょっと、まだ上げられないから、もう行ってほしい」
     と言われる。

     それでも、すぐには動けなかった。
     不自然な発音が、常態ではないことを伝えてくる。
     感情を、好意を返すことはできないのに、今、優しくしてはいけない。



     
     いけないのだが。




    「え、っと」
     と、思わず声をかけてしまう。
    「あの、本当に大丈夫、ですか?」
     先日のピザ屋の店員のようになってしまった。
    「......う、」

     最初は確かに泣き声だったのだ。
     彼には申し訳ないが、慌てて近寄って膝をついて、背中をさすりつつ顔を覗き込む。
     コートのポケットにハンカチか何か、入れておけばよかった。
    「千葉さん?」
     一次会の時点で、いつもより呑んでいるな、と思っていた。
     酒に強いひとではなかった。
     その上でそれなりの距離を走ったのなら、さもありなん。
     もはや泣き顔というより、これは。
    「う゛、ぐ、」
     詰まったような声に身構えたが、ここで離れたら深く傷付けるかもしれない、と一瞬血迷ってしまって、つい、逃げるのが遅れてしまった。
     決して俺が、鈍臭いからではない。
    「ぇ、、が、」
     ぼと。
    「げぇ、、、」
     ぼたた、と少量の内容物が、俺の膝に落ちた後は、ほとんどが水分だった。
    「ぇ、がっ、っ、はぁ、はぁ、」
     びちょびちょ、と歩道に落ちて、よく跳ねる。
     膝の上が生暖かい。
     心底嫌だが、ぐっと堪えてしまった。
     慣れ親しみすぎた王子様の仮面を外しても許される場面だったなぁ、と今更すぎることを思う。
     跳ねた吐瀉物が、多分ジャケットにもついたが、コートの方は無事でいて欲しい。
    「ちがさ、ご、めん、」
     と、彼は言って、そしてそのまま、喋ることもできなくなったのか、ずし、と、丸まったまま俺の肩に体重を預けてくる。

     せめて、少しでも歩けるようになるといいんだけど、と思いつつ、とりあえず、また背中を撫でてあげることにする。

     頬を打つ冬本番の冷気も、ゲロの匂いは消してくれない。





     




    「は?」

     ひとが少ないせいか気が抜けて、つい大きめの声が出てしまった。
    「っと、すいません」
     子犬系のバーマンはまるで動じずに、にこにことグラスを磨いており、なるほど、意外といい性格をしているな、と思った。
     声のトーンを落としてもう一度訊く。
    「いや、俺がつけるんですか?」
    「はい。一応ユニセックスなんですよ、アレ」

     先輩が京子ママに連れていかれて小一時間、香水オタクだというバーマンから、先輩の香りについてひととおり聞いて、それから俺に似合うやつは、という話になったのだった。
     ジントニックについてもいくらでも話せる、という風だったのに、香水までカバーしているとは恐ろしい。
     酒に限らず"高い水"は大体好きなのだ、とふざけて言っていた。
    「茅ヶ崎さんが担当されたのって、日本初上陸だったアメリカのメーカーですよね」
    「そうですね、あの時はどちらかというと若い子に向けたプロモーションだったので、ざっと歴史を攫うために寄っただけで、あんまりちゃんと嗅いできたわけじゃないんですが......、俺の母親くらいの女性向けの香りじゃないですか?」
     挙げられて思わず驚いてしまった香水は、ウッドを基調としているものの、非常に華やかで、しかし品もあり、いかにも淑女のための、といった香りだった。
     cv.井上喜◯子、と思ったのを覚えている。
    「確かに茅ヶ崎さんのお母様ならお似合いになるでしょうね。女性でも男性でも、一般的なお若い方がつけるのは難しいかもしれませんが、ええ、何事も例外はありますから」
     反論虚しく、あっさりと"例外"の烙印を押されてしまった。
     正直なところ自分自身については、見た目はともかく中身は一般的な男オタクだと認識してるので、違和感というか、信じられない気持ちが強い。
     見た目にしてもフェミニンと言われたこともないし、何故それを選ばれたのだろう。
    「これでも地味な人間なんですけどね、インドアですし」
    「おや、逆に言うと、そういうところ、かもしれませんよ」
     そういうところ、とは。
     ますますわからん。
     思わず深く首を傾げて、天井を見る。
     少しだけ視界が揺れて、結構酔ってしまったな、と自覚した。
    「たとえば、卯木さんのつけられてる香水はどうですか?メタリックながら有機的な香りですが、金属と言っても、重苦しい鋳鉄でも合金でも銀でもない。あの方がご自身の硬質さの種類を、どこまで自覚なさっているか。逆に、自覚していたらら果たしてあの澄んだ香りが似合うのかどうか」
    「うーん、確かにまあ、自分をプラチナだと自惚れるタイプではないですね」
    「はは、そうでしょう、そして、ジャスミンのあの青みのある花の香りに相応しい、というご自覚も」
    「まあ、ないですね」
    「と、いうことです」
    「なるほど?」
    「はい」
    「うーん」
    「ふふふ」
    「どうしよう、説得されてしまった」
     わはは、と笑われる。
     笑うとより犬っぽく、くしゃ、と顔に皺がよる。
     もしかしてこのひと、結構年上だったりして。
    「基本的には本人が好きな香りをつけるのが1番だと思うのですが、今回みたいに似合う香水を選ぶなら、それはつける方の見た目や性格や好みと繋がりつつ、それとはまた別のもの、になるのかもしれないですね」
     そう言って、若そうに見える割に博識のバーマンは、俺の空になったグラスを大仰な仕草で下げる。
    「どうなさいますか?」
    「同じもので」
     結局ジントニックではなく、ロングアイランドアイスティを飲んでいる。
     別のカクテルについて訊くより、もう少しこの、香りについての話を聞いていたい。
    「......見た目や性格や好みと外れていても似合う、というのは、では逆に何を見てるんでしょう。似合う香水、というのは、なにを纏うことになるんですかね?」
    「本質的な問いですね」
     少し考えるように、それでもその手は、流麗にグラスを扱う。
    「そうだなあ、わたしは、香水好きとしてただただ調香師の作った世界を感じたい、という動機で、映画を観るようにつける香水を選んでいるのですが、つまりそうすると、わたしは、その方がどんな役が似合うか、というのを考えているのかもしれません」
    「役、ですか」
     カウンターの向こうで、トン、トン、トン、とリズミカルに酒が出され、順に注がれていく。先ずはウォッカ。
    「そうですね。香りが海馬を通じて記憶を呼び起こすのは有名な話ですが、記憶と同時にその際の感情も引き出されるそうです」
     ジン、ラム、テキーラ。
    「あたかも本を開くように、映画が始まる時のように、舞台の幕が上がるように、感情を伴った記憶が再生されるのです」
     ホワイトキュラソー、レモンジュース、コーラのミニ缶。
    「例えば、茅ヶ崎さんとすれ違ったひとが、あの香りを嗅ぎます。きっと、豊かに葉が繁り、枝を大きく広げた木の下、いくつもの花が咲いた美しい景色と、その景色を見た時の、俗世を忘れるかのような高揚と陶酔、そんなものを思い起こすでしょう。」
     ステア、ステア。
    「そしてその記憶の向こう、そのシーンを透かすように、振り向くと」
     輪切りのレモンとチェリー。
     緞帳を模した手振りとともに、うやうやしく、カクテルが置かれる。
    「茅ヶ崎さんがいる」
     にっこりと微笑まれた。
     甘く、飲みやすく、アルコール度数の高い、琥珀色のそれを舐める。
    「香水、というものは、我々が、目を閉じて見られる唯一の幻なのかもしれません」
     まるで古典劇のような台詞で、揶揄われている気配すら、四種の酔いの中ではほどけてしまう。

    「............やっぱり俺じゃ、役者不足だと思いますけど」
    「そんなことはないですよ。今度、身近な方に訊いてみてください」
    「考えときます」







     





     ビジネスホテルのシングルルームの重い扉を中から開く。
     ちょうど真上の照明が先輩の眉間の影を強調して、怪訝な顔が不穏に現れたかと思うと、長い、長いため息を吐かれた。
    「なんですか急に」
    「服を着ろ」


     あれから、ゲロつきのスーツとゲロを吐いた酔っ払いを抱えてどうしたかと言えば、運良くすぐ脇がビジホだったので、そのまま酔っ払いを引きずり横移動したのであった。
     受付を渾身の笑顔で突破してエレベーターへ、なんとか部屋のベッドまで運んで、自分の汚れたコートとスーツなど(よく見たらネクタイにも跳ねていた。捨てたい)を脱いで風呂場に置いたところで、先輩が来たのが悪い。
    「先輩が残業中で助かりました」
     と言いながら手を差し出す。
     車に着替えを積んでるので、これ幸いと呼び出して持ってきてもらったのだった。
    「で、ゲロ吐いた酔っ払いは?」
     先輩は、俺の手を無視してズカズカと部屋の奥のベッドへ向かう。
    「ゲロ吐いた酔っ払いって」
     一言一句違わず同じ呼称を脳内で使っていたが、一応ツッコミを入れながら数歩だけ追いかける。
     ベッドではその酔っ払いが横になりながらも寝ずに、まだうーうーと呻いているので、やや猫被りモードだ。
    「もうちょっとしたら落ち着くと思います。見届けてから社に戻ろうかと思ってるんですけど」
     思っているのだが、ワイシャツ一枚にパンツと靴下だけの下半身、あとは渡された先輩のジャケットだけ、なので、外に出ることができない。
    「歩けるのか?」
     先輩は、着替えを催促するべく差し出したままの俺の手に、ジャケットを脱いで渡す。
     このひとは俺の手を、ハンガーかなにかだと思っているのだろうか。
    「俺が支えてられる程度には、ですかね」
    「そう、じゃあ家に帰すか」
    「は?」
     ベッドの横に立ち、潰れた酔っ払いを仰向けに転がしながら、先輩は言った。
    「ぅぁ......う......つきさん......?」
    「お疲れ様。もう雨が振りそうだから、車で送るよ」
    「いや先輩車ってまさか」
    「お前の車」
     と言って、徐にベッドの上の成人男性の背中と膝下に腕を突っ込む。そしていとも簡単に抱え上げた。
     俗に言うお姫様抱っこというやつである。
     お、おう、という画面えづらへの戸惑いの気持ちを抑えつつ、シートにゲロ吐かれたらどうすんですか、とも言えず、とりあえず愛車を守るために抵抗を試みる。
    「まだ寝かせておかないと、また具合悪くなりませんか」
    「家の方が休まるだろ」
     おい適当言ってんなよな、と思うが、オブラートに包んだ状態の俺の語彙力では先輩に勝てるはずもない。
     正直、一連の出来事に疲れてもいたし、俺の方が帰って寝たいわ、とも思うが、大人しく引き下がることにする。
     ムカつくのでなんかしらのイチャモンをつけて、先輩の金で愛車をクリーニングに出そう。
    「で、千葉くんて家どこ?お前知ってる?」
    「たしか代々木上原だったかと」
    「あそう、じゃあ俺の鞄にお前のノート入ってるから、仕事でもして待ってろ」
     と言って、でかい男3人では狭すぎる部屋を、でかい男を抱えたままスタスタと歩き入り口に戻っていく。
    「............。」
     どうやって俺に無断で社用PCを持ってこれたんですかねえ〜〜〜〜と思いつつ、器用に足で扉を開けて、出て行く背中をまた、見送ってしまう。
     床から垂直に真っ直ぐの背骨と、横に広がる肩甲骨をベストに包んだ背中。
     金属のドアを押さえた身体は、一瞬こちらを向いたが、横顔の伏せた目は、ずっと扉と廊下を見ていた。

     こちらを見ない。振り返らない。
     並んだと思えば、もういない。

     結局着替えはなく、また、先輩のジャケットが、抜け殻のように残る。

     あとは俺だけ、他の誰も居なくなってしまった部屋。
     ジャケットは今日も、先輩の体温を移してあたたかい。







     





     以下は、俺の知らない話である。

     あの後、まるで自分の車のように慣れた仕草で運転席に乗り込んだ先輩は、後部座席の千葉さんに、起きてるんでしょう、と言った。
    「............すみません」
     と千葉さんは言う。
     雨がポツポツと降り始め、車は渋谷へと走り出す。
    「やっぱり振られた?」
     と先輩は言った。
     皇居の脇を抜けて永田町から青山へ、墓地に差し掛かる頃に千葉さんは答える。
    「茅ヶ崎くんは、卯木さんといるときは随分楽しそうですね」
    「そうだね」
     このルートは緑が多い。
     雨と木々が光を遮って、暗く沈んだような道を進む。
     千葉さんは身体を起こした。
    「どうしたら、卯木さんみたいになれますか」
    「ならない方がいいよ」
    「なりたいです」
     南青山の交差点を過ぎると徐々に明るくなって、表参道の喧騒の真ん中に突き刺さり、交差点の信号を待つ。
    「特別なひとになりたい」
    「うちの会社に勤めてて千葉くんくらい格好良かったら、十分特別だと思うけどね」
    「あなたが言うとぜんぶ嫌味でしかない」
    「いいね、本当に酔ってるな?」
    「はい。なんでも言えます」
     2人の会話は、あくまでも静かに続き、夜の街のざわめきとぼたぼたと落ちる雨粒の中で、切り抜かれたようだった。
     雨足が強まり、それでも雪になる気配はなかった。
    「俺も役者やってみようかな」
    「楽しいよ、大変だけど。仕事よりずっと楽しい」
    「そしたら、平凡な男ではない特別なひとになって、特別なひとに好きになって貰えるかもしれない」
     信号が青になり右折する。
     原宿までは短い渋滞になる。
    「特別なひとになれたら、茅ヶ崎みたいな男に好きになって貰えるって?」
    「そうです」
    「ふふ」
    「何がおかしいんですか」
     ネオンや街灯がキラキラと、雨に滲んでいる。
    「本当に自棄になってる」
    「ええ」
    「面白いな、とりあえず代々木上原の駅に向かってるけど、そろそろ道教えてよ」
    「駅で大丈夫です。ねえ卯木さん」
     車はじわじわと坂を登り、窓の外の騒々しさから逃れて、神宮の森の方へ進む。
    「なに?」
    「やっぱり茅ヶ崎は、卯木さんのことが好きですよ」
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