cocoon「あのね、鴫野くん。ちょっと話したいことがあって」
ことり、とかすかな音を立ててコーヒーカップが置かれるのを合図にしたかのように、ひどく思い詰めた色を宿したまなざしと真摯な響きを携えた言葉がまっすぐにこちらへと注がれる。
「あぁ、うん。なあに」
思わず姿勢を正すようにして問い返せば、どこかしら緊張を隠せない様子の、すこしだけ震えたいびつな声で遠野くんは答える。
「その……時期が来たら改めて話すべきだよなっていうのはずっと思ってて。それがいまでいいのかっていうのは迷ったんだけど、でも――あんまり先延ばしにしたままっていうのも、失礼だよなぁと思ったから」
〝らしい〟としか言いようのない念入りな前置きを経た後、慎重な口ぶりでの言葉が続く。
「僕たちもその……そろそろさ、次の関係に進んでもいいのかなっていうのをすこし前から思ってて――鴫野くんがその辺をどう考えてるかっていうのを聞きたかったんだよね。ほら、僕ひとりで決められることじゃないでしょう? 色々と事前に考えなきゃいけないこともあるだろうしね。その、準備だとか」
「あの、遠野くん……」
思わず口籠もるこちらを前に、ひどく気まずそうな返答が返される。
「ごめんね、急に。おかしなこと言ってさ。ほら、鴫野くんは焦らなくっていいって言ってくれたけど、だからっていつまでも甘えたままでいるのもよくない気がして――それで」
「遠野くん、それって」
ひとつしかないよね? まぁ。ぼんやりと揺らいだまなざしをじいっと見つめ返すようにすれば、こくり、と同意を示すかのようにちいさく頷いて見せてくれるかわいいお返事が返される。
えっ、ちょっと待って。いや、嬉しいかそうでないかで言えば前者に決まっているけれど、それでも。隠しようのない戸惑いと、かすかな喜び――その両方を溶かしたような瞳でじいっと見つめれば、もどかしげに震える唇はためらいに揺れる言葉を紡ぐ。
「ごめんねほんと、急におかしなこと言って。しかもこんな明るい時間に。いや、時間はこの際関係ないのかもしれないけどさ。それで、」
「あの、遠野くん――」
ひどくうろたえたようすを前に、いくつもの言葉にならない感情が湧き上がってはざわめくような音を立てる。どうしよう、ほんとうにすごくかわいい――いや、そうじゃなくて。
わざとらしくこほん、と咳払いをこぼし、すこしは平静を取り戻せないかと一口だけコーヒーに口をつけたのちに、僕は答える。
「あのね、遠野くん――ありがとう。すごくうれしい。はずかしかったよね、そういうの、言ってくれるの。ごめんね、本当に。僕もちゃんと話してなかったもんね? そうだよね」
囁くように答えながらそっと手を重ねれば、しなやかで綺麗な指先は、ごく当たり前のようにこちらのそれを握り返してくれる。
僕たちが〝恋人同士〟になってからは、もうすぐふたつ目の季節を迎えようとしていた。
どこかぎこちなさや気恥ずかしさを感じずにいられなかった時間はとうに過ぎて、お互いにごく自然な〝らしさ〟くらいは身につけ始めていた頃合いだとは思う。
僕はもう遠野くんのしなやかな指の骨や綺麗な爪の形をたしかな感触として思い起こすことが出来るし、ぎゅっと抱きしめあった時にふたつの心臓の音が奏で合う不揃いな旋律だって知っている。
重ねあって溶け合う吐息の熱さも、指先で髪を掬った時のすこし硬めの感触も、耳元で囁き声を落としてくれる度に心の内がどんなふうに震えるのかも、寝起きの無防備でうんと幼い顔やぐずついておぼつかない話し方だって――おそらくその先で、恋人同士ならごく当たり前に行われているのであろう行為――そこだけはまだ、ぽっかりとした空白のままだけれど。
「えっと……聞いてもいい? 遠野くんがどうして話してくれたのかって」
ばつの悪い心地を隠せないまま、ひとまずはそう尋ねてみる。少しばかり卑怯なやり口なのはわかっているけれど、勿論。ぎこちない問いかけを前に、ひどく気まずそうにくしゃりと髪をかきあげながら、やわらかな口ぶりでの言葉が返される。
「まぁその――鴫野くんに我慢させてたりしてたんなら申し訳ないと思ったから、それで」
「遠野くん……」
ごめん、じゃなくて。いまは。
弱気な言葉に潜む憂いをどうにか掻き消したくて――きゅっと口角をあげるようにしてやわらかく笑いかけながら、慎重に僕は答える。
「あのね――ありがとう、すごくうれしいよ。まあさ、僕だってなんにも考えないって言ったら嘘になるよ? そういうことにまるっきり興味がないだなんてわけじゃないしね。すごく悪いことだとかよくないことだとも思ってなければ、本当に好きな人とはそういうことがしたくないってわけでもなくて……ほら、そういう人もいるっていうでしょ?」
見つめあうまなざしの奥には、かすかな戸惑いと安堵、その両方が溶け合うかのようなあやうい色が宿る。
いびつに震えた指先をぎゅっときつく握り返し、意を決するように僕は答える。
「だってさ……その、遠野くんもわかってるだろうけど――ほら、僕って身長も遠野くんとほとんど変わらないでしょ? 遠野くんほどじゃないけど筋肉もまぁ、ないわけじゃなくて――だからさ、そういうことになると、どうしても負担がかかっちゃうから」
こらえようのない気まずさと恥ずかしさに、思わずぼうっと頭の奥が熱くなる。
いくら大事なことだって言ったって――いや、ここで誤魔化すわけにいかない。何よりも、ちゃんと勇気をもって切り出してくれた遠野くんに失礼だから。
ぐっと深く息を飲み、喉の奥でつかえかけた言葉をゆるやかに吐き出す。
「遠野くんはさ、水泳が何よりも大切でしょ? だから大事な遠野くんの体にもしなにかあったらって思うと、不用意なことはできないよなって言うのがすごくあって」
「鴫野くん、あの――」
まなざしの奥に、いくつもの揺らいだ光がまたたく。これを知ってる、もっとずっと前から――かすかだけれど確実な、遠野くんが手渡してくれる優しいサインのひとつだ。
「ごめんねほんと。要するにさ、歯止めが効かなくなっちゃうのが怖かったんだよね。遠野くんはそんなに積極的なふうでもなかったし、だったらひとまずはこのままでいいのかなって思って。ほんとにさ、もっと早くにちゃんと話すべきだったよね? まあさ、そもそも当たり前みたいに僕の方からって考えてるのがおかしいと思うんだけど、でも――」
思わず言葉を詰まらせれば、ひどく優しいまなざしとともに、促すような言葉がかけられる。
「でも、なに?」
「その……、」
やわらかな響きで手渡される言葉に、鼓膜を伝うようにして、頭の奥までがじんと熱くなる。ひどくはずかしい――でも。遠野くんはきっと、これ以上にずっと〝そう〟なはずで。
小さく息を吐き、覚悟を決めるように僕は答える。
「だってさぁ――それって要するに『僕のことが好きなら抱けるよね?』って遠野くんに迫ってるみたいじゃない? なんかそういうのって、自意識過剰だと思われないかなって」
顔だけじゃなくて耳まで熱ければ、心臓の脈打つリズムがうんと早まっているのを感じる。みっともない、はずかしい――だからって、いまさら取り繕ってなんていられない。恋愛ってきっとこんなことの繰り返しなのが当たり前だから。
「……鴫野くん、あの」
おなじようにひどく照れくさそうな口ぶりで、やわやわと切羽詰まった様子の言葉が返される。
「鴫野くんはすごく魅力的な人だと思うよ。かっこよくて綺麗で、それにかわいくて――失礼だったら申し訳ないけど、セクシーだなってことも思うし。こんなに素敵な人が僕の恋人なんだって、そう思うだけでほんとにうれしくって――ゆくゆくはそういう関係にもなれるのかな、なれたらいいなっていうのは考えてたんだよ、僕なりに。でも――先に踏み出してくれたのは鴫野くんの方だったでしょう? だからまぁ、鴫野くんまかせでいいのかなっていうのがずうっとあって……ごめんね、ほんとうに。無責任だったよね?」
「そんなことないから」
思わず被せるように答えれば、揺らいだまなざしの奥に宿る光に新たな色が瞬く。
「あのね、遠野くん。じゃあさ、質問を変えるけど」
ごくりと深く息をのみ、確信へと迫るような心地で僕は尋ねる。
「遠野くんはさ、セックスが好き?」
「あぁ、その――」
ひどく気まずそうに言葉を詰まらせる姿を前に、じわりと胸の奥が締め付けられるような心地を味わう。そうだよね、どれだけデリカシーがないことを尋ねているのかなんて百も承知だから。それでも、恋人同士の関係においては避けて通れないことではあるのだし。
こみ上げるうような気恥ずかしさを必死に堪えるようにしながら、ぶざまに震えた声で僕は答える。
「僕はね……好きだよ。この人とならって思える大事な相手に出会えて、そうなれた時にすごく幸せなことだなって思えたから。だからさ、遠野くんともいつかはって思ってた――僕だけが知ってる遠野くんがほしいなって。でもそういうことって僕の気持ちだけで決めていいわけないでしょ? 僕はさ、すごくうれしかったんだよ。いっしょにいるうちに遠野くんが少しずつ僕のことを受け入れてくれてるんだなって感じられることが増えてきて……遠野くんはきっと、僕のこと信頼してくれてるんだろうなって思えて、ほんとうにうれしくって――その度にほんとうに好きだなぁって思えて、すごく」
おそるおそると告げ終えた言葉の終わりに深く息を吐けば、あわく揺らいだ色を宿した瞳が、まじまじとこちらを見つめ返してくれる。
「ごめんね、ほんと。おかしなこと聞いて。ほんとにさ、勝手だよね?」
「そんなこと――」
自嘲気味な答えにかぶせるように、もどかしげな言葉が続く。
「嫌いではないよ。楽しくて、いいことだって思う。でも――鴫野くんはさ、いつも僕が何も取り繕わないでも自然でいられるようにってしてくれるでしょ? たぶん初めからずうっとそうで、いまもずっと変わらないままでいてくれて――だから、」
ひどく気恥ずかしそうに――それでいながら、きっぱりと意思を込めるように真っ直ぐにこちらを見つめるまなざしと共に、うんと優しい言葉がこぼれる。
「正直に言えば――相手がそういうことを望んでくれるんだからしないとって思ってたようなところがきっとあって。……自分だって楽しんでたんだから、こんな言い方が卑怯なのはわかってるんだけど。たぶんだけど、そういうことに夢中になりすぎちゃったら怖いなっていう気持ちもどこかしらにあって。それで、前にも――」
次第に息苦しげに掠れてゆく言葉とともに、くすんだ光を宿したまなざしは隠しようのない逡巡に揺れる。
「遠野くん、あのね」
迷いに揺れながら、それでも。微かに震えた指先でそっと薄手のカーディガン越しの腕へと触れながら僕は答える。
「ありがとう、ほんとうに。無理に答えなくていいからね」
「あぁ、うん」
安堵の色を隠せない返答を心の内へと焼き付けるようにしながら、努めてきっぱりと言葉を紡ぐ。
「僕さは、遠野くんとこうしてるのが好きだよ。一緒にいられるだけでうれしくて、遠野くんが笑ってくれると心の中がふわっとあったかくなって――それにさ、遠野くんはいつもすごく優しく僕に触ってくれるから、その度にすごくふわふわして気持ちよくて……こんなに幸せでうれしくってどうしようって、いつもそう思って」
うっとりと瞼を細めながら、愛おしさとしか呼べないものばかりで積み重ねてきた〝これまで〟を思う。
「遠野くんにはさ、無理して〝恋人らしく〟しなきゃなんて思わないでほしいんだよね。僕はいまのまんまでも、遠野くんの恋人でいられてほんとうに幸せだなってそう思えるから――だから」
答える代わりのように、やわらかく綻んだ遠慮がちで優しい大好きなあの笑顔が返される。
「ごめんね、本当に。ちゃんと話さなきゃわからないなんて、当たり前なのにね?」
だからこんなにもうれしかった、きちんとその〝機会〟を作ろうとしてくれた遠野くんのとびきりの優しさが。
「ごめんね、鴫野くん」
「いいからさ、謝らないでよ?」
息苦しげにぽつりと漏らされる言葉に被せるようにと、わざとらしく強気に答えてみせる。
「これからもさ、遠野くんがしたいことがあるんならいっしょにたくさんしようよ。僕はそれがいちばんうれしいし、嘘なんてついてないからさ。それがはずかしいけど気持ちいいことだっていうんならそれでもいいよ。いますぐじゃなくたってね。それでも僕は出来るだけ遠野くんの負担にならないのがよくて――でもさ、それだって僕のわがままでしょう? だからさ、もしそうしたいってなった時にはまたふたりで考えられるのがいちばんいいんじゃないかって思って」
「うん……、」
促すような相槌に、いつのまにかぼうっと熱くなった瞼にぎゅっと力を込めるようにしながら答える。
「あのね、遠野くん。僕、遠野くんのことがすごく好きだよ……こんなに好きになったのなんてきっとはじめてだから。ねえ、信じてくれる?」
みっともなく震えた声で告げる精一杯の思いを前に、やわらかくて穏やかな、大好きなあの声がそっと降り注ぐ。
「ありがとう、鴫野くん。僕もおなじだから、きっと」
見つめあったまま、気持ちを分かち合うようにとそっと笑い合う。ただそれだけのことで、降り積もるようなわだかまりは優しく溶けていく。
「それで……その、」
縋るような心地でそっと、布地越しにでもしっかりとつたわるしなやかで力強い筋肉をたどるように触れながら僕は尋ねる。
「お願いがあって、遠野くんに。いまね、僕、すごく遠野くんのことぎゅうってしたくて」
切羽詰まった口ぶりで遠慮がちな〝おねだり〟を告げれば、やわらかに綻んだような笑顔とともにうんと優しくてかわいいお返事が返される。
「あのね、鴫野くん……すごく奇遇だと思うんだけど、僕もおなじように思ってて」
滲んだ瞳の奥で、あたたかな色を宿した光が幾重にもまたたく。
「うん、じゃあ」
そろりと手を離したのを合図にするかのように、長くてしなやかな大好きな腕がこちらへと伸ばされると、すっかり手慣れた手つきで抱き寄せてくれるのに身を任せながら、うっとりと瞼を細める。
すごくうれしい、ドキドキする、それになによりも安心する。
すこしもやましい気持ちにならないなんて言えば、きっと嘘になるけど――こんなに優しくて気持ちいいこと、ほかには知らない。
「ありがとう、遠野くん……ありがとう。大好きだよ」
好きになってくれてうれしい、こんなに素直でまっすぐな気持ちで向き合ってくれてうれしい、抱きしめあえてうれしい――こんな気持ちが自分の中にあったことを教えてくれて、すごくうれしい。
堪えのようのない気持ちに駆られるままに、僕とは違ってすこしかたい感触の髪に触れる。短く切り揃えられた髪をかき分けるようにしながら露わになった綺麗な形の耳をやわやわとなぞりあげれば、途端に照れくさそうに身を捩らせたり、かすかに熱ったまなざしを向けられるのがいつだってたまらなく愛おしかった。
「ごめんね、遠野くん。くすぐったい?」
「いいよ、そんなの。気にしないで」
綺麗な水が大地にぐんぐん染み込んでいくみたいに、鼓膜をつたうやわらかな声は心の奥までをあたたかに震えさせて、ますます身動きを奪う。
ただどうしようもなく泣きたいような気持ちが込み上げるのに身を任せながらじいっと上目遣いにまなざしを注ぐようにすれば、ぎゅっときつく回された掌は宥めるようにうんと優しくこちらの背をなぞってくれる。
言葉では言い表すことなんてできるはずもないあたたたかでおだやかな感情がまたひとつ、胸の奥で音も立てずに静かに溶けていく。