幼い頃からずっと、クリスマスの訪れを手放しで喜ぶことが出来ないままだった。
片付けるのが面倒だから、と申し訳程度に出された卓上サイズのクリマスツリーは高学年に上がる頃には出番すら無くなっていたし、サンタさんからのプレゼントは如何にも大人が選んだお行儀の良さそうな本、と相場が決まっていて、〝本当に欲しいもの〟を貰えたことは一度もなかった。
ただでさえ慌ただしい年末の貴重な時間を割いてまで、他の子どもたちと同じように、一年に一度の特別な日を演出してくれたことへの感謝が少しもないわけではない。
仕事帰りにデパートで買ってきてくれたとってきのご馳走、お砂糖細工のサンタさんが乗ったぴかぴかのクリスマスケーキ、「いい子にして早く寝ないとサンタさんが来てくれないわよ」だなんてお決まりの文句とともに追いやられた子供部屋でベットサイドの明かりを頼りに読んだ本――ふわふわのベッドにはふかふかのあたたかな毛布、寂しい時にはいつだって寄り添ってくれた大きなしろくまのぬいぐるみ、本棚の中には、部屋の中に居ながら世界中のあちこちへの旅に連れ出してくれる沢山の本たち――申し分なんてないほど何もかもに恵まれたこの暮らしこそが何よりものかけがえのない〝贈り物〟で、愛情の証だなんてもので、それらを疑うつもりはすこしもなくて、それでも――ほんとうに欲しいものはいつだってお金でなんて買えないもので、けれども、それらをありのままに口にするのはいつでも躊躇われるばかりだった。
大人が期待しているのは、愛してくれるのはきっと、〝聞き分けのいい子〟の僕で、ひとたびそんなことを口にした時の反応なんてものは目に見えていたからだ。
ねえお父さん、お母さん。綺麗なご馳走なんていいから、前に作ってくれた野菜もお肉もたっぷり入ったあったかいシチューが一緒に食べたいな。
いつもはお行儀が悪いからだめだって言うけど、ご飯の間にテレビかラジオをつけながら最近のいろんなことをお話してほしいな。僕のことだけじゃなくって、お父さんやお母さんに何があったのかだって聞かせてよ。お片付けは僕もちゃんと手伝うから、晩ご飯の後にはこないだひとりで観た映画をこんどは一緒に観たいな。
ねえサンタさん、一年に一度だけの特別な日くらい、いつも忙しいお父さんお母さんにだってとっておきのプレゼントをくれませんか?
水泳教室のエントランスに飾られたうんと立派なぴかぴかのクリスマスツリーを見上げながら抱いたささやかな「お願い」は、とうの昔にサンタクロースのお爺さんとお別れを告げたいまになっても、溶けきることない鈍い棘のように心の片隅に残ったままだった。
「あのね、遠野くん。これ、よかったらどうぞ」
粉砂糖の雪を被ったガトーショコラに、びっしりとドライフルーツの入ったパネットーネ、あたたかな湯気をたてるガラスのカップに入ったハーブティー、控えめなボリュームで流れるオールディーズナンバーに優しく溶け合うような珈琲を焙煎する音――いつしか定例となっていたバスケサークル帰りのちょっとした〝お茶会〟の折、ふいに、テーブルを挟んだ向かい側から金色のリボンを掛けた真紅の紙袋が差し出される。
「ちょっと早めのクリスマスプレゼント。ごめんね、荷物になっちゃうんだけどさ」
いやに大きな袋を持っているな、と思っては居たのだけれど――思いもよらなかったあたたかな提案を前に、鈍く軋んだ心のうちは静かに騒めく。
「あぁ、」
ごめんね、わざわざ。咄嗟に口をついて出かけた言葉を慌てて飲み込み、取り繕うようにぎこちなく笑いながら僕は答える。
「……ありがとう、開けてもいい?」
「もちろん、どうぞ」
満面の笑みと得意げな口ぶりでの言葉に促されるままに、かさりと音を立てながら袋の封を開く。たちまちに現れるのは小さなクッキーとドリップパックのコーヒー、それから、雪を被った煉瓦造りの家の形をしたお菓子の箱らしきものだ。
「鴫野くん、これって」
随分と立派なプレゼントに驚きと戸惑いを隠せないままにそう尋ねれば、真っ直ぐにこちらを見つめるまなざしにはふわり、と穏やかに綻んだ色が浮かぶ。
「ああ、素敵でしょ? アドベントカレンダーっていうんだって。こないだ行ったお店に色々売っててさ、颯斗にも贈ってあげたんだ。ちゃっかり自分の分も買っちゃったんだけどね? 本当はみんなにあげたかったんだけど、そう言うわけにもいかなくって――だから悪いけど、他のみんなには内緒にしててね?」
ぱちり、とウインクをこぼしながら掛けられる言葉に、戸惑いと喜びとがない混ぜになったかのような、やわらかくたおやかに膨らんだ想いがそっと溢れ出す。
「あぁ、うん――でも」
そんな特別扱いを受ける資格なんてあったろうか、幼馴染の彼らとは違って、まだごく浅い付き合いでしかないはずなのに。もどかしく言葉を探すこちらを気遣うように、ふわり、と花のようなやわらかな笑顔に包まれた言葉が優しく手渡される。
「遠野くんはさ、前に話してくれたでしょう? クリスマスの時期って街中が華やかになっていいなって思うけど、なんとなく落ち着かない気持ちになるって」
「あぁ……、そうだね」
たちまちにたちのぼる気まずい心地を前に、ひどくあやふやな相槌でその場をやり過ごすのに必死になる。
どうして口にしてしまったんだろう、そんなこと――いまさらのようにどこか罪悪感めいた思いに駆られるこちらを気遣うかのように、ひどく慎重な手つきでの返答がそっと続く。
「みんなそれぞれの考え方だとか経験してきたことがあるんだしさ、そういう気持ちになるのが良くないって言いたいわけじゃないんだけど……だったらさ、遠野くんが今年のクリスマスが待ち遠しく思えるようにしてあげたいなってことを思ったんだよね。ほら、今年はみんなとパーティの約束もしてるでしょう? 凛が来れないのは残念だけど、今年は宗介も一緒で、遠野くんも居て――中学の時には会えなかったみんなが揃うんだなぁって思うとすっごく嬉しくって」
ふつふつと溢れ出すように穏やかに滲んだ言葉の端々からは、掛け値なしのあたたかな想いが手にとるようにこちらへと伝わる。
「ハルのとこはさ、クリスマスの時期にお父さんとお母さんが帰ってこれることが滅多になかったみたいで――去年と一昨年のクリスマスには、水泳部のみんなに凛も加わってハルの家でクリスマスパーティーを開いたんだって。今年は人数も随分増えてますます楽しみだね、中学の時の合宿みたいだねって話したら『騒々しいのはごめんだ』って返されちゃって――照れてるんだよね、要は。茜さんがハルのためにとっておきの鯖料理を考案してくれてるらしいよって伝えたら途端に目の色が変わってたんだけどさ」
かわいいでしょ、本当に。どこか無防備な響きでこぼれ落ちる言葉に、心の端をぎゅっと掴まれるような心地になる。
「楽しいことってさ、終わっちゃうとあっという間で、そう思うと始まる前からなんとなく寂しくもなっちゃうんだけど……あと何日ってワクワクしながら待つ時間が形に残せたら、そういう気持ちも少しは感じなくて済むのかなって思って。まあさ、僕があげたかっただけなんだけどね? こういうのってやっぱり、誰かのために用意するから楽しいものでしょう?」
得意げな口ぶりで手渡される言葉は、掛け値なしの穏やかなぬくもりに満ちている。
「鴫野くん……その、」
ぐらりと、あたたかな波に呑まれるような心地に襲われながら、かすかに震えた指先をテーブルの下でそっと握り込むようにすれば、ふつふつと込み上げるような想いがたちまちに胸の内を埋め尽くしていく。
すこしも思えなかったのに――こんな気持ちを手渡してもらえる日が来るだなんてこと。どうして僕なんかに、なんで。
たちまちに喉元まで込み上げてくる気弱な言葉を必死に抑え込むようにしながら、くぐもった吐息をそっと吐き出す。
――そうじゃない、いまは。
「……ありがとう、その。本当に嬉しいよ、感謝してる」
かすかに震えた言葉はひどくありふれた陳腐なものに過ぎなくて、それでも――いまこの時、何よりも伝えるべきことはきっとこれ以外にはあるはずもなかった。
いまにも溢れ出しそうなあたたかな思いを噛み締めるようにしながら、ぽつりぽつりと手探りの言葉を手渡す。
「僕も鴫野くんにお返しがしたいからさ、悪いけどもうすこしだけ待っててくれる? その……他のみんなには、ひとまずは内緒で」
みんなでお金を出し合っての月紫くんへのプレゼントとは別に、交換用のプレゼントを各々ひとつずつ用意することはあらかじめ決まっていたけれど――こんな〝抜けがけ〟は想定外のものだ。
ひどくぎこちない口ぶりで告げる言葉を前に、そんな些細な迷いなんて覆すかのような軽やかな答えがそっと返される。
「うん、ありがとう。嬉しいな、すごく。なんかさ、ドキドキしちゃうよね。ね、いっそのこと指切りでもしちゃう? 僕と遠野くんだけの秘密の証にさ」
くすくすと笑い声をあげながら、しなやかな小指を掲げる仕草を前に、こわばった心地はみるみるうちに和らぐ。
「そこまでしなくても……まぁ」
苦笑い混じりにそっと答えれば、やわらかく解けたような笑顔は、もどかしくもつれた憂いをただありのままに受け止めてくれる。
「それでね、鴫野くん。ちょっと相談なんだけど」
ガトーショコラの山を銀色のフォークでそうっと崩しながら、遠慮がちに僕は尋ねる。
「この後ってすこし時間はある? よかったらちょっと買い物に付き合ってほしくって……そろそろさ、クリスマスカードの時期だよなってことを思って」
アメリカでお世話になったコーチになら送ったことはあったけれど、今年はせっかくだから、両親にも――気恥ずかしい気持ちはあるけれど、言葉で伝えなければ、胸の中に秘めたままの気持ちは届くはずもないのだし。
おそるおそる、と手探りで手渡す言葉を前に、テーブルの向かい側からはぱあっと花やいだ笑顔が返される。
「うん、もちろん。じゃあさ、折角だから僕の分も一緒に選んでもらってもいい? 遠野くんってセンスがいいからさ。あ、颯斗にはちゃんと伝えるからね、お兄ちゃんの大事な友達に一緒に選んでもらったんだよって。ズルは良くないもんね?」
ぱちり、と軽やかなウインクをこぼしながら告げられる言葉に、心の内は音も立てずに軽やかに弾む。
「お安い御用だよ、そのくらいならね」
笑いながらぽつりとそう答えれば、たちどころに心を巣食っていたはずの歪な迷いがいつのまにか魔法のように溶かされていることに気づく。
幼い頃からずっと、クリスマスの訪れを手放しで喜ぶことが出来ないままだった。
サンタさんはいつまで経っても〝ほんとうにほしいもの〟をくれないことはいつしかわかっていて、それでも、精一杯に喜んでみせるふりばかりを繰り返してきて――こうして季節が巡るたびに、そんな〝わがままな子供〟だった自分を突きつけられるような心地になるから。
過去を塗り替えることは出来ない、置き去りにしたままの気持ちに無理やりに蓋をすることも。それでも――ここから先に続く未来にはきっと、もっと優しくて明るい景色が、いままでには思い描くことすら出来なかった可能性があるのだということを、いまの僕はちゃんと知っている。
「楽しみだなぁ、すごく。ね、いいのが見つかるといいよね?」
答える代わりのように、ぎこちない笑顔を浮かべて見せる――ただそれだけのことで、心は音も立てずに静かに湧き立つ。
いままでとはまるで違うクリスマスが、こうして僕の中で始まっていく。