After the storm「郁弥、もうすぐできるけど」
「うん、ありがとう」
ソファに腰を下ろしたままスマホの画面をぼんやりと眺める姿にそっと声を掛ければ、いつもよりも少しざらついて輪郭のぼやけた返事が投げかけられて返ってくる。なんだか懐かしいな、寮にいたころみたいだ。
そういえば、家族や夏也くん以外の誰かが部屋に泊まっていくだなんてこれが初めてだったな、だなんてことが不意に頭をよぎる。……本当なら、いま頃こうしてここに居るのは鴫野くんだったはずなのに。いや、何を考えているんだろう。残念に思うだなんてそんなの、絶対におかしい。第一、わざわざこうして来てくれた郁弥に失礼だ。身勝手極まりない願望をぶんぶんと乱雑に頭を振って掻き消すようにしながら、フライパンの上で等分に切り分けた目玉焼きをお皿の上へと滑らせる。
トースターからは部屋いっぱいに広がるようなベーグルを焼く香ばしい匂い、それに、近所の焙煎所で買ったお気に入りのコーヒーのかぐわしい薫り――絵に描いたような穏やかな朝の光景とは裏腹に、心の内ではぶざまな迷いが幾重にも渦巻く。
クレイジーソルトを振りかけて両面しっかり焼いた目玉焼き、ハムステーキ、ベビーリーフとクレソンのサラダ、インスタントのコンソメスープ、くるみ入りのベーグル、ホットコーヒー。二人分の朝食を首尾よく食卓に並べながら、ダイニングテーブルの向かい側をぎこちなく盗み見る。
……怒ってるよな、やっぱりまだ。そりゃそうだ、いくら近くに住んでいるからって、家でくつろいでいたところをわざわざ呼び出されて酔っぱらいの尻拭いなんてさせられて、家主の僕に変わって片づけまでしてくれたんだから。
そういえば昨日の郁弥はどこで寝たんだろう? 来客用の簡易の寝具類のしまい場所なんてわかるはずもないし、ソファか、床にクッションでも敷いて雑魚寝でもさせたとか?
――世界を見据えて活躍する現役アスリートに僕はなんてことを。僕のことなんて無理矢理にでも叩き起こしてベッドで寝てくれればよかったのに。駆けめぐるような自責の念に襲われながらひとまずは、と黙ったままコーヒーに口をつける。そんなこちらを前に、トントン、と皿の端をナイフで叩きながら郁弥は問いかける。
「日和、もう平気なの? 変なところはない? 体が重いとか、覚えのない筋肉痛とか」
心配してくれているのだろうか――言葉とは裏腹に、こちらをじっと睨みつけるような眼差しに宿る色はひどく冷たい。おそらく無意識にフォークの歯をこちらに差し出すその仕草には言葉以上に色濃く感情の色が宿る。怒ってるな、予想していたよりもずっと――ひどく恐縮した気持ちにおそわれながら、おぼろげな口ぶりで僕は答える。
「いや、別に、特には……それより、郁弥の方こそ平気だった? ごめんね、気がつかなくって」
徐々に薄れゆく言葉尻で精一杯にそう答えれば、低くくぐもった声での返答が返される。
「なんで僕なの?」
いや、そんな顔しなくたって。……怪訝そうに眉をしかめる姿を前に、しどろもどろに答えを紡ぐ。
「いや、ほら。ベッド、僕が使っちゃってたでしょう? 郁弥がどこか痛めてないかが心配で……」
いくら不測の事態だったと言ったからって。視線の先、おそらく昨晩の寝床だったのであろうベッドの上ではくしゃくしゃにたわんだブランケットと積み重ねられた大小のクッションが朝日に鈍く照らされている。そんなことになるくらいなら、ちゃんと洗濯ぐらいしておいたのに。いや、リネンスプレーならこまめにかけているけれど。いやいやそんなことはどうだってよくって、いまこの時は。
「大したことじゃないよ」
投げやりな響きで吐き捨てるように告げられる言葉が、朝の光の中、ぼんやりと輪郭を滲ませる。
「そんなことよりさ、日和は自分のこともっと心配しなよ。昨日だって大分無理してはしゃぎすぎてたわけだしさ」
冷める前に飲みなよ、ほら。ずい、とスープ皿を押し付けるようにしながら掛けられる言葉は、やや投げやりな口ぶりとは裏腹に、穏やかな気遣いが滲む。
「ああ、うん……」
「いいけどさ、僕、もう先に食べるね。誰かさんのせいで、お腹空いちゃったからさ」
いただきます。手を合わせて小さく呟くと、先ほどまではこちらを指し示すためだけに使われていたナイフを郁弥は軽く握り直す。かちん、とどこかわざとらしく皿との衝突音を響かせて見せるその仕草からは、隠しようのない苛立ちがありありと滲んで見える。
そういえば、夏也くんと郁弥以外に料理を振る舞ったのだって昨日が初めての経験だ。ふたりの好みは充分熟知していて――逆を言えば、冷蔵庫の中身なんて大半は郁弥向けの献立を組み立てるために選んだものばかりで――きっと引かれるよな、こんなこと知られれば。椎名くんあたりならきっと「おまえは郁弥の専属トレーナーかなにかのつもりかよ」だなんて言ってきて、鴫野くんはすぐさま「でもそうでもしないと郁弥って適当に食べられるものしか食べない生活になっちゃうでしょ、中一の時のハルみたいにさ」だなんてフォローしてくれるに違いなくって。
……いやいやいや、何でそんなことばかり考えてるんだ、こうして目の前にいてくれる郁弥に今はちゃんと向き合うべきなのに。
「……いただきます」
少しでも気持ちを切り替えられるように。どこかおまじないめいた気持ちで小さく唱えたのち、ひとまずは、と粛々とベビーリーフを噛みしめる。少し前に駅前のマルシェで農場の人から直接買わせてもらった野菜はどれも、近くのスーパーで買うものよりも多少は割高だったけれど、風味はうんと豊かだ。このところは郁弥とはすれ違いになることも多かったし、期せずして、作り置きではない新鮮な料理を口にしてもらえたのは運が良かったのかもしれない。
――いやいや、そんなことはどうだってよくって。
堪えようのない気まずさに襲われる中、ひとまずは、と目の前の食事に集中する〝ふり〟に没頭していれば、ひどく淡々とした言葉がそこに被せられる。
「旭からさっき連絡着てたよ。昨日は悪いことしたって。ちゃんと言っておいたからね、貴澄のこと連れて帰らなかったこと、悪いと思ってるよね? って」
「……あぁ、うん。まあ」
自分の家だからってつい気がゆるんで呑みすぎたのも、「帰らないでほしい」だなんてわがままを言って、無理矢理に鴫野くんのことを引き留めたのもみんな僕のせいなのに。理不尽に責任を負わされた椎名くんのことを思うと、ちくりと疼くように胸が痛むのを抑えきれなくなる。
ごめんね本当に、この埋め合わせは――どうすれば果たせるのかなんて、ちっとも検討がつかないのだけれど。はぁ、と息を吐きたくなるのを必死に堪えていれば、僅かにトーンを落とした言葉がぽとりと落とされる。
「楽しかったんでしょ、それだけ。まぁわかるけどさ。いいんじゃないの? たまには」
「あぁ……ありがとう」
少しだけ和らいだ口ぶりを前に、ほっと胸を撫でおろすような心地で答えれば、
「どうせバカ旭に無理に煽られたんでしょ? 日和だって兄貴に散々迷惑かけられてきたんだから、その場の勢いだけで呑みすぎたらどんな羽目になるかってことぐらいちゃんとわかってるよね? 昨日のことだってちゃんとは覚えてないんでしょう? それってどれだけ怖いことなのかってこと、日和はちゃんとわかってる?」
「あぁ、うん……そうだね」
気まずい心地でぼそりと答え、ごくり、と深く息をのむ。
昨夜のことは少しも覚えていないわけではなかった。椎名くんが用事で先に帰ってしまったその後――せっかくだからと開けたお酒は口当たりがよくって僕好みで、もう充分すぎるほどに酔いが回っていたはずなのに、ついグラスが進んでしまって……ふわふわと不思議な高揚感に揺さぶられるような心地の中、僕とはやけに距離をおこうとする鴫野くんのぎこちない態度が気になった僕は、鴫野くんの髪を触りたいだなんてことをふいに口に出して――だってほら、椎名くんや山崎くんとはいつでも会う度に遠慮なしにじゃれあっていて、そのようすがなんだかまぶしく見えたからで。
いや、やっぱりどう考えたってまずかった。彼らの距離が近いのはそれだけ気心の知れた仲間同士で、新参者の僕なんかとは計り知れないほどの信頼関係があるからだ。だめだ、きっと呆れられたに違いない、距離感がおかしいとかそんな感じで。
そもそも、酔っぱらいの記憶ほど当てにならないものなんてないはずだ。もしかすれば、自分に都合がいいように記憶を改変してるだなんてことはあり得るんじゃないだろうか? もっとその――鴫野くんに迷惑がかかるようなことをしていた可能性は大いにありうる。想像したくもないけれど……なんというか、鴫野くんを弄ぶようなことを。
じわじわと血の気が引いていくような感覚に襲われていれば、ぎろりと横目に冷たい目線が突き刺さる。
「ごめんなさい、本当に」
こんなので足りるわけなんてないことくらい、百どころか万は承知だけれど。力なく口ごもるようにしながら答えれば、「謝らなくたっていいでしょ」だなんて言葉が浴びせられる。
「いや、でも……」
もどかしく言葉を探すこちらを制するようにと、きっぱりと郁弥は答える。
「要はさ、寂しかったんだよね?」
低く落ち着いた――それでいて、奥底に鋭さを宿した声色が、まるで滞留したかのような室内の空気を僅かに掻き乱す。
堪えようのない気まずさにふと視線を逸らせば、フォークを握りしめた指先がテーブルの上で僅かに震えているのに気づく。まるで、言葉にならない何かを無理矢理に飲み込むみたいに。
「あぁ、まぁ――」
取り繕うようにあやふやな相槌で答え、まだ寝癖の残ったくしゃくしゃの髪をかきあげる仕草でその場をやり過ごすのに必死になる。
浮かれていたのは確かだ。〝郁弥を応援する〟だなんて名目で集まったことならあれど、ただゆっくり過ごすためにこの部屋に来てもらったのは初めてで。その上、郁弥と夏也くん以外に手料理を振る舞うだなんてことだって初めての経験で――よっぽど舞い上がっていたに違いない、自分でも思っていた以上にずっと。きっとそのせいだ、「帰らないでほしい」だなんて、おおよそ普段の自分からは口に出すことなどあるはずもないわがままが出てしまったのは。
まざまざと胸の内を埋め尽くしていく気恥ずかしさに思わずぐっと唇を噛みしめるこちらへと、追撃のように冷ややかな言葉は続く。
「僕に連絡してくれれば良かったのに」
ベーグルを口元へと掲げた手が、ほんのひと時、宙で止まる。まるで何かを言い淀むように唇を引き結ぶと、付け足すようにぼそりと不満げな言葉がこぼれる。
「なにいまさら遠慮してるの」
わざとらしく冷たい色を帯びた声の奥にはほんの一瞬だけ、押し殺したようなかすかな震えが混じっているのに気づく。
「でもほら、昨日は郁弥は夏也くんと会う約束だったでしょ? 邪魔したらよくないよなって」
少しでも、郁弥の揺らぐ気持ちに蓋を出来るように――すぐさま被せるようにそう答えると、郁弥の眉根がぴくりと苛立たしげに動く。
「だから言ったよね、遠慮する必要なんてないって」
兄貴なんか放っておいたってどうにだってなるんだし。
ひどく投げやりで、それでいて時折強くなる声の奥には、どこか不器用な痛ましさが滲む。なんでこんなこと言わせてしまったんだろう、それもこれも、みんな僕のせいだ。気にかけてもらえること、それ自体は嬉しいはずなのに――裏腹に募る罪悪感に、ぎりぎりと息苦しい気持ちがこみ上げる。
無様に言葉を探すこちらを見透かしたかのように、わざとらしく貼り付けたような淡々とした口ぶりで郁弥は答える。
「仕方ないよね。そんなに貴澄と一緒に居たかったんならさ」
「いや、その」
そんな言い方をされるのはちょっと。郁弥がなぜか、このところますます鴫野くんに冷たく見えたことにも関係があるのかもしれないけれど。戸惑いを隠せないまま、ただ黙り込むこちらを前に、付け足すように「ごまかさなくたっていいのに」だなんて言葉が被せられる。
「あぁ、ごめん……でも」
ごほん、とわざとらしく咳払いをこぼし、程よくぬるくなったスープで喉を湿らせてから、覚悟をするかのように僕は答える。
「まぁその――鴫野くんとゆっくり話すのはさ、ちょっと久しぶりだったんだよね。元々さ、椎名くんだってもう少しいられるはずだったんだよ。それが急に帰るだなんて話になったから、勿体ないよなあってことを思って」
しどろもどろに答えながら、もつれた気持ちの糸をほどき直す。
椎名くんの急な帰宅により、鴫野くんとは物理的な距離も随分縮んで――だからこそ、つい出来心で「鴫野くんの態度がいやによそよそしく感じる」だなんて、決して口に出すつもりなんてなかったはずの言葉が出てしまって、その挙句に鴫野くんの髪に触れるだなんて、おおよそ信じられないような迷惑なことまで平気でしでかしてて――だめだ、こんな事言えるわけがない。いくら郁弥だからって言っても。
あてどない思案に明け暮れる中で立てられるカチリ、という冷たい音は一気に時間を〝今〟へと引き戻す。
「それで……、その」
ぶざまに言葉を探しながら、手元のナイフに視線を落とす。直接目を見て話すことはまだ危ぶまれるけれど、せめてこうしてナイフ越しなら―――ぼやけて歪んだ像をぼうっと見つめるこちらを前に、苛立ちを隠せないようすで郁弥は答える。
「貴澄さ、すごく困ってたよ。僕が来れなかったどうしようって本気で思ってたみたい。帰ってからもすぐにさ、ごめんね、ありがとうって連絡きててさ」
消え入るように洩らされる言葉尻には、どこか歪な息苦しさが渦を巻く。テーブルの上へとそっと視線を落とし、おそらく無意識にパンくずを指先で擦ってみせる仕草はまるで、無理やりに押し込めた苛立ちを掻き消すためのおまじないのように見える。
「あぁ……うん」
相槌めいた曖昧な響きでぽつりと答え、間を持たせるようにと、手にしたコーヒーカップにそっと口をつける。
どれだけ迷惑をかけてしまったのだろう――郁弥にも、鴫野くんにも。優しい鴫野くんのことだから、強気な態度ではねのけるだなんてこともきっとできなくて、それで。ぶざまに口ごもりながら必死に言葉を探して見せるこちらをよそに、いやに淡々とした口ぶりで郁弥は答える。
「面白かったなぁ。あんなにうろたえてる貴澄の顔なんて見たの、初めてだったからさ。貴澄っていつも余裕ぶってるみたいに見えたからさ。日和のことだってさ、いつの間にか自分のペースに巻き込んで振り回してたでしょ?」
あれだけでも来た甲斐があったかもね。わずか眉根を寄せ、わざとらしく皮肉めいた囁き声で付け足される言葉は、ナイフを突き付けるようにひどく冷たい。
それはなんというか……その? 手持無沙汰な心地のまま、テーブルの上にこぼれたパンのカスを指先でかき集めるこちらの頭上に、波打つようなどこか不安定に揺らぐ言葉が続く。
「意外だなあって思ったんだよね。貴澄ってもっと器用だと思ってたから。言い方は悪いけどさ、小狡いっていうの?」
「あの、郁弥」
いくら当人の居ない場だからって、その言い方はちょっと。ひどく胸が締め付けられるような心地で言葉を探していれば、じろり、とこちらを睨みつけるようにしながらの言葉が投げかけられる。
「なに、貴澄はそんな奴じゃないって?」
「……あぁ、まぁ」
少なくとも、僕の知っている限りは。消え入るような口調で答えれば、どこかか弱い声色での「知ってるよ、僕だって」だなんて言葉が落とされる。
「まぁでもさ、人って他人に見せない顔がどうしたってあるもんでしょ。特にお酒なんて入った時にはさ」
日和だってその典型なわけだしさ。付け足すようにぼそりと呟かれる言葉は、こちらへと突きつけられるフォークのように無数の風穴を胸へと開ける。
「大体さぁ、お酒が入らないと素直になれないなんて、日和はそれでいいの? そんなんじゃあ貴澄にだっていつまで経っても信用してもらえないよ」
「えっと……それは」
思いがけない〝詰問〟を前に、思わず視線は無様に泳ぎ、少し寝癖がついて跳ねた郁弥の髪がふいに目に留まる。いつもよりもパサついてるんじゃないかな。もしかして昨日、慌てて出てきてもらったせい?
何かを誤魔化すように現在の優先順位からはずっと外れた思案に絡めとられるこちらを前に、いやにおおげさに肩を落とすような仕草と共に、郁弥は答える。
「日和ってそういうとこあるからさ。正直に言えばさ、心配してたんだよね、旭や貴澄が面白がってわざと酔わせるなんてことがあるんじゃないかって。それにさ、もしわざとじゃなくたって、魔が差すなんてことだっていくらでもあるでしょ?」
「ああ……、うん」
何がどうなって過ちが起こるのだろうか、僕と鴫野くんとの間で――いや、確かに昨晩の僕の振る舞いはどう見ても〝そう〟だったことは自覚すべき反省点なのだけれど。でもその、それは?
どこか釈然としないようすのこちらに気づいたのか、こちらをじっと見据えた郁弥の瞳にはますます冷ややかな色が宿る。
「いいから、金輪際日和は僕のいないところでお酒のむのは禁止だからね。そうじゃないと色々と危なっかしいでしょ。僕が来れない時だってどうしたってあるわけだしさ」
「あぁ……うん」
どうしようもなく気まずい気持ちが喉元までぐっとせり上がり、息を詰まらせる。そりゃあそうだ、こればっかりは全面的に僕の分が悪い。鴫野くんだけじゃなくて郁弥にまで迷惑をかけて、それもこれも、ついお酒が進んで気が大きくなったせいで。でも――。
「あの、郁弥――」
聞けるはずもないのだけれど、僕は一体これからどうすれば? だなんてこと、
ひとまずは――次に鴫野くんに会う時には誠心誠意謝ろう。「なかったこと」になんて出来ないのは承知の上で。でも、それからは? そもそも、いくらお酒で気分がよくなっていたからって、なんであんな態度に出てしまったんだろう。〝魔が差した〟だなんて言い訳で済ませていい話なんかじゃないのは百も承知だ。鴫野くんが郁弥に助けを求めたのだってきっと、到底つきあいきれない、だなんて呆れさせたせいに違いない。
どうしよう、昨晩の件ですっかり愛想を尽かされていたら。そもそも、僕が都合よく忘れているだけで、もっと何か取り返しのつかないことをしている可能性だっていくらだってあるのに。みるみるうちに肝が冷えていくような感覚に襲われながら、ひとまずは、と、振り絞るように僕は答える。
「えっと、その……ごめんなさい、本当に」
「貴澄にもちゃんといいなよ、それだけじゃなくってさ」
「ああ、うん……勿論。それで、」
もつれた言葉をぎこちなく吐き出そうとするこちらを制するかのように、ぴしゃりとかぶせるように郁弥は答える。
「貴澄言ってたよ。郁弥が来れない時だったのにごめんねって。今度は僕も来れる日にしよう、そのほうが日和も寂しくないだろうからって」
なんていうかさ、いまさらだよね。ぼそりと吐き捨てるように付け足された言葉は、どこか投げやりな口ぶりとは裏腹にあたたかな色を帯びていて、じわりと胸の奥に穏やかな波紋を広げていく。
ちらりと盗み見るようにした郁弥のまなざしには、どこか複雑な色が宿る。
いつからか自然と、大人数で集まる時の僕の定位置は必ずしも〝郁弥の隣〟ではなくなっていた。
選抜メンバーに選ばれた郁弥が〝元岩鳶中〟の面々以外とも交流を深めていくのは自然な流れだった。そんな中、いつだって周囲のようすを窺うのに必死で、ぎこちなく愛想笑いをこぼすことくらいしか出来ずに居た僕に真っ先に声を掛けてくれるのはいつも鴫野くんや椎名くんだった。
いつの間にか、〝気の置けない友達〟だなんて言える相手はきっとこんな関係のことを指すのかもしれない、だなんてことを思うようになって。その心地よさについ気を許しすぎて、無自覚のうちに彼らに甘えている自分に気づくことも出来なくって。その結果、つい気が大きくなって――あんなふうに醜態を晒す羽目になったのだ、きっと。
いつもよりもひどく苦く感じるコーヒーで朝食を無理矢理に流し込み、深く息を吐く。
まずは謝ろう、許してもらえなくたって。でもその前に……まずはきちんと考えたほうがいいはずだ、どうしてあんな態度に出たのかを。寂しかったから――だけなんかじゃない、きっと。だって、ほかの人には――郁弥や椎名くん相手ならあんなことは言わなかったはずだ。きっと〝鴫野くんだから〟なところはあって。でもそれがなになのかと言えば。
もやのかかったような頭の中に、鴫野くんのくるくると移り変わる表情が浮かぶ。
いつも気の置けないやわらかな笑顔でいてくれることが嬉しくて、それでも、時折、何気ない表情や些細な仕草に心が揺らぐ瞬間がいくらだって訪れる。
こちらに気づいた途端にふっとこぼれる、眉根を下げたやわらかな笑顔、ひどく思い詰めたようすの真剣なまなざし、いつでもまばゆく輝くような明るく澄んだ瞳にほんの一瞬だけ過ぎる僅かな翳り。穏やかに澄んだまなざしの奥で乱反射するプリズムのように光り輝く様々な色――そのひとつひとつに触れるその度に、どこか胸の奥が泡立つような心地になる。それがなぜなのかだなんてことは、少しもわからないけれど。
昨日はアルコールの効果もあってか、いつもよりも少しだけ鴫野くんとの心の距離が縮まったように感じられたのが嬉しくって、ついなんだか気が大きくなって――いつも気さくに笑いかけてくれる鴫野くんが僕に対してどこかぎこちないそぶりでいるのがどうしようもなくもどかしくなって、つい大胆な態度に出たくなって。そんな僕の傍若無人な振るまいを前にただ困惑して見せる鴫野くんがなんだかいやにかわいく見えて、それで――。
一体どうするつもりだったんだろう? 僕は。こんなの立派なセクシュアルハラスメントだ、縁を切られるくらいで済ませていい話じゃない。こういうケースではどこに出頭するべきなんだろう。自身に法学の最低限の知識がないことがもどかしくってどうしようもない。
ぴたりと手を止めて黙り込むこちらを前に、じっと見据えるように視線を注ぎながら郁弥は答える。
「あのさ、日和。そうやってひとりで考え込みすぎるのって日和の悪い癖だと思うんだけど」
「……あぁ、うん。ありがとう」
力なくぼそりと答えれば、まっぐにこちらへと向けられた郁弥のまなざしに宿る色が、いつの間にかすこし和らいでいることに気づく。口元にふっと微かに浮かんだ笑みには、呆れまじりの優しさが穏やかに滲む。やわらかなまなざしはほんの一瞬だけ、どこか遠くを見るような翳りを帯びると、すぐにまたこちらへと戻ってくる。
まずは誠心誠意謝ろう。鴫野くんには勿論だけれど、椎名くんにも。それから先のことは――あともう少しだけ自身に向き合いながら答えを出して行きさえすれば、きっと。どんなに時間がかかったとしても、昨日の過ちを〝なかったこと〟なんかにはできないことは痛いくらいに知っているから。
決意ごと飲み込むようにと、少しぬるくなったスープにそっと口をつける。
(神様、どうか鴫野くんに嫌われてはいませんように。どれだけ甘い考えなのかなんてことも、自らの犯した過ちを「なかったこと」になんて出来ないことくらい重々分かり切ってはいるけれど、それでも)
ふるえる指先をぎゅっと握りしめ、ほんの一時だけそっと瞼を閉じる。今すぐに答えを急ぐことは出来ないけれど、それでも――。〝気の迷い〟だなんて言い訳から踏み出す瞬間はきっと、もうこの瞬間から