ハッピーネバーエンディング「あー、あー、ぁー」
おおきく口を開けて、なけなしとでも言わんばかりの発声練習に明け暮れる。
一時期を思えば随分とましにはなったものだけれど、ひどく不明瞭ですべての語尾に濁点がついたようなひどく情けない声色には、ただ苦笑いしか浮かべることが出来ない。
出席ってどうすればいいんだろう? マスク姿で一生懸命手でも上げていればどうにか気づいてもらえるかな? 誰か仲の良い子に説明してもらう―のも得策ではない気がするし。
やれやれ、と深いため息を吐きながら、ひとまずはまだたっぷりと目盛りの残ったうがい薬で念入りにうがいをする。
「熱や頭痛が治まったのならひとまずは問題はないでしょう。日常生活は通常通りに過ごしていただいて構いません。乾燥を防ぐためにも、マスクは任意ですが引き続き着用されることを推奨致します」
念のために、と朝ご飯の後すぐに受診したお医者さんから告げられた言葉を脳裏で復唱しながら、ストッカーから取り出したマスクの封をやぶって着用し、念のために、と、個包装になった数枚をリュックの外ポケットにしまう。顔半分を覆うような真っ白のマスクをした見慣れない自分の顔は、なんだかいやに大仰に見える。やっぱり色のついたやつでも買っておけばよかったかな、ストリート系のファッションの子がよくしてる真っ黒なやつとか。いや、どこのチーマーだよ、だなんて旭にからかわれるのが関の山か、だったらこれでいいのかな。
いまから学校に行けば午後の授業には間に合う。サークルのみんなには挨拶くらいは出来るかな、グループメッセージにはまだしばらく顔を出せそうにはないってことは送っておいたけど。
ひとまずは休んだ間の分のノートとレジュメを手配してもらって、提出期限に間に合わなかった課題のことは個別に先生に質問に行って―みんなにはまだ会えそうにないっていうのは旭か遠野くんあたりに言っておいてもらえばいいと思うけれど、一言くらいは僕からも伝えておいたほうがいいよね。人にうつす心配はないだろうだなんて先生は言ってくれたけど、万が一ってことはあるわけだし。
ポケットから取り出したスマートフォンには、早速いくつかのメッセージが届いている。
――『いいけど無理すんなよ。つまんねえから早く100パーまで治せよな。講義のノート、借りれるあてがないか聞いておいてやるよ』
いかにも話口調が聞こえてきそうな文面に思わず声を立てずにちいさく笑う。全快になるまでは出来るだけ別行動で、と送ったのをそれなりに堪えてくれているらしい。まぁそりゃあこっちだって寂しいのはおあいこなわけで、いつも通りに口調は荒くとも、気にかけてくれているのは素直に嬉しい。
――『ありがとう。今年の風邪はしつこいって先生も言ってたから旭もきをつけてね、そんな暇ないでしょう?』
なんとかは風邪を~だなんて決まり文句は一応言わないでおく。あんまり辛辣な物言いばかりになるのは、親しき仲にもなんとやらってやつだと思うから。
すぐさまウインドウを閉じると、遠野くんとのやりとりの履歴を開く。
―「ごめんね、帰ってからなんかのどがちくちくしてちょっと咳もでるんだよね。明日の朝になったら病院に行こうと思うので、明日の約束はいったんキャンセルさせてください。遠野くんは気にしないでひとりで出かけてくれていいからね。また埋め合わせさせてもらうね。」
この時は思いもしなかったよね、まさかこれから丸一週間を棒に振る羽目になんて。ふぅ、と大げさに息を吐き、そこから続く一連のメッセージをぼうっと眺める。
そう、この日は気になっていた映画を一緒に見て、その後は近くの本屋さんとカフェに寄り道して帰る予定で――レポートの締め切りに、アルバイトに、大切なみんなとの約束に―平日のちょっとした隙間みたいな時間に顔を合わせることくらいは出来ても、半日以上ふたりきりで過ごせる〝デート〟だなんて随分ご無沙汰だったはずなのに。間が悪い時ってあるもんだよね、だなんて、ほとほと呆れた気持ちになったことをありありと思い返す。
――『そうなんだ、残念だけどお大事にしてね。くれぐれも無理はしないように気をつけてください。連絡は元気になってからで構わないからね。』
すぐ後に通話のマークが続く。迷惑かな、とは思ったけれど、どうしても声が聞きたくなったから。
この時はよかったんだよね、まだ。すかすかに掠れた息を吐きながら、一週間ばかり前の自分に無意味に嫉妬してしまう。
――『ほんとにごめんね、ありがとう。電波越しだとうつさないで済むから安心だよね。ちゃんと治すから、そしたらまたね。』
――『気晴らしになったんならよかったけど、くれぐれも安静に過ごしてね。』
このまま会えないままなのが長引くのなら寂しくなるから。続く言葉を身勝手に想像して、じわりと胸の奥を温められるような心地を味わう。
――『お医者さんに診てもらいました。しばらくは安静にしておくようにだって。たぶん週明けには平気になってると思うんだけど、ひとまず来週いっぱいはみんなとは会わないようにしたほうがいいのかも。寂しいけど仕方ないよね。』
――『熱があがってきちゃって、関節もぎしぎしてる。思ったよりも結構手強いかも。寝てばっかなんだけど、風邪の時って変な夢たくさんみるよね。起きると忘れちゃうんだけどさ。遠野くんも怖い夢見たりしたら教えてね。』
――『心配しないでいいよ、でもありがとう。鴫野くんもなにか不安なことでもあれば何でも聞かせてね。』
語り口がそのまま聞こえてきそうな優しい言葉に、思わずきゅっと胸の奥が疼くような心地にさせられる。
ああ、早く声が聞きたいな。一言だけでも構わないから。もどかしい気持ちに駆られながら、順にスクロールをして、ようやく時間軸が〝いま〟へと追いつく。
――『だいぶ熱も下がりました、心配してくれてありがとう。すごく励みになりました。そろそろ学校にも行けるみたい。また連絡するね。』
――『こちらもじゃまになってたらごめんね、少しでも楽になってきたのなら安心しました。無理はしないように気をつけてね。』
短いメッセージの後には、すっかりお馴染みのマフラーを巻いたしろくまが手を振りながら「お大事に」を告げてくれるスタンプが続く。
実家を離れてひとり暮らし中の遠野くんとは違って、こちらは居候の身だ。万が一のことを思えばお見舞いに来てもらえないのは好都合とも言えるのだけれど、少なからずの「申し訳ない」だなんて気持ちはあるのだろう。半ば強引に押し掛けるような形でお見舞いに伺わせてもらった経験が過去にあるのだからこそ、余計に。
……あの時は思ってもなかったんだよな、こんな関係になれるだなんて。
時間にしてしまえばほんの数ヶ月、そのはずなのに―まるでもう何年も前に過ぎ去った時間みたいに思えるのだからつくづく不思議だ。
すごいよね、ほんとうに。両思いって奇跡みたいなことだよな、だなんてことをこんなにも確かな実感として得られたのなんて、もしかしたら生まれて初めてな気がする。
ちらりと画面の隅の時間表示を確認し、そろりとちいさく息を吐く。
……思い出に耽るのもほどほどにしないと、「いま」が何よりも一番大事なことくらいは知ってるし。
「いってきまぁす」
無人になった家の中へと、不織布越しになけなしの掠れる声で言葉を掛けながら久方ぶりの「社会復帰」へと一歩を踏み出す。
〝声〟って思っていた以上に大切な伝達手段だったんだな。当たり前みたいに行使していたおかげでちっとも気づけなかったけど。半日あまりの時間を過ごして見て、あらためて実感したのがそんな感慨深い気持ちだった。
折よく昼休憩のタイミングでたどり着いた学校でお馴染みのみんなと顔を合わせてすぐさま、マスク越しのざらついてすかすかの声で「久しぶり」だなんて口にすれば、たちまちに広がるのは痛ましそうな表情―そんな顔させたいわけじゃなかったんだけどな、仕方ないけどね。
すぐさま、家を出る前にインストールしたばかりの読み上げアプリにピンチヒッターを頼む。
「ごめんね、もう熱はないし、ふつうに出歩いていいみたいなんだけど声だけまだこんなで」
ロボットになって帰ってきたような心地は、どうにも居心地が悪くて仕方ない。元来おしゃべりな性分だからこそ余計に。
「そっか、大変だね。無理しないでいいよ。出欠の時とかは代わりに先生に説明するね」
「休んでた間のノートとレジュメ取っておいてあるよ。写真で送ればいいかなって思ったけど、直接のほうが見やすいでしょ?」
「先輩にも鴫野くんは声が出づらいみたいでってこっちから話しとくから安心してね」
口々に掛けられる言葉に、「ありがとう」の文字を打ち込むのも面倒で、ひとまずは、とぺこぺこ頭を下げて答えれば、人影の向こうに見知った姿がちらりと覗く。ハルと―時々一緒にいる、同じゼミの男の子だ。
相変わらず既読は付かずじまいのままだったけれど、ちらりとこちらを伺うまなざしはいつもとは打って変わって、ほんの少しだけの憂いを帯びた色が覗く。旭から聞いたんだろうな、たぶん。
文字通りの〝言葉にならない〟もどかしさに、息苦しさがぐっと喉元までせり上がる。
申し訳ないな、なんだか。そんなこと言ったって、「仕方ないだろ」だなんて言われて終わりなのは目に見えているけれど。
ひとしきりのやりとりの途切れたタイミングで、ポケットにしまい込んだスマホを取り出してメッセージを打ち込む。
――『しばらく風邪で休んでたんだけどきょうから学校にきてます。まだちょっと声だけ出ないから、念のためみんなと会うのはもうすこし遠慮しておくね。本調子に戻ったら復帰記念にバスケやりたいから、真琴からハルのこと誘っておいてね』
本人にいくら送ったところで、既読が吐くことすら稀なことを思うと、こうして確実なパイプラインがあることはありがたいことこの上ない。
「きす――」
廊下の向こう側から、すっかり見慣れた気安い笑顔とくっきりと鮮やかな輪郭を携えた明るい声に呼び止められる。声をあげてすぐさま飲み込むあたり、ちゃんと「わかって」くれているようなのがなんだかひどくもどかしい。
(あさひ)
マスクを顎までずらして口の動きだけで伝えればどうにか読みとってくれたらしく、こくこく、と大げさに頷いてくれることで返答が返される。
「ごめんな、呼び止めて。こっちはいまから練習。まだちょっと早いけど自主練してていいって言ってもらえて。おまえは? なんか困ったこととかなかった?」
(だいじょうぶ)
いつもよりも心なしか大げさに首を振って、身振り手振り混じりに答える。
「こっちも調子狂うから、大変だと思うけど早く治せよな。そうだ、あときょう―」
「おい、椎名ー!」
何か口にしかけたタイミングで、かぶさるように呼び声がかかる。
「あぁ、ごめん―大したことじゃないから。また今度な」
ぽんぽんと、子どもを宥めるような仕草で軽く肩を叩かれると、どこかしらわだかまりめいた気持ちがうっすらと残る。
「悪ぃな呼び止めて、また連絡するから。病み上がりなんだから無理すんなよ」
すぐ行くから! きっぱりと大きな声で呼びかけながら、肩にずさりとのしかかる如何にも重たそうなカバンなんてすこしも気にもとめない様子で走り去っていく姿をどこか惚けた気持ちでぼうっと眺める。
やっぱりやだな、こういうのって。旭はちっとも悪くなんてないけれど、なんだか置き去りにされたような気持ちになるから。
ちいさくため息をこぼし、ずらしたマスクを口元へと戻しながら一路、図書館へと足取りを進める。サークルにはまだ顔を出せないし、勿論叔父さんのところにも――時間も、その間にこなすべきことも沢山あるのがまだしもの幸いだ。